夢売り職人「遼」
序章
神域に近いところにいるとされている架空のキャラクターのなかで最もポピュラーなのは、恐らく「竜」に違いない、架空でありながら某プロ野球球団のマスコットキャラクターになっているのをはじめ、日常でもいろんな彫り物や絵画などでもお目にかかる機会が多い
なんといっても「竜」は架空であるのにも関わらず、その姿をみれば、だれもが「竜」だとわかる。中には「竜」を神様として信仰していらっしゃるかたもいる
さらに架空のキャラクターにもかかわらず漢字で書くと「竜」のほかにも「龍」の二つの文字を持ち、男の子が生まれるといずれかの文字を名前に入れて「強い子になりますように」と願うくらいにその影響力は人々に浸透している
二位は「カッパ」ではないだろうか、「架空」というよりは、むしろ「妖怪キャラクター」としてアニメなどに登場する機会が多く、低年齢層には根強い人気を誇る。カッパが神域に近いかどうかは疑問の部分ではあるが、おそらく実在はしていないだろう。最近では回転寿司チェーンのキャラクターにも抜擢されているようだが、これもファミリー人気が高い証明ではないだろうか。「カッパ」もほぼ、その容姿をみればたいていの人がそれは「カッパ」だと認識できてしまう
三位は「ペガサス」、「星の王子様」のもとへ連れて行ってもらえるイメージがあるのか若い女性に圧倒的な人気を誇る
四番目になると「ペガサス」からは大差をつけられることになる
かなりの接戦で「ツチノコ」か「獏」(ばく)か、かなり悩むところである
「ツチノコ」は「獏」に比べると容姿が少し分かりやすい。「へび」と「おたまじゃくし」がひっついたような姿である
もう少し分かりやすく言うと、頭が「へび」で胴体から脚までの部分が「おたまじゃくし」に似た形ではなかっただろうか
「ツチノコ」の場合、名前と存在感は「獏」を上回っていると言っても過言ではないのだが、僅差で「獏」に軍配が上がりそうな事情は架空とはいえ、なんだかそのへんにいそうなツチノコに比べて架空の動物「獏」は「夢を食べる」という不思議な役割を神様から与えられているためではなかろうか
このように名前を挙げていくと、いろんなキャラクターがでてくるのだがここではこれ以上話を膨らませるのはやめて本題の主人公に話題を移そう
先ほどの架空キャラクター番付でいえば30位前後に登場してくるのが「遼」(りょう)という極めて珍しい存在なのだ
いきなり「遼」といわれてもイメージが湧かないのも無理はない、さきほど「ツチノコ」と争った「獏」が、「夢を食う」ということで知られているが、この話の主人公「遼」は人間を相手に彼らの「夢をかなえる」のが「仕事である」
ここで、あえて「仕事である」といったのは「遼」は神様のもとに仕えて天界と人間界を行き来して、神様の指示のもと「人間の夢をかなえる」ことを生業にしているのである
「遼」の体は「竜」のそれとほぼ一緒と思っていただいて差し支えないが、全体的にごつごつしたうろこのようなものはなく「竜」よりも「哺乳類」の温かみを感じる
「遼」の顔、これが最大の特徴であるが困ったことにそれを表現するのが難しいため人間に例えていうと、先日お亡くなりになられた落語家の笑福亭笑瓶さんにチョビ髭を生やしたような顔をイメージしていただくのが近いと思われるが、当氏をご存知ない方はアニメの「ハクション大魔王」の顔をイメージしてほしい。「ハクション大魔王」が分からない人は申し訳ないが、インターネットなどで検索して調べてほしい
続いて「遼」が何をする生き物なのか
彼の役目ははっきりしている
それは、「人の夢をかなえる」ことである
「夢をかなえる」といってもボランティアでやっているわけではない
「遼」は夢をかなえた対価として人間から大切な寿命の一部を拝借することを神様から許されている唯一無二の存在なのだ
神様から与えられたその役目とはいえその商法はかなり残酷なシステムになっていて、その夢の難易度によって対価となる寿命の長さも変わってくる
基本的にはクライアントと呼ばれる対象の人間の夢(願望)がテーマとして神様から直接「遼」に課せられるシステムになっている
神様がなにを基準に、どの人間を選んで「遼」に依頼しているのかは定かではないが、以前「遼」が小耳にはさんだところでは。
うちの神様がお認めになられている信者といわれるものの中から、独自の選考基準があるようだが、おそらく神様が好まれる方法で熱心に「お祈り」を続けている人間や、「アファメーション」という特殊な方法で願望の実現を神様に直接訴えているものの中から順番に夢の実現を手掛けているということらしい
現実的にはそれ以外にもいろんなシガラミがあって特例として「順番ぬかし」をする場合もあるのだが、そのあたりの選定基準が「遼」にはさっぱりわからない
ただ「遼」の個人的な感想としては、過去の仕事を振りかえってみても、けっして世界平和や戦争終結など広く人々のためになるような立派な願い事がその都度採用されているかといえばそういうわけでもなく、どちらかといえば、かなり自己中心的で独善的な内容の「願望」や「要望」のほうが多いように感じられる
時折、神様からの受注表を見ながら「神様はいったい何を基準に選んでいるのだろうか・・・」と小声でぼやくこともあるくらいだ
神様からの依頼が入ると「遼」はその都度、人間界に降りて行って仕事を始める
「遼」はたくさんのユーザーの中から神様がお選びになったクライアントの枕元に夜な夜な出張したうえで、夢の中に入り込んで商談を始める
まずは2000年以上使い古した営業バッグからオリジナルパンフレットを取り出す
あらかじめ神様から聞いている彼の夢を吟味したうえで事前に手作りしているパンフレットを拡げて、まずはシステムの説明に入る
パンフレットにはいくつかの夢の達成方法とその満足度合いに応じた報酬額ならびに支払い方法が記載されている
クライアントは彼からの提案をマジマジと見つめながら自分の年齢と健康状態などからこの先の寿命を頭の中で弾きながら検討を進めるわけだが、基本的に人間がこの先の寿命などわからないのでそこは一つの賭けである
もちろん定められた寿命以上の報酬を支払うことはできない
そこで事前に少し「怪しいのでは」と感じた場合などは「遼」は内緒で「寿命鑑定士」に頼んでクライアントの残りの寿命を確認したうえであらかじめ商品構成を考えてある
このあたりは永年の勘というか、まあまあセンスがある
報酬の額は、夢の難易度や夢の実現期間などによって原則変わってくる
ユーザーは夢の実現後、納得のうえ「遼」に対して寿命を代価として支払うことになっている
「遼」はこのように人間の夢に出むいては、クライアントの「願望」や「欲望」を受注してくるのだが、ここから先の手間のかかる現場作業を下請けに任せてしまっていて、「遼」自身はここのところ、めっきり受注専門業者に成り下がっている
神様はこうした「遼」の手抜き行為に対して最近少し嫌悪感を抱いている
「遼」は、ここから先の作業を下請業界の中でも凄腕で知られている「明」(みん)という職人に依頼している
「明」の腕は間違いない。以前は「遼」もいろんな業者に下請け作業を任せていたが、なかなか「明」の右に出る職人はいない
ただし「明」の場合、その代価の要求はきつい
特に骨の折れる仕事の場合、高額の代価が要求される
しかし「遼」も「明」に頼む以上、そこは致し方ないとおもっている
なぜなら先日「遼」が受けた仕事が「明」に頼むほどの難しい仕事でなかったために若手の「趙」(しょう)という職人に頼んだのだが、そのことがどこからか「明」の耳に入ってしまい「明」が少し臍をまげてしまったことがあった
すっかり現場仕事から遠ざかってしまっている「遼」は「明」のように優秀な下請けにソッポを向けられてしまったら生きていくすべがなくなってしまう
そんな「遼」のヘマもあって「明」は以前にもまして莫大な代価を要求しだした
「遼」は「遼」で、そんな「明」の態度に対して「一体だれのおかげで飯が食えていると思っているのだ」と家に帰って一人でぼやいているだけで、何も歯向かうことができないでいる
たしかに人間の寿命を対価にして彼らの夢をかなえるという権利を神様との契約によって与えられているのは現在この「遼」をおいてほかにいないのだ
にもかかわらず人のいい、いや、「遼」のいい「遼」は面と向かってそれがいえず、「明」の請求通りに毎回支払いを行うべく、やむなく人間からも多額の寿命を徴収しなくてはならない羽目になってしまっている
以前・・といっても「明」に仕事を依頼せずに自分自身ですべて実務をこなしていたころには「遼」の人間からの評判はきわめてよかったのに、ここ最近といえば、その評判の転落ぶりはすさまじく、いまや人々の夢の中では「ぼったくり遼」と呼ばれるようにまで成り下がってしまっている
例として少女の夢をかなえてみます
先日の一例を
いま若者たちの間で大人気の女性アイドルグループ「怒り坂OK31」入りを夢見る「14歳の女の子の夢をかなえるように」という役割を神様から与えられた
この女の子の名前は「大下まりえ」という
「まりえちゃん」は神様が目をつけやすい「アファメーション」などを特別おこなっているわけではない。
神様関連でいえば近所の神社に気が向いたときに訪れては
「怒り坂のメンバーになれますように」
とユルユルにお祈りしている程度である
したがって、日ごろからの彼女の祈りの姿勢に神様が共感してターゲットに・・・
というわけではなさそうだ
この程度の願いを毎回聞いていたら神様も「遼」も忙しすぎて二進も三進もいかなくなるだろう
ではなぜ今回神様はこの女の子をターゲットに挙げたのか・・・
ここからは「遼」にも知らされていない話・・・
「大下まりえ」ちゃんという女の子の前世が、かの有名歌手「青空さゆり」だったのだ
「青空さゆり」は昭和世代のだれもが愛する女性歌手
終戦直後、敗戦から立ち直るために日本国民に勇気を与えた芸能界最大の功労者といって間違いない人物だ。その大物歌手がこの世を去って半世紀近くが経過しようとするいま、大スターの生まれ変わりである「大下まりえ」ちゃんが前世を思い出してかどうかはわからないが、再び舞台上で歌うことを願っているのだから神様としても手を貸さないわけにはいかなかったようだ
「青空さゆり」は前述したように戦後の日本国民を勇気づけ、楽しませた大功労者ではあるが、その一方で暴力団関係者らとの黒いお付き合いが話題になった時期があった
また晩年には激しい飲酒などで体を壊してしまい闘病の末、志半ばでこの世を去った
本来これだけの功労者であれば、神様も天界に近いところで永きにわたってゆっくりと過ごすことを許されるのだが、「青空さゆり」の場合には問題部分もいくつかあったため早期に人間界での「やり直し」を命じたのだった
もともと芸能界きっての功労者「青空さゆり」の生まれ変わりである「まりえちゃん」は一般人がアイドルを目指すのに比べればかなりのアドバンテージがあるのだが、これも本人の志や努力によるところもあるので、今の時点では何とも言えないところが「遼」の腕の見せ所である
ここで少し商品の説明をしておこう
「遼」がクライアントの目標や願望を実現するために神様から許されている方法は大きく分けて2種類ある。一種類目はクライアントの成功を後押しするような方法で業界では
「プッシュ法」
と呼ばれている。この方法の中にも細かく分ければ何種類もある。「プッシュ法」を使う場合は主にクライアント自身の信念に揺るぎがない、「ぶれていない」相手を対象にする場合の目標達成には効力を発するが、基本的にネガティブな状況に置かれているクライアントの場合や、不信感の強いクライアントには効力が少ない。報酬が安くクライアントへの負担もすくないので神様はこの方法を使うことを好まれるのだが、職人の「明」は「プッシュ法」で依頼するといつも「もっといい仕事をよこせよ」という感じで嫌な顔をする。
ここで「プッシュ法」のなかでも代表的なものを2つご紹介する
① 「前提条件」 最も安価で簡単な方法。人が持つ目標や願望に到達するまでの間クライアントにとってのお守り的存在になるような現象を起こすこと。例えば占いを信じる人ならば、有名な占い師から「あなた絶対に大丈夫よ、成功するから」と言われれば、ターゲットであるクライアントはその道で多少の困難があっても挫けない、成功するまであきらめない。といった具合の方法である。少し高度なもので「未来の先写し」といって、成功した自分を夢の中で確認させる方法もある
② 「根回し」 最も多く用いられる方法で主にクライアントの夢や願望が現実と乖離している場合に用いられる。一言で「根回し」といっても内容によって報酬にも大きく差が出てくる。これを使う場合にはクライアント本人には手を加えず、周辺の環境に対してのみの作業とすることが条件になっている
「遼」が神様から許されている二種類目の方法は、少し手荒な方法で
「ストロング法」
と呼ばれている。職人の「明」も多額の報酬が見込める仕事の場合にはとても張り切って請け負ってくれる。ここでも代表的なものを2つ紹介しよう
① 「過去の修正」 ズバリ、クライアントの願望実現に邪魔な過去を強引に取り払ってしまうかマイナスなものをプラスに変えてしまう方法で別名「調伏」(ちょうぶく)ともいう。この方法は、かなり重症なクライアントの願望達成に使うのだが、この場合の注意点は無駄にだらだらとオプションを付けてクライアントの寿命を無駄遣いすることを神様は最も嫌う。かつて天界側が寿命稼ぎのためにこの方法を乱用しすぎて矛盾が生じた挙句、人間界では大きな戦争が起こってしまい、多くの若者が亡くなってしまった例もあるので天界側の共通理解として、できるだけこの方法は使わずにいる
② 「リプレイ」 この方法も名称を見ていただければ概ね想像はつくだろうが、クライアントが過去に遡って・・・「あの時こうしていればよかった」という後悔している場面を再現してあげることでクライアントにもう一度チャンスを与えるという方法。前出の「過去の修正」にも似ているが、この「リプレイ」の場合にはチャンスを与えるだけでそれ以上は「天界側」は何も手を加えない。得てして人間の思考回路、判断・行動習性というものはそれほど時間経過に伴って変化するものではない。なかには「この場面でこうなっていたらよかった」と「夢の実現」のために大切な自分の寿命を使ったにもかかわらず、いざその場面になったら、あの時なぜその方法を使わなかったのかという感情を思い出し、そのまま何もせずに過ごしてしまうことだってある。しかし神様はこのような人間の判断を自分自身で再認識させることも無駄ではないと考えているようで、どうせ「ストロング法式」を使うならば「過去の修正」を使うよりもこの「リプレイ」を使う方が神様の機嫌がいい
ここで少し話はそれるが、神様と長年付き合ってきた「遼」は時折仕事をしながらこう考えることがある。
「この人間は神様に好かれているなあ」
「ああ、この人は神様から嫌われているなあ」
基本的に神様は人間の好き嫌いで願望実現のターゲットを決めているわけではない。先述したように、どのような人間であっても正しい祈り、日ごろの行動やアファメーションなどで意志を通じさせてくることがあれば、概ね聞いてくれるものだが、やはり神様であっても好き嫌いがあるらしく「遼」にそれが分かるのは、神様から仕事の依頼を受ける際に。細かく指示がある人間の場合と、「まあ話を聞いてやれ」という感じの場合があることで概ね察しが付く
もちろん、前者の人間の方が神様に好かれているのではないかと思うのだが、これも「遼」の勝手な推測で、思い違の場合もあるのだが、おそらく過去の経験からいって神様の好きな人間から嫌いな人間まで3段階に分けて上から順を追ってみると
1、 基本的に生まれてきたことに感謝している人間
2、 積極的で前向きであるが自己中心的な人間
3、 愚痴が多く、感謝が足りない人間
上から順番に「神様が好きだろう」と「遼」がいつも思っている順番であるが、言い換えると、ここまでに入っている人はまだまだ神様に救ってもらえる見込みがあると考えても大丈夫なようだ
ちなみに今回「大下まりえ」の場合
「まあお前に任せるからやってやれ」という感じだった
この場合には上記の3に若干の温情が混ざっているような・・・
と「遼」には察しがつく
さて本題に戻るのだが、この少女の願望でもある「アイドル」への道に関して「遼」としては一策を講じなくてはならなかった
なぜならば、この「まりえ」ちゃん、アイドルにとって命ともいうべき容姿に関していえば、どういえばいいのか・・・今風でないというか、少し目力が強めで口も少し「への字」に歪んでいて、なんというか、いかにも負けず嫌いがにじみ出ていて・・・ちょっとアイドルっぽくはないのである
肝心の容姿がそのような具合ではあるが、歌唱力のほうは「青空さゆり」の生まれ変わりだけあって実力がある
でも唯一、小学生のころ音楽の授業時間に先生から「まりえちゃんは上手だけど歌い方が少し大人びていて可愛げがない」
と指摘されて以来、少しイジケテしまい、極力人前で歌うことを避けてきた
当初の神様の若干好みでない部分はそういうところだろうと察しはついた
でも歌は大好きなので自宅の部屋やお風呂では大声で歌っていたため近所では評判だった
「どこからともなくヘタなピアノの演奏が聞こえてくると、うっとうしくて窓を閉めるけど、まりえちゃんの歌が聞こえると慌てて閉めた窓を開けるのよ、近所に住んでいるだけであの歌をただで聞けるのは儲けものね」
と評判になっていた
まりえちゃんがいつも歌う曲は松田聖子や中森明菜など、昭和世代のやや懐メロ的な曲を好んで歌っていた
「アイドル目指すのではなくて、のど自慢に出たほうが近道やと思うけど・・・」
「遼」はいつものように、クライアントの夢と現実のギャップに頭を痛めるのだった
数日後、「遼」が徹夜を続けて考えた企画書が下請けの「明」のもとに届いた
「今回は根回しで・・・」とはじまる企画書の内容を一通り読んで「明」はあきれ顔で・・
「また今回もええ加減な企画、こんな仕事を俺にやらせやがって」
吐き捨てるように言ってから「明」は苦虫をかんだような顔で
「しゃあないなあ」
右手で企画書を握りつぶしながらつぶやいた
「まりえちゃん」はアイドルグループ「怒り坂OK31」のオーディションの手続きをスマホで刻々と進めていることを周囲の誰にも知らせていなかった
一次審査の内容は「何でもいい」から好きな曲を歌っている動画をアップして芸能事務所に送ることだった
ほぼほぼ合否はこの審査で決まるとのこと
この審査に合格すれば後は事務所に出向いて最終の面接を受けるのだが、その際には最終説明会のようなもので、送られてきた動画が本人のものかどうかの確認と本人の意思に揺るぎがないかを最終確認するだけである
それに合格すれば晴れて「怒り坂」のメンバーになるとのことだった
「まりえちゃん」は得意の中森明菜の「飾りじゃないのよ涙は」という難しい歌を一発勝負の決め球に選んだ
一次審査の結果は、夢での商談どおり
「合格」
しかも見事にトップ合格
「まりえちゃん」は事務所から指定された日、指定された場所に学校をずる休みして面接のために訪れた
当日、会場では面接を前に事務所の職員から席についているアイドル候補生たちに向けて説明があった
「この度の『新怒り坂』の選抜にあたって皆様にお伝えします
先日皆様から送っていただいた動画を見せていただいた感想として
今回95点でトップ合格を果たした「大下まりえ」さんをはじめ、皆さんの歌唱力がこれまでのメンバーを大幅に上回っていることが判明しました
こうしたことから、まず従来の『怒り坂』のメンバーを一旦全員卒業させます。卒業した彼女たちは従来通り10代、20代をターゲットにした『すまし坂』という透明感重視のグループに名称を変更して売り出します
そして今回『怒り坂』の新たなメンバーとなる皆様方には、40代以上の年齢層をターゲットにした歌唱重視の日本初となる演歌アイドルユニットとして大々的に売り出したいと考えています」
「異論のない方は、この書類を家に持ち帰って、サインと押印を、未成年の方は保護者の方に説明の上、保証人欄に記載をください・・・」
とまあ、こんな具合だった・・・
きつい職人への支払い
後日「遼」のもとに「明」から請求書が来た、「遼」から「明」への支払はいつも夢が実現するまえの前払いだ
今回の場合、この時点では「まりえちゃん」がこの結果で満足しているのかどうなのか?
