私はなぜ旅行記を書くか
2019年の5月に、生まれて初めて一人で海外旅行に行った。
会社勤めに閉塞感を感じて、同月に清水の舞台から飛び降りる覚悟でITコンサルタントを辞職したのだった。
新しい世界をみたくて、最初に選んだのが、ベトナムだった。
高校時代の恩師が、「君はベトナムのフエに行きなさい。フエの経済成長の活気から刺激を受けつつ、その古都の趣にも感じるものがあるだろう。」とアドバイスをくれたのがきっかけだった。きっかけが行動に移るのに7年もかかってしまった。もはや恩師も退官されていたが、清水の舞台を飛び降りた勢いで何とか成就した旅だった。
しかし、いざ一人旅を始めてみると、計画通りに行くことなどほとんど一つもない。
ベトナム北部のハノイの国際空港に降り立った私は、中部にあるフエに行く予定を大幅に遅らせることになった。それは、ハノイよりさらに北部にあるモン族の集落における、いくつかの邂逅のためだった。
ハノイから北東の山岳地帯に向かっていくと、サパと呼ばれる町がある。フランスの植民者たちが避暑地として開発した、いわばリゾートがもとになっている。瀟洒なコロニアル様式の建物が並ぶ向こうに青々とした山が並ぶ、感じのいいところだ。
ハノイから夜行バスに乗ると、翌朝サパにつく。ベトナムの夜行バスは日本と違って体を完全に横たえることができるようになっている。しかし爆音で音楽が流れていたり、様々な色の電飾が夜通しチカチカしていたりと賑やかなもてなしっぷりで、私は一切寝ることができなかった。
バスが停まり、カーテンを開けると街らしい様子だったので、サパについたものと思われた。まだ薄ら白い早朝であるにも関わらず、バスの外に人影が見える。民族衣装をまとったモン族の女性である。子供の手を引いている。バスの中にいても退屈なので、降りて話しかけてみると、彼女は「チーチー」と名乗った。
一番乗りの彼女に続いて、次々にモン族の女性たちが集まってくる。チーチーは、ベトナムの都市部の人たちよりも流暢な英語で「うちにホームステイに来ない?」と私に尋ねた。一泊3食とトレッキング案内つきで100万ドン(4500円前後)ということだった。聞くと、彼女の住むところはサパからバイクで30分ほどのところにあるらしく、そこまでの送迎もしてくれると言うことだった。
諸費用全て込みでもベトナムの相場に照らすとかなり高い。ベトナムの平均月収は1万円ほどである。それでも日本人にとって破格であるのには違いない。最終的に、80万ドン(3500円前後)で泊まらせてもらうことになった。話がまとまると、チーチーはプレゼントだ、といって私の手首に緑の組みひもを巻いてくれた。これはどうも純粋なプレゼントというよりは、ちょっとしたマーキングの意味もあるようだった。周りを見ていると、観光客と話をまとめたモン族の人々はいずれも彼らの手首に紐を巻いていた。しかし初めて手にするモン族の文物であるには違いなく、私は気分の高揚するのを感じた。
私にとって、いわゆる発展途上国への旅はこのベトナム旅行が初めてだった。ハノイに降り立って外に出た時から、その凄まじい建築ラッシュと、圧倒的混沌に吞まれたが、サパにはかなり洗練された雰囲気を感じていた。しかし、迎えに来たチーチーの義理のお兄さんのバイクの背中に乗って彼らの村に向かい始めてものの数分で、舗装された道路は姿を消し、山深い山村の風情となった。山肌に沿って急な斜面を、スーパーカブにこんなポテンシャルがあったのかというほどの速力で駆け降りる。森は切り開かれて、ほとんどが棚田になっており、見晴らしが素晴らしい。しかし景色に見とれてばかりいるわけにもいかない。路面は地面がむき出しで、驚くほど起伏に富んでいる。また、ヤギ、ニワトリ、水牛、子供たちといった動く障害物を右に左によけながら走らなければならない。後部座席の私は、振り落とされないように座席の後ろの取っ手を必死につかむ。写真や動画を撮りたかったが、それどころではない。道にはところどころ落とし穴もある。運転手のお兄さんは慣れているのか、それを避けようともしない。落とし穴にはまるたびに私の尻は宙に浮いた。写真など撮っていたらスマホは落としていただろうし、私も吹き飛ばされていただろう。
