2020年コロナの旅30日目:リダとの出会い
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二段ベッド上段に寝ているジャックのアラームがけたたましく鳴って朝10時を告げた。私は急に起こされて混乱していたけれども良い曲をアラームに使っていたので歌詞でググってみると、Hozierという人のTake me to chrchという曲だった。
「ああ、すまん皆。アラーム切るの忘れてたわ。」
ジャックがドカドカと下に降りてきた。筋肉質な上半身を露にしている。
「んああ、大丈夫大丈夫。」
と言いながら起きてくるジェイミーはどこまでも穏やかな人である。彼はヘンリーネックの長袖シャツにロングジョンズという可愛らしいパジャマ姿でベッドから降りてきた。ジーンズに上裸のジャックとの対比が面白く、にやけてしまう。ジェイミーは育ちの良い子なのだろう。それにまだ18歳とかで、随分若い。ジャックは私と同じ25歳ということだった。
隣のインド人はいなくなっていて、いつの間にかベッドもセットされていた。
窓から外を見ると清々しい陽気だ。
ジャックとジェイミーは街に繰り出したが、私はベッドの中でぬくぬくとスマホを使ってプラハの見どころを検索していた。新しい街に来た時の習慣である。
ベッドの縁から頭と両腕を垂らして床にスマホを置いてブラウジングしていると、突然ドアが開いて若い女が入ってきた。女は私の姿を見るなり悲鳴を上げた。
「いやああああああ!!!」
「うわあああああ!!!」
「ああびっくりした!あんた何してるのよ!」
「え、ごめん…スマホ見てただけなんだけど。」
「サマラかと思ったわよ。まあいいわ。」
サマラってなんだと思って調べてみると有名なホラー映画のオバケの貞子の英名であった。なんとも理不尽なやり取りに思われ、気を悪くした。やがてその女も巨大なブラジャーやよごれたパンツなどを含む大量の服を床に散らかして出て行った。言葉からするとアメリカ人かカナダ人のようであったが、しつけのなっていない犬のようだと思った。
それはさておき、腹が減ってきたのでこの辺で評判のよさそうなレストランに向かって散歩がてら向かうことにした。
外に出ると雲一つない冬の良く晴れた日である。ただ、街全体がうっすらと霞んでいるのが私の故郷の関東平野と違って、異国情緒を感じさせる。旧市街周辺でなければプラハというのは随分辺鄙で殺風景なところらしい。冬で草木が枯れているからそういう印象を受けたのかもしれないが。
レストランに入ると随分混雑していて、案内されるでもないので勝手に開いていそうな席に座るべきなのか判断に迷う。埒が明かないので忙しそうに走り回る強面のウェイターを捕まえて尋ねると、ああ、その辺座っといて!と言われる。
その辺に座るとウェイターが風のように通り過ぎながらメニューを机に置いた。全てチェコ語で書かれたそのメニューとしばらくにらめっこして、1年間学んだロシア語の知識や昨日マリアに習ったチェコ語、そして(ロボットはたしかチェコ語だよな…)というような断片的な知識を総動員してみるものの解読できたのは3割程度で、良く分からないものを頼むのも面白かろうがそれにしても手掛かりがなさすぎるので再び強面のウェイターを呼び止め、「これ読めないんだけどなんて書いてるのかざっくり教えてくれない?」と聞いてみた。ウェイターは私の傍に膝をつき、
「いいぜ。徹底的に教えてやろう。」
と言って細かくメニューの説明をしてくれた。細かすぎて申し訳ないようだったが、おかげでよくわかったので店の名物だと言う鴨のローストのクネドリキ(小麦団子)詰めを頼むことにした。120コロナほど。1コロナ=5円ちょっとなので日本円にして750円くらいか。
「ビールはどうする?」