もちろん「まりえちゃん」から「遼」への支払は「夢の実現後交渉の上で」とパンフレットの規約に謳われているため、この時点での「明」への支払は「遼」の持ち出し(立替払い)である
「遼」は仕事を「明」に依頼したときから、請求書がくるのが怖かった
したがってここ数日は憂鬱な日が続いていた
まあもっとも今回のようにその場しのぎでくだらない方法を考えて「明」に実行させた「遼」自身の問題なのだが・・・
恐る恐る請求書の封を破って中身を見て「遼」は案の定、愕然とした
請求書には、「寿命10年3ヶ月」と書かれていた
これは、いくら「明」の仕事が確かであるとしてもひどい額であった
当然これに「遼」の取り分である「手数料」を加算するわけだが、「遼」の算定方法で料金を加算すると、少なく見積もっても「13年2ヶ月」になってしまう
業界の掟として、人間から10年以上の寿命を受け取る際には「神様」の決済が必要になってくる
当然「神様」はその内容を最優先で吟味する
今回のようにずさんな企画書と、ごまかしのような内容に対してはほぼほぼ神様の決済が降りないことを事前に「遼」は想定している。このような場合、遼はクライアントに対して9年11ヶ月の請求をする。3年9ヶ月の収入減、原価に対してすら4ヶ月の赤字である。しかも持ち出しだ。
厳しい現状は続く。
これまでに「明」に対して「遼」が持ち出して帰ってこない赤字部分の寿命は裕に100年を超えている。さすがの「遼」も持ち出しが100年を越えると生気が薄れてきた。
「この商習慣はどうにかならないか・・」
「ユーザーに頼み込んで少し値引きして先払いしてもらおうかなあ・・」
「休業しよか・・・」
などと悲観的になったりしていた
しかし2000年以上にわたって守り続けた「のれん」の重みが「遼」に重くのしかかった
「一代でここまでやってきたんや、『明』のような成り上がりの下請けにつぶされてたまるか」
自宅ではいつも強めに心に誓うのだった
翌日「遼」は思い切って「明」の事務所へ交渉に行くことにした
「明」の事務所は、一等地にある
「遼」が訪ねると受付のきれいなお姉さんが「社長ですか、今日はシャレードに出ています。お急ぎでしたら連絡とりましょうか」
と愛想よく尋ねた
さすがに羽振りがいいようで、事務員から受付まで優秀な人材を集めているようだ
「遼」も以前は数人の事務員をやとっていたが、「明」のような下請けに仕事を任せるようになってからは事務仕事が減ってしまったし、ここ数年は「明」の取立てがきつく従業員を雇える状態ではない
「遼」はきれいな事務員に対して「結構ですシャレードは知っています。今から行って来ますから」というと、事務員は「そうですか、社長の「明」にもそのように伝えておきます・・失礼ですけどお名前は」と聞かれ、「遼」は心のなかで「なんやこいつ俺のこと知らないのか、一番の得意先やないか」とおもいながらも
「私は、夢売り専門2000年の夢売『遼』です」と答えると受付け嬢は一瞬ぷっと笑いかけたがそれを必死で押さえ、「これは大変失礼いたしました。いつもお世話になっております」と顔を真っ赤にして言ったが、遼は肩を落として何も言わずに事務所を後にした
「遼」は「シャレード」に向かう道筋こんな卑屈な自分を情けなく感じながら、「夢売り専門の夢売り『遼』です」というキャッチフレーズを2000年間全く変えずにここまできた自分の不甲斐なさに「笑われても仕方ないなあ・・」と思わずポロリとなってしまった
ところで、これから「遼」が向かう「シャレード」という店は「明」が25年前からやっている人間界でいう「クラブ」のような店である
「明」の実業家としての才能は天界でも有数で「シャレード」はその中でも代表的な命稼ぎの事業であった
この店の客として「明」は、人間界で成功し、一時の浮かれ気分にひたっている輩を夜な夜な枕元から誘い出して天界の「シャレード」につれ込んで彼らの「生気」と「寿命」を食いつぶしているのだった
開店当初、この「シャレード」に蔓延っていたバブル時代の不動産屋、青年実業家、証券マンや銀行役員などの成金野郎たちの姿はもうすでに消え去っていた。かれらの生気は十分「明」に食いつくされた挙句とっくの昔に人間界に叩き帰されて・・・
残り少ない寿命を人間界で終えてしまっていた
バブル時代の成金野郎に代わって今この店ではしゃいでいる輩たちは外務省や大蔵省などの役人をはじめ、政界財界やかつて芸能界などで活躍していた大物たちが大半だ、彼らにとってここは極楽浄土、日がたつのも時間の経過すらも忘れて天界での夢見心地が毎日毎日続く、このまま下界に帰ることなくずっと楽しんでいたい
今も輩たちは店内、「所狭し」と女の子を追い掛け回している
しかし、彼らの粗暴な振る舞いが許されるのも時間の問題なのだ
計算高いこの店の主は、この店での飲食代や女の子の接待費用を抜け目なく計算していて客が気付かないうちに毎日欠かさず御愛想をしている
彼らに残された寿命はもうすでに秒読み態勢にはいっている
今は元気がありそうだが、もうそろそろ寿命が尽きて勘定が払えずに下界に追いかえされる者も出てくる
店主の趣味は毎日カタログを広げては下界から次の上客を探すことだった
「シャレード」には信じられないくらいの美人が勢ぞろいしている。
ここへ来た人間の中には自分の寿命を食いつぶされているのもお構いなしで彼女たちに熱狂するあまり、寿命がほとんどなくなってしまっても下界に帰ることなくこの店で気を失ってしまうものもいた
そんな客に対しても抜け目ない「明」は客が絶命する前に
彼が経営する別会社「高速お陀仏タクシー」を使って必ず下界に送り返していた
下界に帰った客は意識不明のまま病院送り、そのままご臨終・・・
というケースも日常茶飯事で「シャレード」同様「お陀仏タクシー」もよく儲かっていた
さすがの「明」もこの店で人間を死なせてしまってはマズイ
神様にそんなことを知られては自分が追放になりかねない
「遼」も以前はここで数回「明」の接待を受けたことがあったが、人間から見ると超美人コンパニオンも「遼」からみれば、化けの皮をかぶった醜い悪魔達でしかない。ここで繰り広げられる光景はまさに地獄絵巻であった
本来このような「明」の商法は完全なるご法度であるが、さすがに「明」は抜け目なく手を打っている
すでに、この世の高官達は、この店の常連として無償で飲み食いをしては時折賄賂となる寸志命を店主から拝借しているのだった
「遼」が「シャレード」に向かうと既に「明」は店の前で待っていた
「遼」に対して「明」はさも迷惑そうに言った
「今日はなんの用ですか。」
言われて「遼」はなんとも言えない気まずさを感じた
「・・やっぱりこのまま帰ろうか・・・」
怖気づいた
が、ここは勇気を振り絞って開き直って言うことにした
「こないだの請求書の件やけど、いくらなんでもあれはひどい・・」と言おうとおもったが、「明」に睨まれて、何もいえなくなった
「今日はお客さん大勢いますので、また今度にしてもらえませんか」 と先に切り出されてしまう
ここでようやく遼の口が開いた
「『明さん』悪いけど今回の支払ちょっと先まで待って貰えませんか」
首をすくめていった
「なにを言っているのですか、私も商売ですからそんなこと言われても困ります・・・
しかしまあ『遼さん』相手にはそういうわけにはいきませんかねえ・・・」
ということで、とりあえず今回の件に関しては特別ということで、10年3ヶ月の支払のうち約3分の1、の3年5ヶ月は、クライアントからの支払いがあってからでいい、ということにしてもらった
「遼」としては、せめて半分の5年くらいは先延ばししてほしかったのだが・・・しかし少しでも話が分かってもらえてよかった
「明」は別れ間際に吐き捨てるように言った
「『遼さん』あんまり人間にええかっこするとあんた自身の寿命が縮みますよ、まあうちは支払いさえきっちりしてもらえていれば、なにもいいませんけど・・・今回みたいなことになったら、次からは黙っていられませんからねえ・・・」
その言葉は「遼」の心に生々しく突き刺さった。けっして痛くはなかった。どちらかと言うと苦しかった、後ろから頭をぶん殴られたと言うよりも、正面からじわりじわりと真綿で首を絞められながら2重3重と真綿を補強していき最後にはロープで首を絞められているような感触だった。それも決して力一杯ではなかった。力は4分程の絞め方だったのだろう。そしてその手を緩めながら「今度は6分で絞めますからね」と了承を求められたようないやらしいいじめられ方をしている自分が惨めに思えてならなかった
「遼」はさらにいじけた・・・「明」は確かにいい腕をしているけど・・ああして人間界から生身の人間を連れ出してその寿命を食いつぶしている
しかしそんな邪道な奴に仕事を頼んでいる自分も自分だし、それに支払のことで泣きついたりする自分は心底情けない・・・
でもよくよく考えてみたら『明』の場合には人間界で腐りきった、なんの役にも立たないような害虫みたいな輩の退治をしているという解釈もできる。それに比べて自分は、なんの罪もない善良な人間の夢にでて、しかも「夢をかなえる」といっては、ここのところ、詐欺まがいでゴマ化したような方法ばかりでその寿命を食いつぶしているのだから、やっぱり俺のほうが悪質なのだろう・・・そのうえ、その代価すらロクに下請けに支払えないとは、ほとほと情けないとしか言いようが無いではないか
自分の不甲斐なさがいつにも増して「遼」の心をえぐった
いっそのこと「夢売り」から足洗って、人間相手の商売は『明』にまかせて自分は細々と生きては行けないだろうか
しかし「遼」のような「夢売り」が「夢売り」をやめてしまえば、神様との契約が切れてしまい同時に彼は抹殺されてしまうのが天の掟だ
いいわけ
「遼」のこうした不甲斐なさと自己嫌悪を神様はおおいに嫌った
早速、神様は「遼」の元に使者を送られた
使者は、「金」といって神様の信頼を厚く受けるこの世での重臣である
この日は「遼」のほうから切り出した
「もうこれ以上『夢売り』やっていたら身がもちません・・『明』に仕事まかせていたら仕事は速いけれど支払が大変でおまけに取り立てもきついものですから寿命食いつぶされてもう私ふらふらです」
「金」は言う
「それは『遼』さん、あなたが『明さん』に仕事を頼むからじゃないのですか。他の職人に頼めないのですか」
『遼』は反論する
「夢売りの下請けに関しては、昔は腕のええ職人多かったけど、今はほとんどの奴がまともな仕事できん、そこへいくと『明』はやっぱりいい仕事をするのです・・・
ずいぶん前の話やけど、「明」が人間のころ、母親の夢かなえるためにわしが骨折った時あいつの母親は、自分の短い寿命をわしに差し出してたった一人の息子がいつまでも末永く元気でいられるように、と言う願いごとをわしに頼んできた。そんな母親のけなげな気持に感動したわしは、「人間界にいてはいずれ限りがあるが、天界にこれば仕事さえ真っ当にしていれば、神様に認められ永遠に生きながらえる」と提案したところ母親は自分の残りの寿命を全てわしに差し出して頼んできたんや。わしは、寿命鑑定士に頼んで母親の寿命を鑑定してもらい「残り13年」の寿命で話を付けた
神様には決済をもらったが、「息子本人にも了解をとるように」とのお達しがあった
後日、事情を息子の夢のなかで話したとき彼は、その依頼を断った。逆にわしに「母ちゃんの寿命を引き替えにとは・・・バカ野郎」と罵倒してきた。もちろん夢の世界の話なので今更『明』もそんなこと欠片もおぼえていないけど・・・
そんな母親と倅の気持に再度心を打たれた私は結局9年でその仕事を請け負った
もちろん人間をこの世で働かせるためには相当な腕を身に付けさせなければならない。そこで私は、天界で唯一の存在だった「夢売り下請け職人」の家元に『明』のことを全て依頼してこの任務を終えた
家元のもとで直接指導を受けた「明」は師匠の技術を見事に自分のものにしていった
わしがこの時に家元にお礼として支払った寿命は13年だったので「明」の母親から預かった寿命から丸4年の赤字だった・・・
全精力で『明』に仕事を教えた家元は、その後『明』に全てを任せて引退してしまった
神様は家元をこの世から抹殺してしまった
もちろん家元ほどの職人だ、『明』以外にも弟子はいたのだが、「明」の腕は際立ってよかった。やり手の『明』は結果的に他の弟子たちを全て追い出してしまい、追い出された彼らは、仕事を失った末、この世から抹殺されてしまった
神様は家元の唯一の後継者である『明』に仕事を他のものにも教えるように指示したが『明』のもとでは、なかなか職人は育たない
結局、今となっては、『明』以外にまともにこの仕事がこなせる職人はいない状況になっている」
使者の『金』は『遼』の長い話を聞き終わってからようやく切り出した
「明の考え方はもともと職人というよりも商売人に近い、それに輪を掛けて昔の苦労があって欲張りになりすぎている部分はたしかにあるな」
『金』に言われて『遼』も答える。
「そうなんや、わしも後悔しているのだけど、あのときの母親の気持になると、どうしようもなかったのですわ・・・」
こんな哀れな『遼』を見かねて『金』は言った
「とりあえず今更言いにくい話かもしれないけれども、『明』の母親からの支払とあなたが家元に支払った差額は、法律上は『明』から支払ってもらえるはずですから裁判にかければ妥当な金額分まで払うように『明』に請求することもできるはずですよ」と親切に教えてあげたが、そうは言ったものの「金」も今更そんなことが「遼」から「明」に対してできそうに無い空気であることくらいは十分察していた
「遼」はその親切なアドバイスには耳を傾けていないかのように返事さえしなかった
「金」は、バツが悪そうにしてから話を変えた
「今度、神様の公認事業で寿命貸業者というのができました」
「遼さんがこれまでにやってきた仕事を担保にして仕事の支払を受けるまでは、業者から借入ができます。そして借入をしている寿命は一定期間後、業者に利息と一緒に支払えばいいのですよ」
「金」が話し終えると「遼」は目を輝かせて思わず「金」の手を握った
「何年単位で貸してくれるんですか」「遼」は目を輝かせて聞いた
「いや、私も詳しくは聞いてないですが、話し合いさえつけば、いくらでも貸してくれるんじゃないですか、なんでも相当な『寿命持ち』のようです」
「本当ですか、そんなことをぜんぜん知りませんでした・・・ところでどこへいったら貸して貰えるのですか、教えてください」
「遼」が先ほどまでの不貞腐れた態度から打って変わって子供のように喜ぶ姿を見て「金」は自分の話が彼に希望を与えたことに満足した
しかし、次の瞬間に「遼」の希望は簡単に失望に変わった
「その業者の名前は『得』といいます」「なんでも繁華街のクラブで『シャレード』言う店の支配人やっていた奴だそうです」
「遼」はがっくりと肩を落として言った
「ああ『得』なら知っていますよ、『明』の元で職人の見習いをやっていたが、使い物にならなかった。しかしそろばん勘定が確かなのを『明』に認められて彼が経営している『シャレード』の支配人に抜擢されたいわば『明』の子分の筆頭みたいな奴ですわ」
「でも遼さん自身はその得とは直接付き合い無いでしょ」
遼の顔を覗き込むようにして「金」は言った
「あんた今までわたしの話で分かってもらえませんか、『明』への支払いのための命を『明』の店の番頭『得』にわしが頭下げて借りて・・・利息まで払って、『明』の独り占めやないですか・・・」
「遼」はついに泣き出してしまった
「わしは今まで神様の使命と思って困った人間のために自分の命も犠牲にしながらつくしてきたのに、またその尽くしてきた元人間である『明』から命借りながら、利息払いながら生き続けて、なんでそんな苦い思いしてまで夢売りしなくてはいけないのか、いっそ夢売りなんてやめてしまいたい」
本来、この日の「金」は「遼」に対して神様からの新しい仕事を依頼しにきたのだが、とてもとてもこんな状況で話を切り出すことはできなかった
少し気を取り直して「遼」は「金」に向かって言った
「ところで今日はいったい何の要件ですか」
「金」は気まずそうに言った
「今日のあなたは感情的になっている様子ですので、また出直します」
「ただ一つだけ言っておきますけど、どれだけ過去に神様からの任務に貢献してきたあなたといえども、夢売りの仕事を辞めてしまうことは決して許されることではありません。したがってこのようなことを口外するのは金輪際おやめ下さい」
そう言われて「遼」はさらにいじけて言った
「いつでも、つまらない仕事ばっかりわしに持ってきて、しかもハイエナの餌食になっているわしの姿を見てもまだいじめるつもりなんか・・・早く帰ってください」
さすがの「金」もそういわれると黙っていられなかった
「あなたいくらなんでもそれはないでしょう、あなたが命で苦労しているのは、私たちの責任ではなく、あなた自身に商才が無いのが原因なのですよ、『明』は寝る間もおしんで仕事をしているじゃないですか、確かに方法はよくなくてもあそこまで命に執着して、ああして事業を拡大していれば結局だれの世話にもならずに生きていけるじゃないですか、それをあなたは、仕事の合間にはいつもごろごろ寝てばかり、たまに起きていてもくよくよと悩んでいるだけではないですか。そんなことでは『明』のことを悪く言えませんよ」