かなり緊張感のある30分ばかりのバイク旅を経て、私たちはサパの奥にあるハオターというモン族の村に辿り着いた。
なかなか荒々しい運転を見せてくれたチーチーの義兄
谷底にあるその村は日本の農村を思わせる、どこか懐かしい佇まいをしていた。視界に入るのは紫がかった夕焼けの空と、緑のこんもり茂る山々、そして一面の棚田である。
しばらくしてチーチーもバイクで追いついてきて、家に案内してもらう。ここで私はかなり衝撃を受けた。昔の日本の農家の家にかなり似ていたのである。幼少時に古民家の博物館でボランティアをしていたので、思わず郷愁を覚えた。日本の農家の古民家との違いは、履き物を脱いで上がる空間がない点だった。ゆえに囲炉裏が土間に直接切ってあり、その周りに座ったり椅子を置いたりして食事をする。私には可愛らしい絵の描かれた小さなちゃぶ台のようなものを出してくれたが、家の子供たちや親戚だと言うおじさんなどは地面に直接器を置いていた。電気は通っているが料理などは全てかまどに薪をくべて行う。コンセントはお客さんのスマホの充電と、家の人たちが小型のプレーヤーでDVDを見るのに使われているようだった。
この村には犬がたくさんいて、開けっ放しの家のあちこちから大きな黒犬やら、子犬が紛れ込んでくる。
私の人生に影響を与えた最初の邂逅はこのモン族の人々と、その村とのそれであった。
私のために普段は食べないニワトリをつぶして作ってくれたと言う料理を食べながら、いろいろな話を聞く。
チーチーがなぜ流暢に英語を話すのか気になっていた私は、失礼ながら、と前置きしてそれについて聞いてみた。すると、彼女は、以下のようなことを語ってくれた。
モン族はもともと焼き畑農業で完全に自給自足の生活をしていたが、学校に行ったり税金を払ったりとお金が必要になる場面が近年出てきた。それで現金収入が求められるようになったが、毎年ほとんど余剰な生産をしない焼畑農業をしてきた彼らにとってお金を稼ぐ口は観光しかなかったのだという。もともとベトナム戦争の頃からアメリカとつながりがあった彼らの中には英語が話せるものも少なからずおり、そういう人たちから習ったり、あとは実地に観光客たちと話すことで上達するのだらしい。そしてそれはたいてい女性たちの仕事で、子供の面倒を見ながら観光客をもてなす。男たちの多くは街に出稼ぎに行くそうである。
私はなんだか社会科の教科書の中に紛れ込んだような気持ちになった。知識としてベトナム戦争や焼き畑農業、発展途上国の経済などについて習った覚えはあるが、実際にそういう生活を生きている人たちに会い、そしてその暮らしの中にお邪魔させていただくのは初めてだった。
晩御飯を食べて、蚊帳の中の寝台に眠る。
翌朝、早く目覚めた私は、子犬たちに囲まれながら村のおじさんたちと竹割をした。この村には竹藪が多くあり、村人たちは野山に入りては竹を採りつつ、よろずのことに使っているようだった。
しばらくするとチーチーが朝ごはんを作ってくれた。クレープだったのだが、この村で採れたというハチミツはこの世のものとは思えない美味だった。チーチーから「ミントの花」のハチミツだと聞いて以来ずっと探し求め続けているが、未だに同じような味のハチミツに出会ったことがない。ハチミツ特有のツンとくる甘さがなく、さわやかな甘みは馥郁たる花畑の香りに彩られている。奥山ならではの美味の趣がある。
朝食を終えると、チーチーは約束通りトレッキングに連れて行ってくれた。その途中で、6人のイスラエル人たちのグループに遭遇した。ナダヴ、ダリオ、ダニ、ゲイブという4人の男性たちと、ソフィ、カミという2人の女性たちであった。これが私にとって二つ目の邂逅であった。
彼らはもともとイスラエル生まれの人たちではなく、世界各地に散らばったユダヤ人の末裔たちであった。