昼過ぎからビールを飲むのが当たり前な国なら本気だし、そうでない場合からかっている可能性のあるこの質問に答えるにあたって周りを見回すと老若男女悉くビールを飲んでいるので、私もウェイターのおすすめのをもらうことにした。チェコと言えばピルスナー。ピルスナーといえばピルスナーウルケル。ジョッキを1杯もらう。
鴨はちょっと脂っこかったが、それをピルスナーで流し込むと満足感があった。クネドリキというのはオーストリアでいうクネーデルで、その原型らしい。パンのような団子のような物で、肉のうまみのあるソースを絡めて鴨肉と食べるとうまい。ザワークラウトの酸味も良いアクセントだ。
全部で1000円ほどしたが、店の雰囲気も良かったし盛りもよかったし、たっぷり500ミリリットルほどのビールも飲んだことを考えれば日本の基準でいえばそう高くもない。しかしポーランドの物価に慣れるとどうも割高に感じられてしまう。
腹ごしらえが済んで宿に帰る。今日は依頼を受けたウェブマガジン向けの記事の執筆を進めることにする。
実はこのチェックインというホステルにはWi-Fiも電源も完備された素晴らしいワークスペースがあるのだ。使わない手はない。
一応受付で電源など使ってよいものか聞いてみる。ニコという髪の長いアルゼンチン人の男は、眠たそうに「ああ自由に使っていいよ。」と言った。
2時から6時くらいまでたっぷり仕事をして、その日は終わりにする。
作業もそれなりにはかどって、宿が気に入ったので延泊することにした。受付に行くとニコはもうおらず、浅黒い肌をした長身の若い男性と、綺麗な顔をした女性が受付をしていた。女性は色白で、しっとりときめ細かい肌が夕陽を受けて柔らかく色づいている。大きな黒ぶち眼鏡の奥の緑色の目と目線があった。
「こんにちは。」
「こんにちは。」
「延泊したいんだけど、同じ部屋でお願いできるかな。」
「オーケー、ちょっと待ってね。えー、うん!空いてるみたい。1泊でいい?」
「うん、とりあえず1泊。また延泊するかもしれないけど。」
「オーケー。でも別の予約が入ったら同じ部屋が取れなくなっちゃうこともあるから気を付けてね。」
「分かった。ここすごく気に入ったから、延泊したくなったらなるべく早くお願いするよ。」
「今日あなた一日中そこで作業してたわよね。気に入ってくれてよかったわ。」
「うん、俺も君がここで働いてるのを見てたよ。ニコも一緒にいたね。」
「ニコ知ってるんだ!ゆるーくて、良い感じの人よね。」
「うん、なんかぼーっとしてたかも。1泊で170コロナ(950円)でいい?」
「ええ、金額は変わらないわ。」
お金を渡すと彼女はパソコンに向き直ってカタカタ入力し始めた。いつもならレセプショニストと軽口をたたくのは訳ないのだが、なぜか彼女のおでこの丸みやデニムシャツに映える細く艶々した亜麻色の髪に目が行ってどぎまぎしてしまう。
「えっと、もう終わり?」
「ああ、うん、もう終わりよ。」
彼女はそう言って微笑む。何とか会話を引き延ばせないものか。
「あ、そう。えっと、あ、この、スタンプ50コロナってのはどういうもんなのかな。」
「え?」
「あ、いや、その、このサービス料金表にスタンプは一つ50コロナって書いてあって、そのスタンプって何の事なのかなと思って。」
「ああ、それはあれよ、郵便物を運んでもら時に貼る小さいステッカーみたいなもので…」
「あ、分かった(切手のことか)!ありがとう。」
「うん、何だと思ったの?」
「今思うと恥ずかしいんだけど、パスポートに入国スタンプ風の何かを押してもらえるのかなと一瞬思ったんだよ。シェンゲン圏内では押してもらえないから、記念にそういうサービスがあるのかと思って。」
「あはは、そうね、確かにそういうサービスがあった方がいいわね。」
「でも切手なら今のところ間に合ってるかな。じゃ、ま、良い一日を。」
「あなたもね。」
白状すると私は自分の意中の女性にアプローチするのがとても苦手である。何とか話しかけたとしても、意識しすぎてぎこちない会話になってしまう。私の経験上、多くの女性は当意即妙の答えを知性と精神的余裕の指標として好むと思うのだが、私の当意即妙さは本当に気になる女性に対しては鳴りを潜めてしまう。そして自分でいたたまれなくなって早々と会話を切り上げ、項垂れながら歩き去るのが常なのである。