「金」にとどめをさされてしまった。
「遼」は呆然と立ちすくんでいた。「金」もその姿を見てもうこれ以上はここにいてもラチが空かないと判断し、今日のところは一旦引き返すことにした
宮殿に帰った「金」は神様の下で先程の出来事を逐一報告した
神様は、最近の手抜きには多少の嫌悪感を持っていたものの、不器用で優しく、寿命に固執しない「遼」のことをいつも心配していた、というよりも、妙な可愛げのようなものを感じていた
「遼」のように目立った功績もここまで残さずに寿命のやりくりもこれだけ下手ならば本来早々とこの世からは抹殺されても仕方無いはずなのに・・ 彼がのほほんと天界にいられるのも神様の配慮があってこそなのだ
決して神様はこのことを口に出しては言わなかったが、側近の「金」には十分にこのことが伝わっていた
「金」も決して「遼」のことを嫌いではなかった。少なくとも、がめつくて儲け上手な「明」に比べてみれば数段好意を持っていた
「金」は神様に先ほど「遼」が口に出したことを一部始終報告した
「金」がせっかく「遼」のことを思って法律のこと裁判のことおまけに寿命貸し業者まで教えてあげているのに、自分の都合だけで取り合おうとしない意固地な性格や、それを「明」の責任にしてしまっているうえに、せっかく仕事を紹介していただいてくださる神様や「金」を捕まえて「つまらない仕事」等と言って逆恨みしていることも報告した
挙句の果てに「夢売りをやめたい」と言っていたことも隠さず報告した
「金」はいつでも問題が起こると神様に包み隠さず報告した
この日も神様が可愛がっている「遼」のことを主人である神様に全ての出来事を報告した
口から出ただけのことでもある、現にここで「金」さえ言わなければ、証拠も何もないのである
わざわざ神様に言わなくても「遼」さえ正気に戻れば本人次第で解決できる問題ではあった
しかしここまで真顔で報告されたら神様としても「遼」に対して何らかの処罰を課せざるを得なかった
なにせ「金」がうその報告などするわけはないのである
このことについては神様は絶対の自信があった
それが「金」のいいところでもあるのだ
神様はとりたてて優秀とはいえない「金」を自分の側近として重用している理由に彼の正直さ、まじめさ、そしてなにより、自分の好みで何事も判断しない平等意識の強さがあったからだ。要するに超まじめなのだ
神様は困ってしまった
「『金』よ、お前の報告を聞いている以上奴をこのまま放置しておくわけには行かないわなア」
神様がかなり困惑している様子であることを再度確認して「金」も困った
神様は「しかし、奴も不満を口にだしてはいるが誰に迷惑をかけたわけでは未だ在るまいし・・・・なあ」
こういわれては「金」も自分が逆にせめられているように感じてしまう
「そうでございますねえ、すみません」
思わず謝ってしまった
謝られて神様も困ってしまった
正直言ってこんなときは、一方的に「遼」のことを悪く言ってくれるほうが神様としてもやりやすかった
しかしそれは、「金」も同じだった
「『金』よ、奴の言動はわし以外には口外してはならんぞ、このことは、許されざる出来事にはちがいないからの」
神様は正直に報告した「金」をかばうように言った
「これからも、些細なことでもわしに報告してくれよ」
神様は眼を細めて言った
「金」は、これが些細なことなのだろうかと一瞬首をひねりかけてしまった
「『金』よ、いったい奴への処罰はどのようにすれば良いかのう」
「金」は、神様の問いには「さて・・」としか答えることができなかった
神様は、「金」のこの返答を聞いて、問題提議をするときは、その後の対処法も考えてから報告してくれるとありがたいのだが・・と思ったのだが、今の『金』にそのことを要求すれば、もちろんこれからの報告回数が減ってしまうだろう・・・
と当然の結末を思い「金」には何も苦言を言わずにおこうと考えた
神様としては、仕事を効率的に考えるならば、「金」のような正直な者を重用しながら、彼が提議してくる問題事項に対する解決案を考えられるような優秀な者も登用したいのだが、大抵そのような優秀な者というのは要領がよく同時に欲張りであるので、「金」のような者を神様の前からうまく追いやってしまって、いつのまにか、自分の都合のいいことしか神様に報告しなくなってこの世のしくみがおかしくなってしまうものなのだ。これまでにも十分こんなことで痛い目にあってきた神様だった
したがって出た結論は、やはり広く永くこの世のことを考えれば、「金」のような者に提議させて神様自身が結論を出すのが一番いい方法ではないかということになっていた
神様も人間界のことくらいは、十分に把握することができたが、なにせこの世のことは複雑であった
さすがの神様も大方のことはわかっても全てを把握することは不可能だった
「『金』よ、ご苦労であった。奴のけしからん態度については、本来抹殺もありえるところであるが、もう一度わしもゆっくりと考え直して結論を出そうと思う・・・なにせ今となっては、夢売りで人間を救うことが出来るのは奴だけであるからわしも慎重になっているだけだから」と言って神様は、余計な報告をしてしまったのではないかと心配している『金』の心を気遣ってこの日は『金』を帰した
あれからずいぶんたって「そろそろ結論を出さねば・・・」
と少し焦る神様だった
『金』に対しての体裁を考えた神様はそろそろ本件に対する裁定を下さなくてはならなかった
神様は今回の一件については、「遼」だけでなく「明」も処罰の対象にすることにした
「金」は、「遼」の報告と同時に「明」が経営する「シャレード」のことも神様に報告していた。腑抜けた人間共に制裁をくわえることは悪いことではないが、やはりそのようなつまらない人間に対してでも騙して命を食いつぶすのは許されざることなので、今回この機会に「明」にも処分を下すことに決めた
天界裁判
金の報告から一ヶ月後のある日、とりあえず神様は「遼」と「明」を宮殿内の民事法廷へ呼び出した
神様は傍聴席で「金」の見守る中「遼」と「明」に自ら判決を下した。
「まず「遼」に判決を言い渡す」
「お前はこれまでずいぶん長い間、俺の目を盗んでズボラな仕事を続けてきたようだな」
「人間からの評判も随分と落としてくれたらしいなあ、このまま放ってはおけない」
「下界へ降りよ、下界で仕事をせよ」
「はて・・・?」
判決を受けた「遼」のみならず傍聴席の「金」も頭を捻った
「夢の中」というのは「天界」と「人間界」が交信する「唯一の場」であるはずだ
それが「下界へ降りよ」ということはどういうことだろう・・・
周囲のどよめきをよそに神様は続けた
「お前にはこれから無期限でワシが特別枠の仕事を与える」
「その都度の仕事ぶりを100点満点でワシが評価することにする
どれだけの課題になるかわからんが平均で80点以上を取らなければ金輪際、天界へ戻ることを許さん、従ってこれから下界の仕事で得た命もすべて没収のうえ抹殺だ」
要するに、これから神様より与えられる試験的な任務に対して採点が80点未満の場合には「遼」は天界から追放されるのだ
「・・・」
「遼」は何も言葉が出ないが「追放・・これもありかな」と心の中でうっすら感じていた
「聞いているのか、遼」
「・・・ただし80点以上が続けば、これまでのお前の命の赤字分と各方面へのお前の借金はすべてワシが補填してやる」
神様が付け加えると「遼」はうつむいたまま頷いた
「次に『明』に告ぐ、確かにお前の仕事ぶりは卒がなく、経営の才覚も認めるが、副業などの手法が悪すぎるし、命の搾取の仕方など周囲からの評判がよくない、よって今日からは、当分のあいだワシが『遼』に与える課題の仕事に専念すること。これも無期限じゃ、お前も『遼』と同じく下界に降りて仕事にあたるのじゃ、要件は『遼』と同じじゃ」
「・・・」「明」は神様をにらむようにして不満げである
「お前は下請けらしく『遼』の引き受けた依頼をどこまで忠実にこなせるかで評価する。採点方法は『遼』と同様で、・・・かなり厳しいぞ、ただし80点以上の評価が続けば、お前の悪事を帳消しにしたうえであの、妙な店の営業も許可してやる。ただし、もしも80点未満ならば、こんな話は全部なし、『遼』と同じく天界追放じゃ・・・いいな『明』」
神様がこういうと「明」は「はい」と少し不満気味ではあったがするどい目つきで返事した
最後に
「お互いに下界に行けば、これまでの貯金も借金も帳消しだ、自分たちの稼ぎで生き延びろ」
と神様はお告げになられたあと
「ただし、最初の数か月分の命はこちらで担保してやる」
今回の判決に「遼」は一瞬
「追放さえ逃れれば赤字と借金はそのまま帳消しになるのか・・・」
と考えたのだが、それでも長年身についてしまった手抜き癖はもうどうしようもない・・・いずれにしても、ここへは帰れそうにないな・・・
どう転んでもあきらめ顔の「遼」であった
続けて神様は、「遼」と「明」に告げた
お前たちが下界に到着したらまずは自分たちでそれぞれ住処を探すのだ
その住処はお互いに30km以上離れていなくてはならない
住処が決まれば「金」に報告をせよ
すぐにわしのお告げを届けさせる・・・
こうして、天界裁判は終了し、各自自宅へ引き上げていった。
神様は、「金」に「ちょっと甘かったかな」
と聞くと、「金」は「さあ、どうでしょう」と煮え切らない返事をした
帰りがけになって「遼」は、これで借金はいずれにしても返済しなくてもよくなったことで少し肩が軽くなったような気分だ。裁判が始まるまでは即刻抹殺など、もっと恐ろしい展開になると思っていたこともあって冴えない「遼」であったがまだ少し時間の猶予をもらえたようだ。少しニヤケながら裁判所の駐輪所にとめてあった自転車に乗って自宅へ帰っていった
一方、判決に納得がいかないのは「明」だった
裁判終了と同時に駐車場に止めてある自家用のベンツに乗り込んだ
この日運転手を努めた「得」は、あまりにも曇り顔の親分のことが気になった
思わず車を運転しながら、
「親父、判決どうなったのですか」
この質問に「明」は答えなかった
充満した重い空気は車内にどっしり腰を下ろしていた
随分長い間目を瞑ったままの「明」だったが、急に眼を開けて
「おい、このまま『キツイ・ヤミクモ銀行』へ行ってくれ」と唸った
初めて「明」からでた言葉は、真っ直ぐ事務所へは帰らず、メインバンクの「キツイ・ヤミクモ銀行」へ立ち寄る要請であった。
「遼」も「明」も、共に当分の間留守にするため身辺整理が大変である
特に資産の多い「明」に関しては、会社の整理もあるし、財産の保管などもうかうかして没収されてしまったらとんでもない
次にいつ帰って来れるかわからないけど、一文無しなどありえない
大至急手を打たねばならなかった
メインバンクを後にして事務所に帰った「明」は社員を集め事情を話した。「当分の間といっても、全くいつまでか見当もつかないが、神様の指定の仕事をこなすまでは帰ってこれないので会社を整理、一旦閉鎖する」
というと社員は口々に非難の声をあげた
「俺たちの生活はどうなるのだ」
「シャレードの客はどうするんだ」
「退職金は」
などと言いたい放題の苦情を親方の「明」に浴びせかけた。
これまで恐怖感すらにじみ出ていた剛腕経営者「明」の迫力に何も声が出なかった従業員たちだったが、この日の経営者にはそんなオーラは全く感じられなかった
ここぞとばかり「それはないだろう」と全員一致の意見をぶつけた
さすがに「明」もこの情景には堪えた
「おまえら何を言いたい放題言うてんねん、こっちも好きで会社閉めるわけやない、おまえらも、うちの社員やったらどこいっても通用するくらいの心意気でやらんかい」と一喝した
この言葉に社員たちは、沈黙した、女性の職員には泣き出すものもいた
とはいえ「明」にとってもこれまで自分を信じて付いてきてくれた可愛い部下たちでもある
「今から、一人ずつ名前呼ぶから、前でてきてくれ」
「損」「得」「東」「南」・・・
一人ずつ前へでてきた社員には、裁判所からの帰り道に「キツイ・ヤミクモ銀行」でおろしてきた命を退職金として手渡した
「キツイ・ヤミクモ銀行」の封筒を開けて中身を確認する職員たちの反応は、ありがたく拝む者や、涙ぐむ者、ため息をつくもの、さまざまであった
この後、「得」の先導のもと、そのまま事務所で「明」の送別会を開くことになった
なかには帰ってしまう社員もいたが、大方の社員は送別会に出席した
各社員からビールを注がれそのたびに一気に飲み干していた「明」は、「得」が、ビールを注ぎにきたとき小声で「社長室へ来てくれ」「得」の耳元で呟いた。
社長室で「明」は「得」に言った。
「早速明日から下界へいかなあかん、そこで一番信頼できる番頭のおまえに、俺がやり残した仕事の整理を頼みたい、ここに1億命ある、これで整理してくれ、方法はおまえに任す、とりあえず、シャレードの客は全員下界へ帰らせろ、この命の中から、みんなが帰れるだけの命だけ与えればええから、とにかくうちの店で死者は絶対出すなよ、分かったな」
「は、はい」
「その代わりといってはなんやけど、この後のシャレードの経営については、お前に譲ってやる・・・でも、きっとこのまま続けていたら途中でオカミのお咎めが入るはずや、それでもよかったら好きにしてええ」
「得」は「はい、分かりました」といってこの大仕事を引き受けた
「明」もこれで安心したのか、会場に戻ってからは普段は滅多にださない陽気な姿で大酒を飲みまくっていた
ベロンベロンに酔った「明」は、会場をシャレードに代えてコンパニオンに囲まれながら、人間界にいたころによく通っていたカラオケをこの世にきて初めて披露した
「よせばいいのに」を歌っていた「明」の眼には、珍しく大粒の涙が溢れていた
コンパニオンの一人が歌い終わった「明」の介抱をしながら、「社長、こんなん初めてやねえ」と声をかけながら周囲に目を向けた
すると横に座っていた「得」も真っ直ぐまえを見ながら目を真っ赤にしていた
「明」はコンパニオンの膝元で夢も見ずにぐっすりと熟睡してしまったようだ
一方の「遼」は、裁判所から自転車で自宅へ帰ると、身の回りの整理を始めた、ありったけの家財をリサイクルショップへ持ち込んで、店員に査定してもらったが
「一命にもならん品が多いから、悪いけど50命やったらひきとりますわ」
といわれたが、「遼」は喜んで引き取ってもらった
夜になって一人きりで、晩酌をした、冷蔵庫に残った最後の発泡酒を開けると、しみじみと味わって飲み出した
「遼」の頭の中では、裁判所を出たときの充実感とは違った恐怖感が漂い始めていた
「もし、まかり間違って、80点未満だったら、いや、その方が、ずっと確率が高い、この天界から追い出され、下界に行くということは、明日から下界に行ったまま、もう二度とここに戻ってくることはないということなのだ」
そう思うと、「遼」もちょっぴりセンチメンタルな気持ちになった
しかし、ついこの間まで、こんなに借入で苦しめられるくらいならいっそ廃業したい。と思っていたことを考えれば目の上のたんこぶが急にへこんでしまったみたいでありがたい反面、ちょっと気味が悪いような気にもなってきた
下界への旅立ち
翌日、「遼」と「明」の二人は天界空港のロビーで待ち合わせた
「遼」は先に来て待っていたのだが、「明」はなかなか到着しなかった
出発30分前になってようやく登場した「明」の首には、レイのような花輪がかけられたままだった。さらに近づいて、よく見ると、「明」の顔には、無数の口紅がついている
「遼」は、目を疑った。挨拶もせずに「明」はトイレへ駆け込んだ、二日酔いで気分が悪かったのもあったのだろうが、鏡を見てびっくりしたのだろう、20分はトイレからでてこなかった
「遼」は先に搭乗してしまった
「明」も5分前出発ゲートが閉じる寸前に搭乗した。間一髪であった
機内では一言も口を利かなかったが、「明」はさかんにトイレへ行っていて、帰ってくるたびに乗務員を呼んでは、薬を飲んでいるようだった
そうこうしているうちに下界に到着した
「遼」が「明」の席を見ると「明」はぐっすり眠っていた
「遼」が「おい、着いたぞ」というと、「明」ははっと立ち上がり、まずいものでも見られたかのように、「はい」と気まずそうに答え、「遼」のあとに続いた
あの世では、散々いじめられてきた「遼」だったが、ここまでこれば同じスタートラインにたったのも同然、しかも自分の方が施主である
到着ゲートを出た二人は、一旦ここで別れることにした。共に下界での任務を果たすことになったものの、今日からは帰る場所がない
まずは住処を見つけて神様に報告するのが最初の仕事だった
神様はテーマ探しに没頭する日が続いている
とりあえず今の時点では課題を解決する5つの方法を選定して、先日報告を受けた「遼」の新しい住処に「速達」という配達人に届けさせた
一、根回し
二、前提条件
三、先払い
四、リプレイ
五、過去の修正
この日は「遼」の新しい住処でもある文化住宅「ゴロツキ荘」にパートナーの「明」が訪ねてきていた
この中から臨機応変に手段を使用することでクライアントの夢を叶えるわけだ
神様からの伝言メモが付け加えられていた
「課題に対して上記の5つの方法から選んで仕事をすること。手段はあまり偏ってはならない」とメモの余白に記入されていた
これからクライアントの人間から代価を受け取るのは、本人達の自由と書かれていた
ただしその対価に関しては「遼」と「明」「お互いが半々になるように分けること」とのことだったが、二人はこの部分に関しては意味が分からなかった
ここで少し解説をすると、天界裁判の際に神様が、まだ仕事を始めていない二人の命を「担保する」と言ってくれた。
要するに今、下界へ降りてきた二人は自覚がないものの神様から与えられた酸素ボンベのようなもので生きながらえているのである
これからの仕事に対して神様は、これまでの天界における二人の力関係のようにどちらかに取り分が偏ってしまうと次の仕事がくる前にどちらかが絶命してしまう可能性が出てくるので半々にしておけば天界側においては仕事の配分に関しても管理がしやすいのである
「過去の修正」がラインナップに加わっていることに「明」は驚いた。
「過去の修正」は基本的に神様の決済無しでは使ってはならない方法で今までに「明」は使ったことがなかった。しかし今回ここに名を連ねているということは決済なしで使用可能なのだ。
しかし肝心の「遼」はこの文字を見ると暗い過去を思い出して憂鬱になる。
かつて、人間界で様々な革命が相次ぎ、資源や産業の覇権争いが盛んにおこなわれていた時代、人間の欲がはびこっていた。まさにこの時、人類が高度に成長するタイミングでもあっただけに神様の許可を経て「遼」はこの方法を乱用してしまっていた・・・人類世界の発展のために・・「遼」も神様も積極的に支援したつもりだったのだが・・・結果「過去の修正」の乱用が矛盾を生み出し、各地で戦争が勃発してしまった。そして多くの犠牲者を出してしまった。
「遼」にとっては思い出したくない方法だった
一方の「明」にとってはこれ以上ない命の稼ぎ頭が顔をのぞかせたことで腕がなった
「絶対に使ってくれよ」
「前提条件や根回しなどの雑魚では対価寿命が稼げない・・・」
報酬も査定になると聞いていた「明」は下界で命を稼ぐには「遼」の方法選択しかないことを認識していたので、目の前の「遼」に対して声には出さないが無言の圧力をかけ続けた
神様から『明』にあたえられたメモにも伝令が書かれていた。
「おまえの仕事は『遼』の注文に対してどれだけ忠実に適切に仕事をこなすかだけである。勝手に判断したり、『遼』の注文に文句を付けたりすれば即刻退場、抹殺の可能性もあり」
「それと・・・」と付け加えられている
「今日以降、遼の部屋に立ち入ること一切禁ずる」
これまた怒りの筆跡で書かれていた。
ところで
先日の「大下まりえちゃん」である
じつは芸能事務所がこれまでのメンバーを別名に変えてまで「怒り坂」を中高年向け実力派ユニットとしたかったのは、動画での「まりえちゃん」の歌唱力があまりにも素晴らしかったための特別企画だった・・・
ところが当の「まりえちゃん」は合格をもらったものの「可愛いアイドルになりたい」という自分の夢と「着物を着た演歌ユニット」とは、あまりにかけ離れていたので、今回の通知に対して丁重にお断りをしてしまった・・・
今やご本人はアイドルも歌手も諦めて、勉強に励みだしたらしい・・・
なんでも将来の夢が「音楽教師になって歌手を育てるのだ・・・」ということらしいが
この夢の順番が回ってくるのは少し先のことになりそうだ
夢の中での「遼」の支払い交渉に対しても「まりえちゃん」は「ワクワクして面白かった」と全額を円満に支払ってくれた
この結果を見守っていた神様は、鏡の前で目を細めながら
「前世のこともあるからな。今世は地道にやるのもいいだろう」
と小刻みにうなずいていた
「遼」の考えや手法は悪いものの・・・
結果は悪くないな・・・
相変わらず運のいいやつめ・・・まあ80点はやれるかな・・・
「遼」に対する神様の査定はいつものように甘かった・・・
神様のえこひいき
「明」と一緒に神様からのお告げを読んだ翌日、また天界から使者がやってきた
「クロサギ宅配便」の配達人が大きな段ボール箱を2個口で「ゴロツキ荘」に届けて何も言わずに帰っていった
「遼」は一人で中身を確認した
段ボールの中に入っていたのは大きなモニターだった
モニターの縁には大きく光る文字で「TENKAI」というロゴの立派なシールが貼ってある
わりとこういうところに神様のこだわりがみられていた
なかに説明書なるものがあったので読んでみると
「天界モニター」のチャンネル説明
1チャンネル 天界からの「お告げ」が送信される伝達チャンネル
2チャンネル クライアントの夢で交信するチャンネル
3チャンネル 「明」への依頼時に使う送信専用チャンネル
4チャンネル クライアントの過去からの経緯と周辺環境をドラマ調に映すチャンネル
5チャンネル 選択方法による結果を概ね予想するためのトライアルチャンネル
「そうか俺は下界にきたことで、今まで普通に見えていたものが見えなくなったのだな」 「遼」は唯一自分だけが持っていた特別な力を「再認識」した
神様の指示に従いながら天界側でセットアップを続ける「金」はこの5チャンネル目の「トライアルチャンネル」をチューニングしながら「・・こんなことをして、80点未満になることがあるのか?」と疑問に思ったが、
「なるほど・・・」
さすがに察しの悪い「金」にも神様の
「遼は必ず天界に連れ戻す」
という意向を認識できた
いきなり下界に追いやってしまった「遼」のことを神様はよほど心配しているのであろう。
恐らく神様が「明」に「立ち入り禁止」を命じたのも、このモニターを「遼」の専売特許にするためだろう。
大きな声では言えないが、神様の「遼」贔屓には少し呆れてしまう
ただし神様に「遼」の追放を決断させた裏には自分の真面目報告があったことに少し「金」は胸を痛めながら作業を続けた
2個口のもう一つの箱の外枠には「発信専用」と大きなシールが貼られてある
中にはカラオケセットのようなスピーカーとマイクが2本入っていた
一本目は「クライアント用」とシールが貼ってある
要するにこのマイクのスイッチを入れて専用スピーカーにつなげると夢の中のクライアントと交信ができるようである
もう一本のマイクはというと
「『明』用」とシールが貼られてある
これは「遼」から「明」に仕事を依頼する際にスイッチを入れて使うようだが、説明書を読んでみると「明」の方にはこうした設備は一切ないようなので、基本的に「遼」からの一方通行になるようだ。ただしこのことはまだ「明」側は知らないとのことだ
さてようやくではあるが、今回のターゲットを確認するために「遼」は説明書を見ながらクライアントの過去からの経緯と周辺状況をドラマ仕立てにしてある「4チャンネル」の操作を始めた
「白石寛太」
という題名で物語は始まった
この物語の主人公である寛太は高校時代にはアメリカンフットボールの高校生日本代表選手として海外遠征をはじめ、様々な国際大会にも召集されていた
彼のポジションは「ディフェンシブタックル」という守りの重要な位置になるが、相手に当たり負けしない大きな体格の選手がこのポジションを務める
寛太の身体は180㎝120kg
このポジションにふさわしい体格だった
さらに寛太は子供のころから運動神経もよかったので高校卒業時にはたくさんの大学からお誘いがあった
様々な大学からの条件が顧問の先生から聞かされたが、寛太にとって最大の不安は家庭事情であった。サラリーマンだった父親が2年前、高校一年の時にリストラにあっている
父は会社で上司やその周囲とそりが合わず、若いうちから転職か脱サラを考えていたのだが、寛太が生まれてその夢をあきらめ、無理をして働いてきたものの、数年前に会社の経営が圧迫する中、父親はリストラの第一次選択社員に選ばれてしまったのだった。
憧れの六大学からも勧誘は来ているもののいずれも入学金免除のみ
そのほかの一流かそれに準ずる大学は入学金+学費の一部免除という内容が多かった
そこへいくとアメフトの名門「基本大学」は入学金、学費の全額のみならず寮費、食費のほかに若干のお小遣いまでいただけるのだという
寛太が「基本大学」を選択するには若干の不安があった
なぜならば数年前にこの大学のアメフト部内で「暴力事件」が起こっており、それが口火となって理事長の不正経理、脱税などの疑惑で逮捕、理事長解任という過去を知っていただけにここへの進学は今一つ乗り気になれなかった。
しかしこれだけの好条件を出されては・・・
寛太は相当に悩んだ末に「基本大学」を選んだ
「基本大学」に入学してからというものは抜群の環境でアメフトに打ち込むことができたことに寛太は大いに感謝していた。
しかし彼が3年生に進級してすぐ、本学のアメフト部の中でとんでもない事件が起こった
これが「基本大学アメフト部大麻事件」であった。
アメフト部員がなんと寮で大麻を吸っていたのだという。すでに数人が警察に事情を聴かれていて、自白しているものもいるというから、もうこの時点で何のお咎めもなしでは終結できない状況にはなっていた。
事件発覚後、アメフト部は即休部に追い込まれ、数日間の大学側による協議の末、出された回答はズバリ「解散」であった
ただし、学長からのコメントで「学生に不利益は与えない」ということだった
テレビ画面でこの内容を確認した白石寛太の父、白石隆司は酷く心を痛めた
現在は細々ながら自営業を始め何とか夫婦で食べていけるようになっていたが、一人息子の大学進学の際にちょうど自分のリストラで、息子の本意でない大学に進学させてしまったうえに、最終的にはこんな結果になってしまったことをだれよりも悔いていた
食卓でテレビを見ながら隆司は妻の恭子に問いかけた
「どうなるんだろうか」
恭子も両手で顔を覆うようにして
「不利益は与えないって言っているわね」
「ああ・・・」
二人は何の感想もわかない、ただただ「なんてことだ・・・」言葉が出なかった
一方で寛太は、アメフト寮の食堂で部長の説明を他の部員と一緒に聞いていた
部長はアメフト部に出された処分の内容を詳しく説明したうえで、今後の部員の処遇、特に寛太のように特別待遇で入学してきているものに対する処遇はまだ決まっていないという報告をした
寛太は終始部長の話をうわの空で聞いていた
それよりも自分の不運を嘆いていた
正直これまでの人生で自分が不運であると思ったことは一度もなかった
むしろ幸運・ついているといつも感謝していた
しかしこの時ばかりは、まったく身に覚えのない事件に巻き込まれて自分の生きがいでもあり、今後の人生の糧になるべくアメリカンフットボールを目の前から取り上げられた上に、まったく知らない世界に放り出されたような疎外感を感じ、大きく落胆してしまった
「基本大学を選んだのは間違いだったのか・・・」
寛太は生まれで初めての大きな挫折を味わった
後日、アメフト部員たちに通達があった
「とにかく、元凶のアメフト寮を閉鎖するからすぐに出ていけ」
という案内だった。
実家からの通学ができない部員もたくさんいたわけで、そんな学生が取り付く島もないくらいの勢いで追い出されてしまったわけで、もちろん実家が三重にある寛太だっていきなり東京にある本学に通学なんてできるはずがない
「きっとこのままクビになるのだろう」寛太は察した
寮から出ていくのに1週間の猶予はあった、他の部員たちはとりあえず近隣の下宿などをあたったが寛太は猶予期限を待たず、荷物をまとめて何も言わずに東京駅に向かった
隆司の携帯電話が鳴った
「学校辞めて帰ります」
ラインの文字を確認して父はうな垂れた
「ああ・・・申し訳ない」独り言のように唸った
その年の9月の末のことだった
こうして三重県の自宅に寛太は帰ってきた
もちろん全く元気がないし、外に出ようともしない
アメフトのオフで帰ってきた時などは久しぶりに会った友達と話が尽きぬどころかどこではしゃいでいたのか、東京へ帰る当日の朝まで帰ってこないことが当たり前だったのに、今は誰にも連絡とらないし、ましてや飲みに行く気など全く起こらないようだ
父親の隆司もなかなか声をかけにくそうで、「どうしてやったらいいのか」と何時も頭を捻っていた
ただ唯一、母親の恭子だけは一人息子が事情はどうあれ帰ってきたことに喜んでいるのか、夫と二人の時にはいつも近所のスーパーの総菜コーナーがそのまま食卓に並んでいたのが寛太のおかげで手のかかる料理を毎日せっせと作り出した
そのおかげもあってか、自分の部屋からほとんど出ようとしなかった寛太も一週間、10日と経過するうちにようやく食欲だけは出てきたように見えた
しかし、まだまだ元気はない
何をやってもうまくいかない
運動神経がよかったはずの息子に「車の免許でも取りに行ったらどうだ」ということになって通い始めた自動車学校だったが、仮免許試験に8回も落ちる結果だった
自動車学校に行く以外に外に出ようとしない寛太だったが、どういうわけかある中継が始まるとその期間はテレビにかじりついて見入っていた
それはズバリ「大相撲中継」であった
ご存じのかたは少ないかもしれないが大相撲中継というのは本場所中、BSNHKにおいて午後1時から中継がはじまり、途中で地上波のNHK総合テレビに移行してその日の「結びの一番」(最後の取り組み)終了の午後6時までの延べ5時間もの中継が毎日行われている
寛太はこの本場所が始まってから千秋楽までの15日間、毎日5時間テレビの前から離れなかった。
その理由を簡単に話しておこう
寛太は小学校のころ、地元の神社で毎年行われる「わんぱく相撲」なるものに低学年から参加していた
身体が大きく、運動大好きだった寛太は地元の同学年相手に負けることはなかった
6年生のころには三重県大会で優勝、両国国技館で行われる「わんぱく相撲全国大会」に三重県代表で出場した
しかし、さすがに全国大会はすごかった。
他県の代表の中には寛太よりも一回り以上大きな選手がたくさんいた
一回戦では鳥取県代表の「安西君」という選手が相手だったが彼はまだ5年生で体も寛太よりも小さかったため何とか勝てた。
2回戦目の「内田君」という選手は青森県代表、彼もまた5年生ながらこの大会の優勝候補の一人だった
「はっけよい」審判の声と同時に立ち会った瞬間、あっという間に寛太は年下の選手に土俵下まで押し出されてしまった
これまでこんなにも簡単に相撲で負けたことがなかった寛太はすっかり自信を無くしてしまった
唖然としながら、そのまま試合を最後まで観戦していた
準決勝では内田君と同じく5年生の山本君という兵庫県の代表選手が対戦していて、あの強かった内田君が負けてしまった。
「上には上がいるものだ」
寛太は初めて出場した相撲の全国大会を最後に相撲の世界からは卒業した
中学では野球を始めたが、3年生の秋ごろにはどういうわけか、大相撲の「熊狩部屋」から勧誘があった。
寛太自身は「えっ」とびっくりしたが、反面「どんなんだろう」という好奇心もあった
12月のある日、三重県の寛太の通う中学校に「熊狩親方」がやってきた
校長室で初めて見た大相撲の世界の人「熊狩親方」は大きかった
まだ子供だった寛太には親方がこの世のものとは思えない、テレビに出てくる怪獣のようにさえ見えた
「一度稽古を見に来ないか、うまいもの食わせてやるぞ」
怪獣が微笑みかけながら自分に言っている・・・
寛太はあまりの迫力に怯えながらも
「お相撲さんを直に見られるチャンスと、おいしいごちそうが食べられる」
さっそく家に帰って両親に相談したが、父の隆司も母の恭子も
「そんなの見に行ったらそのまま帰って来られなくなったらどうするの」
まるで親方に対して誘拐犯のような言い方をして息子を怖がらせた
そんなわけで、寛太はそれ以来、相撲との縁は切れてしまったのだった
その後、高校入学と同時に始めたアメフトの関係で大学まで進学したが、今回の思わぬ形で中退を余儀なくされてしまったのだった
自分の不運か判断が悪かったのか自責の念がまだやまない寛太であったが、その彼が目を輝かせて見入る大相撲中継の土俵の上には
あの時全国大会で惨敗した相手、内田君が「海部桜」という四股名で幕ノ内力士として午後一時から始まる大相撲中継の大詰めの五時前くらいに登場してきて大活躍していた
もう一人、当時あの大会での準決勝で内田君に勝利していた山本君も「黄桜勝」という四股名で同じく幕の内で内田君よりもさらに後の取り組みで相撲を取っていた(相撲の取り組みは時間が後になるほど強い人という意味)
寛太は、あの時の内田君の肌の感触、力強さを頭の中で蘇らせていた
これまでアメフトだけに青春をかけてきた寛太には新鮮な驚き、帰省してから初めて感じる高揚感と躍動感だった
「ああ、やっぱりこの人たちは強かったのだ」
久しぶりに寛太は笑った
「アッ親方や」
土俵下の審判席に紋付姿で座る熊狩親方を見て
「あの時学校でうまいもの食わせてやる、言うてた人や・・・変わらんなあ」
怪獣のような面影を懐かしく感じて、思わず涙が出てきた
これまでの寛太を支配していた不幸癖を久しぶりに忘れさせてくれた
こうなってくるとまたいろんなことが頭の中を駆け巡る
小学生のころから本格的に相撲の稽古をしていた彼らに負けるのはある意味当然だったのかもしれない。なぜなら当時の寛太自身はほとんど相撲の稽古などしたことがなかった。いつもぶっつけ本番で全国大会まで行って、相撲部屋からのお誘いまでもらったのだから、ひょっとすると自分だって、まだこれからでも成功する可能性はあるだろう