今日も全く同じことで、私は自室に荷物を取りに行くためにエレベーターへ向かいながら、心の中で
「なんつう不甲斐ない野郎だお前は!」
と自らを罵倒したり、
「旅の身の上で恋愛なんかしてもこじれるだけだよ。こうなって良かったじゃん。」
と慰めたりと忙しかった。忙しすぎて、先ほどの女性がベッドシーツの入った籠を小脇に抱えて隣に立っているのに気づかなかった。
「ねえ。」
「は?え?ああ、どうも。」
「また会ったね。」
「ひさしぶりだね。」
「そうね、1分ぶりくらい。あのさ、これだけ言っておきたくて、xxx本当に美しいわよね。」
どこか近くで洗濯機が回り始めたらしく、部分的に聞き取りづらい。
「え?何?部屋の話?確かにお洒落だよね。けっこう広いし。」
「本当に、今まで出会ったアジア人の中で一番美しいわ。」
驚いて心臓がはねたような感じがした。
「アジア人?俺の話してるの?」
「そうよ!何だと思ってたの?あなたモデル?」
「モデルじゃないよ。やってみたいけど。」
「やるべきよ!あなたみたいに美しい人見たことないもの。それでね…こんなこと、女の私から尋ねたら変に思われちゃうかもしれないけど、インスタグラムとかやってない?」
「やってるよ!」
「じゃ、よかったら交換しない?」
「うん、もちろん!」
「やった!驚かせちゃってごめんね。私も今までこんなことしたことないんだけど、今を逃したらもうあのかっこいい人と知り合うチャンスないんだーと思って、気付いたら声かけちゃってたの。」
「確かにびっくりした。俺も今までレセプションの人にこういう風に声かけてもらったことないから。」
「本当に?嘘でしょ。あなたみたいなオーラのある人、女の子たちが放っておくわけないわよ。」
「そういう風に思ってもらえて嬉しいよ。声かけてくれたのも本当に嬉しい。ありがとう。」
「どういたしまして。」
「あ、じゃあ、エレベーターも来たので私はこれにて。」
「うん…私も仕事戻った方がいいわね。プラハ楽しんでね。」
「うん、洗濯楽しんでね。」
「あはは、そうね。」
私は一人エレベーターに乗ると、
「何が『エレベーターも来たので私はこれにて』だ!なんであんなそっけない態度をとってしまったんだ!彼女に興味がないと思われたらどうするんだ…千載一遇のチャンスをふいにする気かアホウ!」
と心の中で叫びながらも、今しがた交換した彼女のインスタグラムを見ると心臓がクーっと内向きに破裂しそうな感じがする。私は完全に恋に落ちていたようだった。リダ。良い響きの名前。ひっきりなしに画面を下にドラッグしてページを更新しながらインスタグラムの画面を見つめていると、フォローリクエストが承認されて喜びでキーという甲高い声が出た。
部屋に戻って落ち着きを取り戻し、クラクフのビエドロンカで買ったフムスとパンを食べているとカナダ人のジェイミーが帰ってきた。
「ナイス!典型的なバックパッカー食だね。僕も旅行中はフムスとパンで済ませること多いよ。」
「安いし旨いし最高だよね。体にもいいし、多分。」
「最高。」
ジェイミーと談笑していると先刻の無礼なアメリカ人女性が入ってきた。彼女はジェイミーを見ると愛想よく挨拶して、自己紹介をした。これは人種差別なんだろうか。あるいは単にジェイミーがタイプの男性なので愛想よくふるまっているのか。どちらにせよ明らかに差のある対応を、しかも悪びれもせずする彼女に対して良い気はしない。
私は彼女が入ってきてからちょっと興が覚めたので、食事に集中することにした。黙々とパンにフムスを塗っては口に運ぶ。
彼女は相変わらず私には一言もかけずにジェイミーと大声で話し続ける。聞く気はないが広くもない部屋で大声で話すので嫌でも聞こえてくる。