何はともあれ元気が出てきた
ただ・・・これをどうやって相談しようか・・
夕食の際にテーブルで顔を合わせた両親に
「ちょっといいかな・・・」
久しぶりに切り出した寛太の声に両親はそろって頷いた
「おれ、考えたんやけど、このまま家にいるわけにいかないから・・・」
続けてかみしめながら言った
「おれ、お相撲さんになるわ」
・・・・
少し間が開いたが、父の隆司が返答した
「相撲部屋の共同生活はアメフトの寮のようなわけにはいかないぞ・・・」
自分も体験したことがない世界ながらも、相当に厳しいことは想像できた
「うん大丈夫」寛太は目をそらしながら答えた
「そうか・・・わかった」
母の恭子は何も言わずに下を向いたまま首を縦に振っていた
12月中旬のある日のことだった
大相撲の世界はなんと江戸時代から続く特殊な世界である
その昔、時代が明治時代に代わり、これまで一般男性の定番の髪型であった丁髷姿に対して政府から「禁止令」が出た際も法律の但し書きに
「大相撲力士は例外とする」と触書あるほど特殊な存在だったのだ
それから100有余年を経過した今でも丁髷頭の力士の姿は、父の隆司も母の恭子にとっても、テレビで見るだけの存在だった
まあテレビで見るとはいっても大相撲そのものには関心はないので、何かの報道で取り上げられたときかスポーツニュースで目にする程度であった
しかし、寛太がリビングのテレビで昼の一時から夕方六時まで周囲の目を気にせずにずっと見入っている姿を、少なくとも母親は何も思わないわけにはいかなかった。帰宅する父親には毎日のように報告していた。もちろん相撲を見ながら涙を流していた際に遠目にもらい泣きした自分のことも伝えていたが、当の本人は、そんなことは全く気づいておらず、中学3年の際に両親から一喝された大相撲の世界を今回はかなり簡単に受け入れてくれたことに驚いた
「いつから行くつもり・・・」
母親が「もう少しゆっくり・・・」という気持ちで確認すると
「親方に電話して、許可もらったらすぐ行く」寛太は即答した
「えっ親方って・・・」母は父の顔を見た
「熊狩親方、あの中学の時に誘ってくれた・・・」寛太は少しにんまりとしながら言った
「ああ・・・そんな人がいたわね」再び両親は顔を見合わせた
父親の隆司は
「そうだったな、あの時相撲部屋に見学だけでも行っといたらよかったなあ」と後悔した
この後悔の裏には、今更お願いしても二十歳超えた大人が突然入門したいといっても簡単にはさせてはもらえないのではないのか・・・という疑問があたまにあった。また逆に言うとそれが母の恭子にとっては頼みの綱でもあった
もちろん恭子もせっかく少し元気になった寛太の希望は叶えてあげたいが・・・
相撲の世界は厳しいと聞く
親方や兄弟子(先輩たち)と一緒の合宿生活で尋常でない稽古の上に上下関係も厳しく寛太の場合20歳を超えているので年下の先輩たちにもずいぶんとこき使われるのではないか、いじめられるのではないか、それにずいぶん前には稽古中に先輩にいじめられて亡くなった力士のニュースも目にしたことがある。
とにかく心配は尽きない。
どんな世界かわからないだけに、何をどう心配していいのかもわからない
母としてはとりあえずもう少し時間をちょうだい、と言いたかった
しかし、父の隆司は
「そうか、じゃあ早速明日にでも電話をしてみろ」
父はこれまでの寛太の人生にとって自分の責任で負の遺産を背負わせてしまったような気がしてならなかった。
今回だけでも自分の思うように、納得する形で納得するまでやらせてやりたかった
寛太は翌日早速「熊狩部屋」の電話番号をインターネットのホームページで探して
電話をすることにした
「覚えてくれているかな・・・」
若干の不安を抱きながらも受話器を手にした
発信音が続いた
「はい、熊狩部屋です」電話に出たのは年配男性の声だが、熊狩親方ではなさそうだ
「僕はあのう・・・白石寛太と申します、入門の件でお話ししたくて・・・」と切り出すと
「ああそうですか、ちょっと待ってくださいね」といって電話を保留した
「電話を替わりました。熊狩です」
あの時の声だった
「白石寛太と申します」寛太が名乗ると
「知っているよ、覚えているよ」親方はおどけるように言った
「白石君はアメリカンフットボールで活躍していたよね、新聞で時々記事を見ては頑張っているな、と思っていたよ」
寛太は感激で言葉が出なかった
「ありがとうございます」
「ところでどうした・・・」「ひょっとして例の大学だったっけ・・・」
「はい、そうです」
「そうか、気の毒だったな・・・でどうするつもりだ」
親方は少し察しがついているようだったが確認した
「はい、このたびアメリカンフットボールはやめて相撲に行きたいと思って電話しました」
寛太は思い切って言った
「そうか、大歓迎だよ」
親方は快諾してくれた
その夜の食卓で、今朝がたのやり取りを両親に報告した
「よかったなあ」父は息子の思いがまず一つかなったことを素直に喜んだ
母の恭子は心の中で「断ってほしかった」とつぶやいたが、声には出さなかった
「お正月は一緒に過ごせるの・・・」精一杯の叫びだった
「いや、一週間後の12月20日の正午に入門することになった」
恭子の目からは思わず涙があふれた
そのころ「遼」は「ゴロツキ荘」の一室で毎日のんびりと暮らしていた
先日、下界のコンビニで買い占めてきたビールを飲みながら
「ビールは下界のほうがうまいなあ」と独り言を言っていた
そこに突然、天界モニター「1チャンネル」のスイッチが入って
「POINT 1」と表示された
「なんだ・なんだ・・・」
しまい込んでいた天界モニターの説明書をもう一度引っ張り出してきて確認すると
一つ目の課題になると先ほどの表示が出るようである
さて、ここで夢を聞くとしたら誰だろうか?
「遼」はこれまでのいきさつを4チャンネル目で確認をした
早速その夜、クライアントとの交信用の「天界マイク」を交信スピーカーにセットして
「遼」は悩んだ末、父親の白石隆司の夢の中に参上した・・・
交信が終わって今度は「『明』用マイク」をスピーカーにセットしなおして「明」を呼んだ
そして今回のクライアントと周辺環境を説明した後
「根回しで」
と告げた後、報酬の寿命は
「2年半で」
と先にクライアントの白石隆司と交渉した「寿命5年」から半分の自分の取り分を引いて「明」に依頼をかけた
「明」はもちろんそれを聞いて激怒した・・・
がしかし、モニター3チャンネルに「明」の様子は映し出されるものの声は全く聞こえない、「遼」からの一方通行なのだから
「明」は「遼」の住む「ゴロツキ荘」への出入りも禁止になっているので「遼」さえ出向かなければ「明」に会うことはないのである
しかも「明」は「遼」の仕事を断ってしまえば抹殺される可能性もある
この重要な部分のやり取りが「遼」からの一方通行だと知って「明」は
「これは、もうどっちに転んでも俺はこの世で寿命待ちだな」
「まぁもともとは人間なんだもんな」と言いながら「ふっ」と鼻で笑った。
「神様はすべてお見通しだったな・・・」最後に天井に向かって言い放った
「明」の声は「遼」には聞こえなかったが天界で神様は一つ大きなクシャミをしてからニヤリと笑った
大相撲の世界へ
12月20日、寛太の入門当日はまだ夜が明けない早朝5時に三重県桑名市の実家を父の運転と母の付き添いで出発した。
少し早すぎるかと思ったが東京都江戸川区にある相撲部屋の前には約束の30分前に到着した。大きな駐車場があったのでそこに車を止めて、寛太が自分でまとめたスーツケースを車から降ろしてゴロゴロと引っ張りながら熊狩部屋の玄関にむかっていると、すでに玄関前には親方が外に出て待っていてくれた。
大きな親方だった。190cmはあるだろう、しかも横幅もダイナミックだ
「やっぱり相撲で成功する人はこのくらいあるのだろうか?」親方を最初に見た人はみんなそう思うだろう
熊のような大男はこちらを見てニコニコしながら手招きしていた
寛太の一行が到着すると親方は
「熊狩です」と両親にあいさつした後
「待っていたよ、よく来てくれたなあ」と寛太の肩を抱いた
一通り、初見のあいさつと歓迎の親方の言葉が終わると今度は女将さんがやってきて
挨拶をした
「初めまして、女将のサエコです。今日から私がこの子の親代わりです」
父の隆司は「どうぞよろしくお願いいたします」
と丁重に頭を下げた。ただ横では女将の言葉を聞いた瞬間から母の恭子が声を噛み殺しながらすすり泣きだしてしまった
女将は「いつものことね」というような表情でつづけた
「じゃあ早速、持ち物検査するわね、カバン開けて」
言われて寛太は自分で荷造りしたケースのチャックを開けた
「はい、じゃあまず携帯電話出して」
「ああ、はい」といって寛太はポケットの携帯電話を、差し出された女将の手に渡した
「携帯電話は入門1年間禁止です。でも三段目に上がったら許可が出ます。頑張って稽古して強くなれ」女将は表情も変えずに言い放った
・・・三段目ってなんや・・・隆司は心の中で思った
「免許書持っている?」
「はい」寛太が返事すると
「じゃあそれも出して」
女将が車の運転免許書を受け取ると両親に向かって
「せっかくとった免許ですが、お相撲さんの現役中は車の運転は禁止なのです」
「でも更新だけには必ず責任もっていかせますから」と断った
「次にパンツ出して」
先ほどまで泣いていた恭子も手伝ってケースの中のパンツを出した
今風の柄やロゴの入ったカラフルなパンツを指さして
「これはお母さん持って帰ってください。この子の下着は協会から支給される無地のものを使いますから安心してください」
一通り、女将の入管チェックが終了して、再び親方が現れた
その横には親方よりは小柄ながら180cmは優に超える髷の若者が浴衣姿で立っている。
「白石君、この子に見覚えないか」親方が聞く
寛太は「えっ」と一言漏らして考え込んだ
「誰だったか・・・・」
と考えた末
「あっ」と声が出た
「ああ・・・安西君?」
親方の横に立つ若い力士は、寛太が小学六年生の時に唯一相撲の全国大会に出た際に一回戦で寛太に敗れた鳥取県代表の安西君だった
あの日、安西君は試合後、二回戦で負けた寛太のもとに来て一緒に相撲を見ていたのだ。寛太自身は目の前の安西君に一回戦の相撲で勝った後、青森県代表の内田君という年下の力士に負けた悔しさで、少し呆然としながら観戦していたのだが、安西君は一方的に寛太に対していろいろと話しかけてきた
「おれは父親がいなくて、兄弟も多いから、中学卒業したら相撲部屋に入門しようと思っている」と当時話していたのを「うろ覚え」ではあるが頭の隅から引っ張り出した
その時寛太は「俺はもう相撲やめるからこれあげるよ」と言って安西君に地元三重の神社でもらってきたお守りを渡していた
安西君が熊狩部屋に入門後も稽古中にシメコミ(褌のこと)のなかにお守りを入れているのを見つけて、親方から「それ、どうした?」と聞かれて寛太のことを話したことがあった
親方も中学卒業時に寛太を誘ったことを安西にも話してはいたが、安西としてみれば、まさかその後の展開から考えてもここで再会するとは思ってもいなかった
しかし安西君は小学校5年生からずいぶん大きくなったようだ
「あんた運がいいね、安西はうちの若い衆のまとめ役だから仲良くしなよ」
女将さんがにやけながら言った
三重まで帰る車の中、父親の隆司は寛太の幸運に感謝した
隆司は寛太が相撲部屋での共同生活を始めなくてはならないと思った時から、自分が会社を辞めてしまった時のように寛太が人間関係で悩まなければいいと・・・毎日毎夜、祈っていた
「ああ、ひとまずは安心だ・・・」
一方で妻の恭子の涙は、静岡くらいまで続いた
「もう二十歳を過ぎた大人だから大丈夫だよ」隆司は余裕の表情で慰めた
このころ天界会議室では側近の「金」がホワイトボードに向かって今回のあらましを神様に説明している
「今回の件はあの安西君とやらをどこからか連れてきたのか」
神様が冒頭から確認した
「いえ、あの安西君はもともと熊狩部屋に入門していました」
「うーん」と神様は頭をかしげる
「では奴らはいったい何をしたのじゃ」
「はい、女将さんに最後の一言の中で、『安西はうちの若い衆のまとめ役だから』と言わせたようです」
「なに・・・それだけか」
「はい、それだけのようです」
「それで5年もとるのか・・・」
「そのようでございます」
「あきれたやつらじゃ」
「今回は何点にいたしますか」
「これを逐一評価するのはむつかしいなあ、今後の展開も見ながら評価は最後に出そう」
「さようでございますか、ではこの会議も最後だけにしますか」
「いやこの会議は一仕事ごとにやらねばワシも奴らの仕事は理解しかねるわ、その都度、そのほうから奴らに確認して、この会議で報告してくれ」
「承知いたしました」
『金』は承諾した後、気になっていた件を神様に確認した
「あの、『POINT』のメッセージはいりますか」
『金』は少し訝しげに聞いてみた
その問いに対して神様は即答した
「おお、あれは必要じゃ、その都度出してやってくれ、さもないと『遼』には難しいだろう」
『金』は返事もせずに引き上げてしまった
特殊な世界
大相撲の特殊性はあげだしたらきりがない
「大相撲」という名称は日本相撲協会が主催する相撲興行
組織のことである
これだけ聞くと何のことだかわかりにくいが、単に相撲競技のことを示すものではなく、相撲という文化を世界各国に向けて発信する伝統文化の継承団体である
したがって、大相撲はプロ野球やJリーグなどのプロスポーツ団体よりもどちらかというと歌舞伎や落語のような伝統文化組織に近いと筆者は考えている
これら伝統文化の中で外国人に最も人気が高いといわれているのが大相撲である
外国人にとって歌舞伎や落語さらには浄瑠璃や文楽を鑑賞してもよほど日本に精通している人でなくては理解できないし、もっと言えば日本人の私でも理解できないものが多い
ところが大相撲はというと、丁髷を結って着物を着て雪駄や下駄をはいた大男が土俵の上でシンプルなルールのもと数秒の戦いを行う誰にでもわかりやすくエキサイティングな古き時代から伝わる伝統の興行である
相撲そのもののルールはシンプルであってもその社会の掟や規範は現代社会とは一線を画する独特のものである
今回、白石寛太が電話で意思を伝えただけで、そのまま入門できて、そのまま「お相撲さん」になるという部分は、他のプロスポーツと比較しても簡易に感じる。力試しのために入門を志す若者にとっては入門の壁は低いものの、入門後、その道の奥は深く険しい
簡単に大相撲の世界を説明すると
最初にも父の白石隆司が寛太に諭したように「大勢の合宿生活」である。決して家が近いからといって自宅通いをすることはできない。例外として関取というわずかな成功者としての地位を確立した後、結婚などで所帯を持ったものは自宅通いが許される
次に徹底した封建社会である。
現在、部屋は44ある。「熊狩部屋」のように30人を超える大所帯もあれば数人の小さな部屋もある
生活も稽古もすべて部屋単位で行われる
小さな部屋では生活や上下関係は楽でも、稽古相手が少なく強くなれる確率が低い
大相撲での上下関係は厳しい
大相撲の世界の上下関係は年齢ではなく入門の早さによって序列が決められる
したがって父の隆司が心配していたのは寛太が20歳を超えて入門して、年下の子供から呼び捨てにされたうえに、こき使われる姿を想像すると辛くてならなかった
そこに幼馴染の安西君が登場して、しかも女将さんから安西君が若い者のまとめ役と聞いて父は安心したのであった
ただし後から入った後輩が先輩より上位に立つ条件が一つだけある
それは、大相撲の世界で少数の成功者だけに与えられる称号
「関取」になることだけである
大相撲の世界で土俵に上がって相撲を取る人たち全員の呼び方は他の競技のように「選手」とは呼ばずに「力士」と呼ぶ
大相撲力士全員の合計人数は常に600人から700人と言われている
この中の上位70人は「関取」と呼ばれている
約一割の成功者たちである
たいていの若者はこの地位に上がることなく志半ばで土俵を去る
中には入門間もなくして「とんでもない」とあきらめてしまうものも多いようである
しかし、相撲の世界にはそうした彼らにも活躍の場を提供すべく、「行司さん」や「呼び出しさん」などの仕事に就くものもあれば、各部屋の「ちゃんこ番」を引き受けて、料理の腕を磨いて将来独立する者もいる
しかしここまでできる人間はたいした根性のあるものばかりで、大半のものは無許可で「脱走」して姿を消してしまうようだ
入門から一週間がたった寛太
稽古が始まると部屋の奥のちゃんこ番たちが入れ代わり立ち代わり準備を始める
寛太も今日はちゃんこ番だと、台所に向かおうとしたとき
「おい、白石はちゃんこ番やらなくていい」
親方の大声が稽古場に響き、全員に通達が渡った
「えっ」
寛太は戸惑って振り返ると
「お前は何をしに来たんだ?ちゃんこ作っている暇があったら腕立てでもやれ」
熊狩親方の優しい笑顔が目に映った
「ありがとうございます」心の中でつぶやいた
それから数日は土俵の外で「四股踏み」「股割」など相撲の基礎になる形の練習をしながら土俵上の先輩たちの稽古の様子を観察していた
各部屋の相撲の稽古場も地位の低い若い者から順番に稽古をはじめ、最後は関取衆の稽古になる。
関取衆は稽古場に現れると、若い衆の中の地位の上の人たちの稽古を見ながら、叱咤激励をしたりアドバイスを送ったりする
そのあとで、最も地位の高い「部屋頭」と呼ばれるこの部屋の現役力士で一番偉い人「熊菊」が姿を見せて、若い衆に胸を貸す。これが「熊狩部屋」の稽古の形だ
その日に指名されたのは若い衆の中でも体が大きくて強い人だが、「熊菊」に全力でぶつかっていってもびくともしない。「熊菊」は片手でその力士をポイっとぶっ飛ばす。
若い強い人も起き上がってもう一度「熊菊」にぶち当たるが、またしてもびくともしない。
「なんだこのあたりは、お前いったい何年目だ」熊菊は強い人をまた片手でぶん投げる
強い人は土俵の土を全身に浴びて真っ黒になっている
強い人は何度も起き上がっては熊菊にぶつかっていくがその光景に変わりはない
数分もすれば強い人はもう起き上がれない
熊菊は強い人のお尻をけって「早く起き上がれ」といって指を鳴らす
この稽古の様子を観て「ひどい」「いじめてる」という人が少なくないために最近ではあまり表には出さなくなっているようだが、正直、関取になっている力士でこの稽古を人並程度しかやってこなかった力士はいない。
みんなその部屋の誰よりも、たくさんしかも長い時間このぶつかり稽古で関取衆から「かわいがり」を受けてきている
そのくらいお相撲さんにとって、強くなるならこの稽古を・・・いわば登竜門とでもいえる
何日も稽古を見ていて寛太が感じるのは、この熊菊の胸を借りているのは同じ人ばかりである。さすがに毎日ではないが、数日おきに「大きな強い人」が泥まみれになって転がされている。ほかの力士は関取も含めてずっとその光景を土俵周りで眺めている
ぶつかり稽古が終わって強い人が泥まみれになりながら土俵の外で寝たきりになっている
「お前いつまで休んでいるんだ」いつも寛太には優しい熊狩親方の声が稽古場に響く
強い人は立ち上がってゆっくり、ふらつきながら親方の前に向かった
親方は何やらぼそぼそと強い人に言っている
強い人も声にはならない息遣いのまま頭を縦に振って何度も頷いている
これまでのアメリカンフットボールでは経験のない異様な稽古の様子をもうかれこれ一週間以上も見ている
数日後のある日、朝早い土俵上で若い衆が「申し合い」という勝ち抜き戦のような稽古をしていると、ちゃんこ番の若い力士が親方の耳元で何か話している
「なに・・・」親方がちゃんこ番の力士の顔を見て確認した
ちゃんこ番は頷いて答えた
稽古をしていた若い衆たちも一瞬みんなが親方の顔色を確認するために稽古を止めた
「おい何しているのだ、稽古を続けろ」親方は土俵上で勝ち抜き戦を続けるように指示して稽古場を後にした
熊狩親方は若い衆の寝室でもある集団雑魚寝部屋のふすまを開けて中に入った。
そして、押入れをぱっと開けて「ああ」とつぶやいた
敷居がしてある押入れのある部分だけがカラになっている
親方はそのまま何もなかったように稽古場に戻った
その日の稽古終わりにちゃんこを食った後、新米である寛太の耳にも情報が入った
なんでも「大きな強い人が逃げた」ということのようだった
そのことに関してはその時に風のうわさのようにして聞いただけで、その後、誰もその件について話そうともしないし、触れようともしなかった
稽古場から「大きな強い人」がいなくなって、熊菊のぶつかりも数日目にしなかった
しかし、そう思っていたある日のこと、熊菊が稽古場でストレッチを終えた後、土俵の真ん中に立って
「おい新米」
といって右胸を出した
みんな一斉に寛太のほうを見た
「えっ」寛太は気を失いそうになった
大相撲の世界で成功者と言われる「関取」のなかでも最高位は「横綱」おそらく日本人ならば誰でも一度は耳にしたことがあるフレーズであろう
「横綱」に次ぐ第二位の位を「大関」という
いま、目の前で寛太を指名している熊菊はこの大関という地位に長年君臨している
要するに700人近くいる力士たち、いわゆる力自慢の大男の中で2番目に強い人なのだ
その熊菊がロクに相撲経験のない自分に向かって
「おい稽古をつけてやるから向かってこい」
と言っているのである
毎日の稽古中にあの強い人をぶつかり稽古でかわいがる熊菊の怒りの形相は今の寛太にとって毎晩、夢に出てくるほどの「この世で一番怖い人」なのだった
正直このまま桑名の実家に帰りたくなった寛太だが、そうはいかない
とりあえずどうしたらいいのだろう
「は・・・はい」
といって、土俵の中に入った
すると熊菊がいつになくにんまりとした表情で
「いいか、新米、ここにぶつかってきたらいいから、何も考えなくていいから思い切りぶつかってこい」
といって右胸を出した
初めて目にした熊菊の優しい笑顔に一瞬、緊張と緩和が同時に襲ってきたようで目が回りそうになってきた
「よしっこい」
熊菊の声と同時に寛太は思い切り大関の胸に飛び込んだ
あの強い人を毎日簡単に受け止めてポイっと片手でほかすように放り投げていた熊菊が寛太の押しにズズット後ずさりをした
そして「いいぞ、そうやって押すんだ」といって右肩を入れ替えるようにして寛太を放り投げた
「さあ、もひとつ」
といって立ち上がった寛太に胸を出す
これが何回続いただろうか途中で完全に意識が飛んで、何をしているかわからない
「バシャッ」顔に水がかけられた
若い衆のまとめ役、安西が土俵外に放り投げられで気を失うようにして寝転んでいる寛太の顔に桶の水をぶっかけた
おかげで意識が少し戻った
土俵上では大関が腕組みをして待っている
寛太は立ち上がって胸を出した大関に向かっていった
でももう力は出ない、限界だ・・・
「ああ・・・」
「もういいぞ」熊狩親方の一言に大関は土俵から外し、付き人に体を拭いてもらう
拭き終わった体で大関は親方のほうへ向かっていった
親方は誰にもわからない小声で
「どうだ」聞くと
熊菊は「こんな奴は初めてです」と親方の耳に小声で言って首をすぼめた
親方は「よしっ」小声ながら気合の入った眼で答えた
翌日の稽古終わり、寛太は昨日のぶつかりで全身が筋肉痛なのか、故障したのかわからないがとにかくアメリカンフットボールでは経験したことのない痛みに耐えながら後片付けをしていた
そこになんとあの鬼軍曹「熊菊」が声をかけにやってきた
「おい新米、ちゃんこ食ったら、小室公園にこい」とだけ言って去っていった
「小室公園」が分からなかったので、とりあえず安西に聞いてみると
「俺も一緒に行ってやるよ」年下ながら先輩の安西は寛太に優しく言った
「ここが小室公園だ」
公園の手前で安西が指さした
「どうもありがとうございます」
お礼を言って寛太は一人、公園で待つことにした
5分ほどすると熊菊は付き人3人を引き連れてやってきた
一本の大きなタイヤを3人の付き人がゴロゴロと転がしながらやってきた
「はあはあ」と荒い息使いでタイヤを転がしてきた若い衆が大関の前でタイヤを置いた
「おい、お前これを持てるか」寛太に向かっていった
「はい」と言って持ちあげると
「おおっ」付き人たちが声を上げた
なんでも60kgあるタイヤの中に大関は鉛か何かを埋め込んでいてこれが一体何キロあるのかは誰にもわからない代物である
それを寛太はなんとか持ち上げて見せたのだ
大関は驚きもせずに「そのままついてこい」といって
タイヤを担いだ寛太を公園の外に連れ出した
「ううっ」さすがの寛太も限界に近づいた
「よし、ここだ」目の前は坂道であった
この坂道を大関は毎日このタイヤを延々と転がして上っているらしい
持ち上げるのも大変なこのタイヤを転がしながらとはいえ急な坂道を上るのは容易ではなかった
寛太の番になると3人の付き人が寛太の横についてタイヤを気遣った
このトレーニングを何回やったころか隣の公園のさらに奥の道の向こう側から視線を感じた。
若い衆のまとめ役、安西が寛太の様子をじっと見ているのだった
伝統としきたり
その夜のこと・・・
ここ最近は大関熊菊しか出てこない寛太の夢にこの日は龍のように長い生き物が遠い西の空から夕陽を背にして向かってくる
近づいてこっちを見たその顔は何とも優しく包み込むような温かさと滑稽さを併せ持っていた。
思わず寛太は夢の中でこの怪獣に聞いていた
「俺はこの厳しい稽古についていけるのだろうか?この世界で通用するのだろうか?」 声に出さなくとも心の中で怪獣と疎通していた
優しい怪獣は寛太に向かって「うんうんわかった」と合図をして、また西の空に帰っていってしまった
「もうすぐ名古屋場所なんだって」
寛太の母親の恭子が夫の隆司に投げかけた
去年の12月20日に東京の熊狩部屋に入門して早や半年が過ぎて、梅雨の真っただ中
東京の寛太からゆうパックで10枚の番付表が送られてきた
この番付表というのは700人近くいる力士を強い順番に上から書かれている名簿のようなもので、その場所の成績によって次の場所の番付が変わるため毎場所ごとに更新される
よく「長者番付」という言い方をするが、これも江戸時代に当時人気の相撲にあやかって越後屋と白木屋の2大巨頭が勧進元となって各町を代表する金持ちを順に書き出したものが始まりのようだ
この番付表の一番上には太くて立派な「相撲文字」という所帯で関取の中でも「幕ノ内」という地位の力士たちの名前が並べられている
2段目には少し小さくなるが同じく「相撲文字」で関取の中の下位に属する「十両」力士の名前とその横に「幕下」と呼ばれるもう少しで関取になれるかもしれない人たちの名前が書かれているのだが、「幕下」の名前は明らかに関取とは違う細くて弱弱しい文字になる
3段目になるともっと小さな文字で書かれた彼らの地位はその名の通り「三段目」という
2段目はもっと小さくなって「序二段」その下に若干名の「序の口」という最下位の地位の力士の名前が掲載されている。よほど視力に自信のある人でも幕下以下の力士の名前をこの番付表で読み上げるのはおそらく至難の業だろう
12月に入門した寛太は1月に行われた初場所では「前相撲」という会社で言うと適性検査のような相撲を2番だけ取って2勝したことを隆司はインターネット「日本相撲協会公式ホームページ」で確認していたがまだこのころには番付表に寛太の名前はなかった
続く3月の大阪場所は序の口という最下位の位置に寛太の名前を見つけた
「熊白石寛太」と虫眼鏡で確認しなくてはならないくらいの文字だったが、隆司はなんだか嬉しかった。
この大阪場所では寛太は4勝3敗で勝ち越し、一場所で序二段への昇進を決めた
大相撲では70人しかいない関取の地位にいる力士は毎場所15日間毎日相撲を取るので15番ということになるが、序の口から幕下までの若い衆、約600人は場所中7番の相撲を取るので15日間の間、2日に一回か3日に一回、土俵に上がることになるのだが、このことも隆司は初めて知った
続く5月場所で寛太は序二段で相撲を取ることになった。ここではなんと5勝2敗で勝ち越した。
こうして迎えた7月名古屋場所では寛太は先場所の序二段81枚目という地位から序二段48枚目という地位に上がっているようだが相変わらず文字が小さくて虫眼鏡がなくては確認ができない
先にふれたが大相撲中継は場所中、午後1時からBSNHKで放映されているのだが、これは幕下というかなり上位の取り組みからである。実際に相撲の取り組みは毎日8時30分から行われているので、最下位の序の口や序二段の相撲はかなり早朝の開始になるのだ
聞くところによると「アベマTV」というインターネットテレビでは8時30分から始まる序の口の相撲から中継しているようだが、当の家族たちはあまり見たくないものらしく父親の隆司は知人から聞いたその情報も自分の中で知らないことにしていた
「相撲部屋の生活には慣れただろうか」
「元気でいるのだろうか」
「納得したらいつでも帰ってきたらいい」
というような気持でいるものだから、相撲の中継など見る気もしないし、できるだけ気にしないようにしていた。というのが正直な話で、そんなことよりも大雨が降ったり、雷が鳴りだすと、いつも夜中でも起きていって玄関のカギを開けている隆司であった
「名古屋は近いけど会うことはないだろう」隆司は少し低いトーンで妻に言った
「そうね、電話も一度もないしね」妻も答えた
もちろん携帯電話が没収されているのでなかなか連絡も取れないのだが、公衆電話だってないわけではないので何とかなるのだろうが、当の本人にしてみれば厳しい生活の中で里心が付くのも嫌なのかもしれないと両親は思っていた
ご当地場所でもある名古屋場所を寛太は5勝2敗で終えた
隆司はいつものようにホームページで寛太の成績を確認して
「ああ怪我無く元気でやっているのだなあ」とひとまず安心していた
その時、隆司の携帯電話が見かけない着信番号で鳴り響いた
「うーん、誰だ」と言いつつ応答した
「はい、白石です」隆司が言うと
「アッ、オレオレ寛太です」
「おお、元気か」それ以上の声が出ない
「いま近くのすし屋に熊菊関と一緒にいるから『よかったら』って菊関が言ってくれているけどどうだろう」
隆司はこれまた驚いた
「う・うん、すぐ行く」といって電話で聞いた寿司屋に妻の恭子と向かった
妻も隆司も久しぶりに一人息子に会える喜びの反面、相撲のことを全く知らない二人にとってもさすがに日本酒やお茶漬けの宣伝CMによく出ている角界(相撲界のこと)を代表する人気力士「熊菊」の名前と顔は知っている
「どんな顔であいさつしたらいいのだろう」
「何を言われるのだろう、寛太のことでなにか怒られるのかなあ」
心配は尽きない
指定された寿司屋に到着して「貸し切り中」と書かれた玄関を開けてなかに入ると店員さんに奥の個室に通された
そこにはテレビでおなじみの大男「熊菊」とその付き人と思われる若い力士が一人、一般人のような男性が一人、そしてわが一人息子も同席して鍋を囲んでいた
二人の姿を見て熊菊が席を立って
「初めまして、熊菊です」とあいさつをしてくれたので両親もお辞儀をして
「し・・・白石です。お世話になります」といったつもりだったが声になっていなかった
「はじめまして、お父さんお母さんがお相撲のことをあまりご存じないとのこと、息子さんのことを随分心配されていると思って声かけさせていただいたのですが、お忙しいところわざわざ来ていただいてありがとうございます」
テレビで拝見していたあの偉大な「大関熊菊」はニコリと微笑みを浮かべ、寛太の両親に丁重な挨拶をした。
彼の思いもよらない優しい表情に隆司の緊張も解けた。
テーブルの隣で黙々と鍋のフグを食べ続ける力士の中に寛太もいた。
時々両親の方をチラッと見たが、「にやり」ともせずに食べていた。
このあとも「熊菊」は「お父さんお母さんもどうぞ」と料理を進めてくれながら話を続けてくれた。
「この世界は本当に厳しいです。いまわたしはこうして『大関』として成功することができましたが、ここまで来るまでの稽古の苦しさや辛さは、あまりの激しさに記憶がないくらいです。殆どの人間が『関取』になる前、夢半ばに辞めていきました。700人いる力士の中で『関取』と言って給料がもらえる人間はちょうど一割の70人だけなのです。その70人になるためにみんな頑張っている。幕下以下の力士を目指して頑張っている人間なんて誰ひとりいないのです。幕下から関取である十両という地位に上がるかどうかという力士たちはまさに戦国時代、足の引っ張り合い、相手がけがをしても何とも思っていないし、むしろそのくらいの根性がなくては上に上がれない世界なのです。仮にわたしは今『大関』というこの世界で2番目の地位にいますが『1億円やるから幕下からやり直せ』といわれても絶対嫌ですし、上がる自信はありません。そのくらい幕下から十両に上がるのは厳しい」
「そうなんですか」夫婦は目を合わせて肩をすぼめた
「この世界で勝ち抜くためには稽古するしかないのです。きっと彼も強くなるために入ってきたと思うのです。」
「そうですね」と隆司は相槌をうちつつも息子が一割の成功者に入れるだろうか?少し不安になった。
熊菊はさらに続けてくれた
「でも彼は出来ると思います。まだ入って間もないですが、自分から私に『一緒にトレーニングをやらせてください』と言ってきた。こんな若い衆は初めてです」
寛太は少し料理をのどに詰まらせそうになっていた
「わたしはこれまでたくさんの若い衆に稽古をつけてきましたが、彼ほどの可能性を感じたのは初めてです。おそらく私の入門時の数倍は力がある。」
「これだけの才能があるのだから『絶対に出世する』という気持ちさえ忘れなければ、大丈夫、わたしが『関取』にしてみせます。でも本当に厳しいということだけは本人もご両親も覚悟して欲しい」
隆司にとってこんな有難い話はなかった。本当に涙が出る思いだった。
このあとも「熊菊」からいろんな話を伺ったが、おそらくその話だけで一冊の本ができるような内容だった
隆司は恐れながら「彼は大人なので、覚悟は出来ていると思います。『大関』のように神様のようなかたにそう言っていただけるなんて夢のようです」息子の言葉を代弁した。
しかし寛太はご馳走を食べながら「余計な事を言うな」というような表情で隆司を見た。