「ここのホステル最悪よ!シャワーなんか不潔な感じがするし。それにシャワーヘッドが天井に埋められてるの、あれなんなのよ。不便だったらないわよ!」
のべつ幕無しに彼女の口から出るのは専ら恨み節である。しかしどこかしらジェイミーに媚びたような調子もある。文句を言いながら人に好かれようとするとは器用な業である。とはいえ、それをあまり巧みにできているようには見受けられなかった。ジェイミーは
「ああ、うん。あ、そうか、はは。たしかに…ああ…」
と気を遣って辛うじて感じの良い返事をしている。そのうち防戦一方のジェイミーは彼女の意識を私に向けようとする。
「あ、そうそう、コウスケには会った?」
すると彼女は
「ああ、朝ね。」
とそっけなく言う。私はこの女性はひょっとして私がよく英語を喋れないと思っているのではないかという疑念を持っていたので、英語で会話できることを示すためにもジェイミーにサマラの一幕を説明した。ジェイミーは
「何つう出会いだよ!」
と笑う。しかし彼女はいかにも面白くなさそうに、
「はは。でさ、このホステルってキッチンもないじゃない。ほんと最悪よ最悪。」
と強引かつ不自然に話を文句に戻す。それを見て彼女が明確に私に対して好意を持っていないことを察したので、こちらもいい気はせず、やや気落ちしてまた食事に戻る。こんなに味気なかったっけフムス。
女性のジェイミーに対する攻勢は止まることを知らず、
「ねえ、連絡先教えてよ。」
とジェイミーの連絡先を聞き出した。
「ああ、うん、もちろん、オーケー…」
とジェイミーも答える。公平を期すために言っておくと、私にこう聞こえただけで本当はジェイミーも乗り気で、
「ああ、うん!もちろん、オーケー!」
と答えていたのかもしれない。何しろこの女性、顔はそれなりにきれいだった。それに今この瞬間も床に散らばっている巨大なブラジャーたちの持ち主でもあるのだ。
やがて彼女は
「シャワー浴びてくる。あーあ、あの忌々しいシャワー!」
と言って出て行った。私はジェイミーに
「あの子どう思う?」
と聞いてみた。
「え、うん、別にどうも思わないけど…でも君に対してちょっと失礼だよね。サマラの話もだけど。」
彼女に惹かれているかはさておき、ジェイミーはやっぱり良い奴らしかった。ジャックも帰ってきて、直にシャワーを浴びたばかりの例の女性も帰ってきた。セクシーなジャックに、女性は興奮していた様子ではあったが少し緊張したようだ。彼には連絡先を聞かずに当たり障りのない話題の間で右往左往している。
鋭い鼻、高い頬骨、形の良い坊主頭を覆う柔らかそうな金髪、深い青色をした目。それに筋肉質な体の美しさ。ジャックは知的なイギリス人の雰囲気と、アメリカ人にも共感しやすい男らしいワイルドさを兼ね備えていた。ジェイミーもシュッとした若者ではあるのだが、ピーターパーカーのような親しみやすい感じがする。
私はこのカーリーとかいう女性の登場によってこの部屋の中の力関係が私に対してかなり不利に傾いたことにやや萎えつつも、明日の計画を練ることにした。カーリーは大声でしゃべるだけでなく電気も消したがらず、甚だ辟易する。
しかし私は、そのことがさして問題とならないほど大きな喜びの種を胸に抱えていた。リダとインスタグラムでメッセージのやり取りをしていて、明日リダとデートに行くことになっていたのだ。とんでもない財宝を持っているのに、ここにいる誰もそのことを知らないというような、優越感を伴う秘密の喜び。興奮する自分をなだめつつ眠りに就く。
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次回予告
2019年12月17日に始まった私の世界旅行。当時の出来事を、当時の日記をベースに公開していきます。
次回は2019年1月16日。路面電車、面妖な木、バボフカ、星座、リダ。
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