最後に「みんなで写真を」との大関熊菊からの計らいで、夫婦と息子を、その横に大関にも入っていただき、店の人に写真を撮ってもらった。この写真はこの先も家族にとって大切な「家宝」となっている。
夫婦はこのあと「大関」始め同席の兄弟子たちにも丁重に挨拶をしてその場を失礼した。
夫婦の車を駐車場で見送る大関の横で寛太も立っていたが、その姿は何となくではあるが自信がわいてきたような堂々さが感じられた
隆司はこの日口にした料理の味を殆ど覚えていない。
しかし妻の恭子は「あのフグいいフグだったね」と帰りの車中で言っていた。
やはり女性は強いというか図太い。
あのような億万長者のような成功者と先日まで引きこもりのような生活をしていた若者が一つ屋根の下で生活をして、いろんなことを教えてもらえる
「本当に特殊な世界なのだなあ」と隆司は感心した
そのころ天界会議室では例の反省会が行われていた
「今回のクライアントは寛太だったんだよな」
神様は側近の「金」に確認した
「そうでございます」
「やはり前回からの間隔が短かったかのう、わしも間違って「POINT2」のスイッチを押してしまったのでなあ」
「はあ」と少し笑いを殺した返答で「金」は流した
「今回の方法と報酬は」と神様は確認した
「方法は前提条件で報酬は3年です」
「そうか、あの若者の3年ならば問題なかろう、しかも両親も喜んでいたようだしな、『遼』も腕を上げたなあ」
「いえ、今回の内容はほぼほぼ『明』のオリジナルです」
「・・・・・」
神様は少し苦い表情をしてから目をつむって言った
「次からはお前がPOINTのスイッチを押してくれ・・・」
三段目
熊白石こと白石寛太は名古屋場所で勝ち越したことで入門からわずか9か月目の9月場所では三段目100枚目に昇進した。待望の三段目だ。
入門の日に聞いた女将さんの言葉通り、三段目の昇進と同時にお蔵入りしていた寛太の携帯電話が約束通り手元に返ってきた
親方や大関熊菊からは「お前は三段目まではストレートに行くだろう。そこから先が本当の勝負だ」と言われてきた
しかし寛太が所属する熊狩部屋の若い衆の大半は三段目まで昇進できずに序の口、序二段で苦戦しているのだった
年齢のハンデがあるものの入門当初から「ちゃんこ番免除」でしかも大関熊菊からは特別に目をかけてもらって、熱く厳しい指導を受けていることに対して面白くないと感じるものが大勢いるのは致し方ない
10代の先輩力士からのやっかみは寛太にとって非常に厄介であった。しかし日中に起こる目に見える行為に対してはその都度、入門5年目で若い衆のまとめ役でもある安西が蹴散らしてくれていた
しかし寛太の三段目昇進を機にその陰湿さはエスカレートしだした
まずは寛太が大切にしていた大学入学の際に祖母からもらった高級時計がなくなった
これも盗難かどうかが分からないが、ほぼ嫌がらせに間違いない。なぜならいつも大切に保管しているものだったから
次に、ようやく手元に帰ってきた携帯電話だったのだが、夜中の一時にアラームが鳴りだした。当然起きてすぐに解除したが同部屋の先輩からは鬱陶しがられた
翌日、寝る前に確認したらこの日もアラームがセットされていたので解除した
ところがその日は夜中の1時にどこからか着信音が鳴った。
確認すると「非通知」であった。せっかく手にした携帯電話だったが、この時以来、自分から電話を掛けるとき以外は常に電源は切っている
入門5年目の安西は去年、三段目から初めて幕下に昇進した
この時、熊狩親方から「熊勝機」という四股名をもらった
大相撲の花形力士といわれ、全体で700人いる力士の約一割70人だけの関取は各相撲部屋にたいてい数人しかいない。
大所帯の熊狩部屋でも現在は大関の熊菊をはじめ3人しか存在しない
したがって次に関取を目指す位置にいる幕下の力士は各部屋でかなりの権力を持つ
幕下力士の多い部屋は活気があって強い力士が育つといわれている
しかし幕下力士の本場所での相撲は先の料理屋で熊菊が寛太とその両親に話した通り、熾烈を極める
全員が目の前の関取の椅子を奪うがごとく手段を択ばず勝ち星を奪い合う
例外にもれず「熊勝機」こと安西は幕下昇進最初の場所こそ勝ち越したが、翌場所の取り組み中に大きな体の相手に上から覆いかぶさられる形になり右ひざを完全に損傷してしまった
安西は寛太の入門時にはすでに膝を損傷していて、足を引きずるようにして歩いていた
せっかく幕下まで出世した番付も休場続きでいまは番付外まで下がってしまっている。第一稽古をまったくできないでいる
入門9か月の寛太はいまだに安西の稽古姿を土俵上で見ていない
いつも安西は土俵の周りで膝のリハビリを兼ねたしこふみなどで体を鍛えていた
そんな安西ではあったが、目が行き届く範囲では常に寛太を守ってくれた
「おい、白石、ジュース買ってこい」
と、いつものように偉そうぶり代表格のような10代の年下兄弟子に対して、安西がどこからともなく現れて「お前何様だ」とみんなの前でたしなめてくれた。
おかげでそれ以来、寛太が理不尽な買い出しに行くことはなくなった
その後も稽古ができないまま安西は、これ以上回復が見込めないと判断してか22歳を機に引退することになった
寛太は、いつもかばってもらうばかりで何も恩返しができていない安西に対して申し訳なく思っていた
安西が部屋を去る日、寛太は安西の荷物を持って最寄りの駅まで見送った
「安西さん本当にありがとうございました」と心からお礼を言った
それ以外に何も言えなかった
安西は「俺もまだ22歳だし大学卒業する連中と同い年だからどっかに紛れて就職できるかな」と冗談交じりに言いながら去っていった
数日後、寛太は押入れの自分の荷物を整理していた時、名残惜しくとっておいた中身のないはずの高級時計の入れ物の位置をずらそうとしたとき、ありえない重量感に驚いた
ふたを開けてみると案の定、元通りに高級時計が座っていた
あるはずのなかった時計をじっと眺めていた寛太の目にはかすかに涙がにじんだ
「返さなくてもよかったのに・・・」
「おれは結局あいつに何もできなかった・・・」
寛太は小室公園で、熊菊とトレーニングをしていた時、遠目に感じた安西の視線を思い出していた
そのころ天界会議室では例によって神様と側近による反省会が行われている
「おい、ちゃんとPOINT3のスイッチは押したか?」
神様は側近の「金」に確認した
「はい」
「ではどこでなにをしたのだ」
「・・・・・」
「金」は気まずい表情をして続けた
「確認いたしましたところ、どうやら夢には出たそうなのですが、「遼」のほうから相手の要望を断ってしまったようです」
「なに・・・現場にまで行っておいて何もしなかったのか?」神様は表情を曇らせた
「もう少し詳しく説明せよ、いったい誰の夢に出たのじゃ」
「はい、安西とやらの・・・」
「ほう、それで」
「過去の修正の依頼を受けたらしいのですが・・・」
「どの部分の修正じゃ?」
「は・・はっきりと申しませんで・・・」
「あいつは一体何を考えているのじゃ」
「さあ」金はまたしても返答に困ってしまった
「まあ、いいだろうPOINT3は『遼』の棄権だな・・・」
これも後の評価の対象になることは間違いなさそうだ
POINT4
安西が去って、数か月が経過した11月、寛太は入門3年目、3度目の九州場所に臨んだ
この場所、寛太は3段目9枚目に番付を上げていた
実はこの前年5月場所では三段目5枚目という番付まで出世したことはあったのだが、その場所の取り組み中になんと土俵のタワラに足の指を突っ込んでしまい右足親指を骨折してしまったのだった。
それでも休場こそしなかったものの、その後数場所、負け越しが続いたのだった
その後回復を待って勝ち越しを続け、ようやく番付を9枚目にまで戻すことができた
この九州場所で勝ち越せば初の「幕下」力士となる
少し気の早い話であるが、この幕下120人の力士の上はもう関取である
関取になれば月に100万円の給料がもらえる。力士として入門した以上、全員が目指す最大の目標の地位である
とはいうもののたった70人しかいない関取の地位は限られた人間だけの勲章でもある。入門時に将来を嘱望されてきたものの中でもその地位まで登りつく人間はごく僅かである。実力はさることながら運もなければ手に届かないのが「関取」の地位である
そういう事情もあって、たいていの力士にとっては関取の一歩手前の「幕下力士」という地位まで上り詰めれば力士としては、まずは「一人前」と世間的には認められるものである
この九州場所、対戦相手の途中休場による不戦勝も初めて経験するなど運にも恵まれ、見事に5勝2敗で寛太は初めての幕下昇進を確実にした
この場所で寛太が5勝目を挙げた千秋楽、桑名の実家に熊狩親方から直々に電話が入った
「幕下昇進おめでとうございます」
親方から電話に出た父の隆司に祝福の言葉を投げかけた
その電話ではこれまでの寛太の稽古での頑張り、将来性について「まだまだ期待できる何とか早いうちに関取に」と太鼓判を押された
「そんなにも大変なことなの?」
妻の恭子の拍子抜けする疑問に隆司は少し興奮気味に答える
「先日、寛太が小学生のときに相撲の全国大会に引率してくれた役場の北村さんと町内の会合で偶然出くわして、話しかけられたのだけど、寛太が幕下に上がったら『テレビに映る』って言って喜んでくれていたよ」
「しかも、北村さんは子供の時から『この子は強かった』ってみんなに自慢していたよ、挙げ句に『関取に昇進したら町内で化粧まわしを作ってやりたいな』って言っていた」
「へえ、観てくれているのね」
「黙っていたら何にも言われないけど、話をしてみると意外と観てくれている人はいるものだ、近所の人からも何回か声をかけられたことがある」
「私は一度もないけどね」
「女親にはお相撲さんの話は声をかけにくいのかなあ・・・笑」
「ねえ、ところでこれからテレビに映るんだったら新しいのに買い替える?」
「いや、そこまでしなくてもいいだろう・・・笑」
呑気な親のことは露知らず、幕下昇進後、熊狩部屋での寛太への稽古の厳しさは熾烈を極めていた
この時点で稽古を積んで体を作っておかなくては安西の時のように、いざ本番でけがをしてしまうことだってある
幕下力士はこれまでの三段目までの力士と違い闘志むき出しで戦う力士もいれば、技巧派の相撲巧者の力士もいる
特に相手がベテランにもなるとわざと呼吸を外してきたり、逆に「来ない」と気を抜いた瞬間に立ちあがる力士もいる。こういう駆け引きは三段目までには全くと言っていいほどなかった
幕下力士は人生をかけて土俵に臨んでいる
みんな目の前まできた関取の土俵を夢見て血反吐を吐くような稽古を重ねている
各部屋の幕下力士たちはどの部屋でも一番激しい稽古を重ね、これまでにも本場所の土俵の上でも誰よりも辛酸をなめてきている力士たちばかりなのだ
かつて大関「熊菊」が寛太と両親の前で「もう一度幕下で相撲を取れと言われたら一億円貰っても断る」「今でも悪夢を見て寝汗を掻くことがある」というくらいに幕下というのは厳しい地位なのだ
これからちょっと興味のないかたにはわかりにくい話をすると
幕下の地位は60枚目まで存在し、東西各60人計120人が幕下力士として存在する(大相撲の番付では東と西が存在し東方力士のほうが西方力士よりも半枚上位である)
幕下の東西各筆頭(1枚目)から東西各15枚目までの30人が幕下上位者と呼ばれている。幕下上位者に名を連ねることができれば次の場所での関取昇進が可能になる
基本的に関取昇進が確実に約束されているのは東筆頭(東方1枚目)の勝ち越し(4勝3敗以上の成績)と、15枚目までの力士において全勝優勝(7勝0敗での優勝)した場合は次の場所の関取昇進がほぼ確約される
しかし幕下上位者であっても、上記2例に該当しない力士の昇進は運にも左右される
どういうことかというと関取下位である十両格の力士のなかで成績不振での降格をするものがどれだけいるかによって昇進人数が変わってくるのである。
幕下2枚目で6勝1敗の好成績でも東筆頭が4勝3敗で勝ち越していてさらに幕下15枚目の力士が7勝0敗で優勝した場合には幕下2枚目の彼の昇進序列は3番目になり、十両からの降格者が3名以上現れて初めて昇進ができる
ただし16枚目以下の力士に関してはどれだけの好成績を残しても次場所で関取に昇進する資格はない
幕下上位者が関取昇進をかけて戦う相撲の中で毎日の上位5番の取り組みを「幕下上位5番」といって日々の取り組みの中でも特別な扱いを受ける
この上位5番では相撲の取り組みの中で最もケガ人が出るともいわれている
十両昇進をかけて命がけで戦う幕下上位者が戦う姿は熾烈を極めていて、この姿に共感する人も多く、好角家(相撲愛好家)の中にはこの「幕下上位5番」が日々の取り組みの中で一番面白いという人も多い
話を本題に戻そう
熊狩親方の電話での「早めに関取に・・・」といった言葉とは裏腹に、その後の寛太はなんと3年間もの長きにわたって幕下の中位(約30枚目前後以下)と三段目の間を行ったり来たりの日々が続いた
「実力はあるのに・・・」
寛太は27歳を前にしていた
周囲の落胆ぶりが見えだしてきたそんなころ、寛太の親代わりでもある女将のサエコは一人苦虫をかんでいた
「あんた、なんで何にも言わないんだよ」
時折、夫の熊狩親方に詰め寄ることもあった
大相撲の世界には中学卒業後に飛び込む少年が今でも多く存在する
最近でこそ高卒、大卒の力士が増えてきてはいるものの、かつては大半が中卒の力士だった
このように中学卒業後に思い切って大相撲の世界に飛び込んできた力士のことをこの世界では「叩き上げ」(たたきあげ)といって重宝されている
要するにほかの世界のことは全く知らない、大相撲の世界で教わった縦社会のルールや人間関係だけを頼りに生きている人たちのことである
彼らがこの世界で重宝されている理由としては現に親方衆の中にはこの「叩き上げ」から関取になり身を立てた人が多く、これまでにたどってきた道のりの険しさや苦労を思い出すと彼ら現役の「叩き上げ」を何とかしてやりたい、という気持ちになるのはわからないではない
高校や大学を卒業した力士の大半は学生生活の中で相撲部に所属し、全国大会や社会人の大会などで好成績を収めたものが多く、主に相撲部屋からスカウトを受けて入門してきたものが多いようである
上記2パターン、要するに中学卒業後に大相撲に飛び込む「叩き上げ」と学生相撲から「スカウト」を受けて入門する場合に関しては、親方をはじめ相撲協会全体としてもある程度は彼らの将来に責任をもって指導監督していかなくてはいけないのと同時に、彼らの日日の成長にも目を行き届かせて期待を込めているのである
一方で寛太のように大学まで本格的な相撲経験がなく、成人後に大相撲に入門してくるような力士はごくわずかである
もちろん熊狩親方や大関の熊菊は彼のポテンシャルを理解しているので相当に期待はしているものの、相撲協会内の他の親方衆や関係者からしてみると、あまり期待の範疇ではなく「いつまで続くのか・・・」という程度の反応が大半であることも致し方ないのである
それでも実力主義の世界、相撲に勝てば何の問題もないのだ・・・
ここで女将「サエコ」が業を煮やしている理由は
審判部の寛太に対する扱いである
幕下以下の力士は一場所15日間のうちの7日間に相撲を取るわけである。大相撲界の常識から考えてみると幕下以下の力士が場所中に体調を崩したり、けがをした場合などできるだけ休場を避けるために、一日飛ばし、可能であれば二日飛ばしで次の取り組みを組むのが大相撲の世界では裏の常識、共通理解でもある
しかし寛太の場合、先述した三段目上位の際に足の指を骨折した際に、翌日の取り組みを組まれたことで、足の状態が悪化したと女将のサエコは一人考えていた
さらに取り組みに関しても幕下以下の力士は常に相星決戦で星の潰しあいが原則である
したがって場所中毎日相撲を取る関取とは異なり、幕下以下の力士に関しては対戦相手の選定も公平であるはずなのであるが、サエコにしてみれば寛太の対戦相手はここ一番の勝負どころではいつも自分よりも格上の強者ばかりであると感じていた
「あんたどうして何にも言わないんだよ」
夫の熊狩親方と二人きりになるたび、詰め寄るのだった
「馬鹿言うな、取り組みは上位者から順番に審判部が公平に組んでいくものだからそんな企てができるはずなんてないに決まっているだろう」
と、気弱に窘めるのだったが
サエコは恨めしそうに「菊の時だって・・・」と悔しさを噛み殺すように言った
・・・少し話が深そうである
ところで女将サエコに関しては入門時の検査の印象が強く、当初は寛太の父である隆司と母の恭子はともに少し苦手意識があったが、入門間もないころから母の恭子の携帯電話のメールにあててことあるごとに寛太の写真やその日の出来事を手紙のようにして綴ってくれた。
もちろん三段目に上がったころからはそんな報告も減ったものの、両親に対する気遣いには頭の下がる思いをしたものだ
一方の寛太自身からみた女将サエコはまさに「母親代わり」
入門当時は同時期に入門した若い衆と一緒に女将に誘われて近所の「コメダ珈琲」に連れていかれ「ちゃんこだけでは足らないだろう、好きなもの好きなだけ食べな」とありがたい言葉をいただいて、4人で3万円以上たいらげることもしばしば。こんなときはコメダ珈琲店のメニュー表が一周してしまうものだ。
また寛太はこれまでに、女将のサエコが倉庫の荷物置き場の陰に隠れて携帯電話を片手に、肩を震わせる姿をしばしば見かけている
決まってその数日前には誰か若い衆が脱走している
これまでに誰が脱走しようが親方衆や部屋の力士など男共は「いつものこと」「よくあること」という具合で、別に気にしている様子はなさそうに見えるのだが・・・
さすがに母親代わりのサエコにとってはこれほどに辛いものはなさそうだ
いつも通り、自宅の「ゴロツキ荘」でゴロゴロとビールを飲みながらモニターでテレビを眺めている「遼」であった
そこに巨大な呼び出し音と同時にモニターに緊急速報「POINT4」と表示が出た
この日は少し気が緩んでいたのか手に持っていたビールを思わず床にこぼしてしまった
少しご機嫌斜めになってしまったが、最近あまり関心もなかったので改めて状況を把握するため4チャンネルでこれまでのあらすじと成り行きを確認したが、「遼」自身この状況でいったい誰に何をすればいいのかがイマイチわからなかった
神様からの課題の中では1の「根回し」と2の「前提条件」を使っているので今回は3の「先払い」くらいかなあ・・・と「遼」は考えたが、あながちその考え方は間違っていなかった。
こういう時の神様のお題の出し方はできるだけ「遼」が分かりやすいように出題してくれることをだれよりも「遼」は感じ取っていた
「先払い」を使うとするならば、「引き出しの多い人物になるなあ」
「遼」はこの夜、迷った挙句、「熊狩親方」の枕元に天界マイクをセットして夢の中に入っていった
夢の中で腕組みをしながらため息をついていた親方は遠くから近寄る「遼」の姿を見て一礼して「『遼』さんですよね、ちょっと相談に乗ってもらえませんか」と目で語った
「遼」も「そのために現れました」と目で答えた
「ところで成り行きを詳しく教えてください」「遼」が促した
「実は・・・」
熊狩親方は現役中「熊の若」という四股名で活躍していた。
当時「熊の若」の師匠にあたる先代熊狩親方には男の子がいなかったため部屋の継承を弟子の誰かに委ねようと思っていた
その方法としては弟子の誰かと娘のサエコを結婚させて夫を養子として迎える方法を考えていた
当時、関脇「熊の若」は部屋頭ではなかった
「熊の若」の上には兄弟子でもある横綱「熊頭」が君臨していた
もちろん周囲のだれもが横綱「熊頭」が次期「熊狩部屋」を率いることと思って疑わなかったのだが、肝心のサエコが「熊頭」との結婚を拒んだ
横綱「熊頭」は自分よりは格下ながら一人前の花形力士である関脇「熊の若」をこき使った。昔はこういう風習もまだまだ抜け切れていなかった上に、横綱は自分の器量の無さと「熊の若」の人望の厚さを自覚してかことあるごとに「熊の若」に辛く当たった
部屋内でのことである。娘のサエコが見逃すはずはなかった
「熊の若」が若いうちから「熊頭」に良いように使われているのを目の当たりにしていたので、父の計画に対して「熊頭」じゃなく「熊の若」という条件を付けた
結果、横綱「熊頭」は引退後、名門「熊狩部屋」を継承することができず、年寄り「虎ノ門」を名乗り、独自で「虎ノ門部屋」を創設した
もちろん引退後も自分を押しのけて名門部屋を引き継いだ「熊狩親方」への嫉妬は収まるところを知らなかった
他の親方衆や力士がいる前でも「熊狩親方」への侮辱が繰り返されていたため一度だけ先輩親方に対して熊狩親方自身が
「二人っきりの時だけにしていただけませんか」と直接釘を刺したことがあった
それからというもの直接的なイビリは影を潜めたのだが、数年前からその「虎ノ門親方」が、大相撲の世界で力士の番付、取り組み、勝負審判を司る「審判部長」の座についてしまった。
実際に部屋の大関「熊菊」が横綱昇進に臨んだ場所でも、ここ一番の取り組みで、「物言い」を付けられたことがあった
サエコいわく「難くせ」を付けられた上での「取り直しの一番で負けてしまって、綱とりを逃した」といったこともあった
サエコの夫である「熊狩親方」がそれもこれも、横綱になるならばあの場面でも勝たなくてはいけないし、だれに何と言われても文句のつけようがないくらいに強いのが横綱なのだから、こんなことで「文句を言ってはいけない」と諫めた
あの時はサエコも「すみません」といって謝ったが、このところ「熊白石」の扱いに対して再び「虎ノ門親方」への疑念が噴出してきているようで困っている・・・
というのが今回のクライアントの悩みであった
ここで「遼」が考えなくてはいけないのは、「遼」自身の仕事はクライアントの「お悩み相談」ではないということ、「夢の実現」が仕事なのである
早い話が「虎ノ門親方」とやらを抹殺してしまうのが一番早いのだが、この方法は「調伏」といって「過去の修正」にあたり、できれば「遼」はこの方法は使いたくない
それに今回は「先払い」という方法を使うことに決めている
簡単に「先払い」を説明しておくと、この先に起こりうることを箇条書きしたメニュー表の中からクライアントに一つだけを選んでもらって、その事象を現在に引っ張ってくる方法である。
したがって奇跡を起こすというものではなく、このさき放っておいても起こる事柄をあえて今起こすだけなのだが、そこにはいろいろとついてくるものも当然ある
このあと「遼」は夢の中で熊狩親方との商談を終えたあとゴロツキ荘に帰って、これまでに使ったことのなかったモニターのトライアルチャンネル5を初めて使って、熊狩親方が選んだ「先払い」の項目を検証してみた
「ああ、こうなってしまうか・・・」
親方がチョイスした項目は現実には3年後におこることだが、これをそのまま現在に置き換えると何個かの矛盾点がどうしても出てきてしまうので、とりあえず1年後に起こるように「先払い」することにした。
再度、熊狩親方の夢の中で承認をもらいに行ったところ、寿命「6年」で了承した
夢の実現
「寛太」は21歳で入門後は順調に出世したものの、ここ数年は幕下の中位からなかなか思うように出世ができなくなっている。
彼も既に入門6年が経過して27歳になっていた。
幕下力士は熊狩部屋に4人在籍するが、彼らは若い衆ではありながら、もう一歩で関取に届く期待のホープたちである。
序の口、序二段、三段目の若い衆たちとは一線を画しているので、若い衆の雑用は基本的にはすべて免除されている。
その分、自主トレやリフレッシュの時間はたくさんあるものの関取と違ってまだ給料がもらえない。経済的にはほかの若い衆と同じである
時間はあるが、金はないという生活を送っているのだ
随分長い間、幕下生活を送る熊白石寛太にたいして、「関取は難しいかな」周囲は少し諦め気味になってきている
しかし寛太の関取昇進に対する執念は消えていない
というよりも熊狩親方や大関熊菊は「ここが踏ん張りどころ」と寛太への猛特訓の手を緩めることはなかった
そんなある日、「虎ノ門審判部長が緊急入院」の一報が入った
なんでも持病の糖尿病の悪化が原因という
熊狩部屋の誰もが審判部長の入院については触れなかったし、これまでにも審判部の判定や番付審議あるいは場所中の対戦相手の選定に文句を言うものは誰一人としていなかった。熊狩部屋の力士の中にはその素振りすら見せるものはいなかった。
しかし、みんなそれぞれが自分に対する当たりのキツサを感じていたのだろう
審判部長の入院以降、力士たちの稽古場での目つきは変わっていた
「いざ勝負だ」これまで以上に熊狩部屋の土俵は活気に満ち溢れていた
熊狩親方は彼らの姿を見て「申し訳なかった」とこれまでの弟子たちの苦労に対して心の中で詫びていた
その後、熊狩部屋の力士たちは軒並み成績を上げていった
「なんだ、そのへっぴり腰は」
今日も大関熊菊の怒号が部屋内に響いていた
これまで熊菊へのぶつかりげいこは寛太の専売特許のような形だったのが、このところ日によって熊菊は4人の幕下力士全員のぶつかりを受けることもあった
「あんた大丈夫かい」
稽古後の熊菊を女将のサエコは気遣った
「せっかくあいつたちがその気になっているのだから今やっておかないと」
熊菊は悲鳴を上げる腰と膝を庇いながらサエコにこたえた
大関熊菊はこの年35歳になる
もうかれこれ大相撲第二位の地位「大関」に君臨して10年を超える
角界を代表する大成功者であり名物力士である
「大関」という地位は二場所連続での負け越しが許されない
一場所負け越してしまうと、その地位を「カドバン」といって次の場所で負け越すと同時に「大関」の地位から陥落してしまうのである
一方で負け越しを逃れて見事、勝ち越しをすれば「カドバン脱出」として再び「大関」の地位に君臨することができる
要するに熊菊は10年以上この「大関」の地位に君臨しているということは10年間二場所連続で負け越しがないということと同時に大きなけがをしない強靭な体の持ち主である証拠でもある
最近まで熊菊は10年以上ほとんど負け越すことがなかった
しかし、ここ数場所は古傷の右ひざの痛みと腰痛に悩まされ、先場所はついに久しぶりの負け越し、次の場所のカドバンが決定している
さすがに親方の熊狩から、いちいち大関熊菊に心配や注文を口に出したりはしないが、女将のサエコは、相手が大関といえどもほかの弟子と同じく母親代わり、かわいい子供同然なのだ
ここ最近、熊菊の一人部屋に一晩中明かりがついていることもサエコにとっては気がかりだった
「付き人」の若い衆を呼んで問いただしてみると
「痛くて眠れないそうで」
「やっぱりかい」
「痛み止めを飲んでも最近は効かないそうです」
「わかったよ、ありがとう」
サエコは言いにくい事情を話してくれた若い衆に礼を言った
翌日の稽古おわりの午後
部屋の玄関から呼んでいたタクシーに乗り込もうとする熊菊を
「待て」
熊狩親方の声が背後から聞こえた
「えっ」大関熊菊は振り返って親方に向きかえった
「どこへ行くんだ」親方の問いに
「ちょっと病院へ」といった熊菊は目を合わさなかった
「やめておけ」
親方は察したように言ってのけた
「はい」
弟子の熊菊は下を向いたまま力なく答えた
タクシーにお金だけ払って帰ってもらった熊菊はそのまま親方の個室に入って長い時間二人きりで話し合った
熊狩親方は大関熊菊が病院で強烈な痛み止めを何度も打っていることを察していた
親方だってサエコと同じ親代わりである。
熊菊のことだって入門の時からずっと世話をしてきているのだ。この子がどんな子なのか十分に分かっている
最近の熊菊の身体のハリが以前と違うこともだれよりも早くから察していた
それが副作用であることもわかっていた
熊狩親方自身も現役時代に随分とこの痛み止めを打ってきた。
関取や部屋頭、ましてや各界の代表者でもある大関などの地位にあるものは自分やその周囲のためだけに相撲を取っているわけではない
相撲協会や日本中の相撲ファンなど多くの期待と責任を背負っているのだ
関取前の若い衆が使用するようなことは絶対に許さないが
責任のある地位の力士の使用に関しては協会も親方衆も見て見ぬふりをしているのが事実だ
「強力な痛み止めは力士の寿命を縮めているかもしれない」
これは憶測ではあるが、各界全員の共通の理念でもある
それでも毎日のように交通事故にでもあったかのような衝撃を受けているのだ
「体が悲鳴を上げないわけがない」
世界でも類を見ない無差別級の格闘技、しかも15日間連続で戦う彼らの身体のことは実際に経験をした人間でなくては理解ができない
「もういいぞ、苦しむな・・・」熊狩の方が泣いていた
なかなか首を縦に振らない熊菊だったが
ようやく納得して個室を出るときには、少しすがすがしい顔になっていた
部屋の外には付き人とサエコが二人で大泣きしながら待っていた
それを見た熊菊も部屋の扉の前で一緒に大泣きした
その後数場所勝ち越しを続けていた「熊白石寛太」はこの場所、西幕下2枚目にまで番付をあげていた。
この場所の勝ち越しでひょっとすると、関取に昇進するかもしれない
つい数か月前に引退した大関熊菊は寛太の昇進を心待ちにしていた
いい方は悪いが、当の寛太以上に場所を前にして毎日緊張感を味わっていた
寛太はここまで番付をあげたのは初めてだし、まだ見ぬ世界にワクワクドキドキして楽しんでいるかのようにさえ見えた。
しかし熊菊からしてみると、これまでに何度もこのあたりの地位まで来たのに跳ね返されてついに昇進を果たせずに去っていった力士たちをたくさん見てきている
この場所を前にして親方の熊狩は病室で彼らの活躍を祈っていた
おそらく心労が祟ったのだろう、場所前の一門連合稽古に出かける際に、熊狩部屋の玄関で倒れたまま救急車で運ばれてしまったのだ
病院で意識は回復したものの
医師からは「病状の把握が難しい」
という説明を受け、そのまま入院してしまったのだ
熊狩は病室のベッドの上で最近よくこんな夢を見る
世界中から宝探しに無人島にやってきた若者たち・・・
力自慢、頭脳自慢、手先の器用自慢いろんな奴がこの島に集まって宝の箱を探している
熊狩自身はそれを周りで応援している。
熊狩自身は宝の箱の鍵を開けた経験があってそれで成功者になっているものの、今はその時の経験はあまりあてにならなかった
でも「多分こんなところに宝箱があって、確かこうやって宝箱の鍵を開けたような気がする」といつも助言を与えるがみんななかなか宝箱を見つけることさえできない
ようやく宝箱を目の前にして鍵をもって嬉しそうに立っている若者が見える
それでもいざ鍵を開けようと思ってもカギ穴が合わない、石でたたいたり、がけから落としたりいろんな方法で箱を開けようとするもののいっこうに箱は開かない。
このように何人もの若者がすぐそこまで来ているゴールを前に慌てふためいている姿を夢でよく見るのであった
この日の夢も同じ展開で宝箱を見つけたもののどうやって鍵を開ければいいかわからない若者がいたが、この若者はいつもの若者と違って慌てふためく様子もなく終始笑顔で楽しむかのようにして箱を眺めている
そこに経験者らしき男が二人現れて、何やら手ほどきを始めた
なにやら教えられていることをメモしているようだ
最終的には若者がうなずいて、二人の男はその場から離れた
若者はどうやらその宝箱を開けることは諦めたようで、その箱を大切そうに持ち上げてもとにあった場所に返しに行った
その代わりに別の箱を持ってきたのだった
その箱はこれまでのような鍵で開けるタイプではなく、暗号か何かを打ち込むようなシステムになっていた
若者はポケットから先ほどのメモを取り出して何やら打ち込みだした
結構な時間がたった
いったいどのくらい時間がたったのだろう
若者は根気よく暗号を打ち続けている
すると・・・
ようやく宝箱の蓋が重い音を立てながらあいた
と同時に熊狩の枕もとでサエコの声が聞こえた
「あんた、しっかりしな・・・寛太が上がったよ、関取に昇進したよ・・・」
サエコの顔を見ると喜びと悲しみで顔中が涙で濡れている
長い昏睡状態から一時意識を回復させた熊狩だったがその後、息を引き取った
59歳だった
とても満足そうに寝ているような顔での臨終だった
この後さっそく天界会議室では例の会議が始まった
いつもよりも空気が重い
「どういうことか説明しろ」
神様のご機嫌がいつになく悪い
「金」はそれでも全く関係ないような口調で
「はい、「遼」からはクライアントの熊狩親方には一部始終説明はしております」
「それはいいから内容を聞かせろ、今回は調伏を使ったのか」
「いえ先払いです」
「じゃあなんで死ぬのじゃ」
「はい、熊狩親方は先払いリストの中から、弟子の関取昇進を選んだのですが、一番早い昇進が3年後の白石寛太の昇進になっていまして、それを1年後に持ってくる計画で進めました」
「そうか、それで報酬は」
「報酬は3年の倍額の6年で提示したようです」
「そうかそれもまあ規格内の判断じゃなあ」神様は納得した
「はい、それでもともと熊狩親方の寿命があと8年後に病死の予定になっているために報酬の6年と先払い分の2年の合計8年早くお亡くなりになられました」
「ちょっと待てよ、3年後の事象を1年後に起こすのであれば2年の倍の4年が報酬ではないのか」納得していたはずの神様がかみついた
「いえ、先払いの規定は何年先の事象かが問題になってまいりますので、ここは規定内です」
あくまでも正論を言う「金」であった
「おぬしがそこまで言うのならば仕方がないのう」
「ところで熊狩親方は「遼」に何といっておったのじゃ」
「はい、遼が寿命のことも説明しましたところ、自分はもう何も思い残すことはない、幸せだった。あと白石だけ何とかしてほしい・・・と言い残していたそうです」
「そうか」神様の目に涙が滲んだ
「なかなかいい仕事をしたなあ」
神様のお褒めの言葉には「金」は返事をしなかった
[完]
あとがき
最後までお付き合いいただきましてありがとうございます
この物語はすべてフィクションであります
私自身は相撲の経験はありませんが身内に大相撲力士がいるため彼から得た情報やその他の文献やメディアなどの情報をもとに物語を作成いたしました
途中偏った内容などもたくさんございますので読んでいただく方の中にはご気分を害される方もいらっしゃったかもしれませんが、どうぞお許しください
作品の終わり方がやや中途半端になってしまっている点も否めませんが、今後機会があれば続けていきたいと考えています
どうぞ今後もよろしくお願いいたします