ナダヴはコロンビア出身。オーランド・ブルームに似た甘いマスクをもつ、陽気で優しいアニメオタクだった。彼とは一番馬が合い、彼は私のことを「コウスケ・サマ」とか、「アヘラ・コウスケ」とか呼んだ。「アヘラ」というのはヘブライ語で「イケてる」というような意味らしく、「サマ」は日本語の「様」をアニメから学んだもののようだった。ルーマニアやインディヘナ、ロシア、スペインなど多くのルーツを持ち、「俺にはアイデンティティがないんだ。そんなものはいらない。ユダヤ人であることにも別にこだわりはないよ。」と言っていたのが印象的だった。
ソフィもコロンビア出身で、ナダヴと高校の同級生ということだった。実は男4人と女2人は最初は別々に旅をしていたのだが、ナダヴとソフィがお互いのインスタグラムで同じ村にいることを知って2つのグループが合流したと言うことだった。現代ならではのことである。ソフィは明るい笑顔の美しい女性で、とても人懐っこかった。私に最初に話しかけてくれたのもソフィだった。
ダリオはもともとスペインの出である。低く深い美声の持ち主で、働いている証券会社ではその美声のおかげか大変な業績を上げているらしい。
アメリカ出身のダニもダリオと同じ会社で働いているという。二人はとても仲が良く、ダリオは彼のことをミラーと特別な愛称で呼んでいた。子供好きで温和な男だった。
同じくアメリカ出身のゲイブは、私がナダヴの次に仲良くなった男だ。知的で冷静なので話がしやすかった。彼は数か月後に日本を訪れて、私たちは再会することとなる。
カミはアルゼンチン出身で、彼女のスペイン語は聞いていて痛快だった。アルゼンチンのスペイン語は悪口が鮮やかなのだ。その影響があるのか分からないが、明け透けで豪快な性格の人だ。
私たちはトレッキング中に意気投合し、私はフエに南下する計画を保留にして彼らとともに北のさらなる奥地、ハジャンにすすむことにした。
トレッキングは2時間ほどでお開きとなった。聞けばチーチーの妹のお子さんが前日、2歳にして亡くなったらしい。その葬儀に行くので早めに帰らせてほしいという。そんなことは思いもよらなかったので動揺して、早く行ってください、というが、チーチーは「よくあることだからそんなに気を遣わなくてもいいのよ。」という。後に出会ったハジャンの元締めのような人に聞いたところによると、この辺のモン族の人々は子供よりも調達にお金のかかる水牛などにお金を使い、子供が病気になっても「子供はなくなっても次から次へとできてくるもの」と、治療を怠ることがしばしばあると言う。もっとも、モン族の人々がみな本当にそういうメンタリティを持っているのかは疑問である。チーチーが末娘に初めてのスカートを選ぶ時の楽しそうな様は、子供をないがしろにする親のものではなかった。
スカートを選ぶチーチー
スカートをまだ履いたことのない末娘
去り際にチーチーは、「コウスケが来てくれて楽しかったよ。これプレゼント。」と言って銀細工の腕輪をくれた。正真正銘の真心あるプレゼントに感激して、チーチーと別れる。ハジャンに向かう時が来た。
ハジャンにはハジャンループというバイクで回れるルートがある。イスラエル人たちと私はそこでツーリングをすることにした。
ツーリングは4日ほど続いたが、その途中で行われた忘れられない会話がある。
炎天下を走り続ける私たちはしばしば道路沿いの茶屋で冷たいコーラを買っておしゃべりするのが憩いの時間だった。あるとき茶屋でコーラを飲みながら、ゲイブが私に尋ねた。
「コウスケは、今自爆テロリストが目の前で椅子に縛り付けられて確保されていたら、どうする?」
私は急な話に頭がついていかず、考えを整理できたわけではなかったが「警察に連れていく?」と一応の答えを出した。ゲイブは、「ふむ。穏便なことだな。」と興味深そうにしている。ナダヴはそのやり取りを聞いていて、
「出来るだけ痛みを与えられる方法で拷問するに決まってるだろ。それで最後はお望み通り爆殺してやるよ。」
という。日頃は温和で陽気、爽やかな好青年の口から出た言葉に私は身を固くした。ナダヴの意見に対して、話題を投げかけた張本人のゲイブは、
「お前の気持ちはわかるよ。でも憎しみの連鎖は何も生まないんじゃないか。俺なら苦しまないように頭に1発ぶち込んで終わりだ。」
と言った。するとそれらの意見に対して皆が持論を述べ始め、議論は白熱する。私は、彼ら全員がテロリストの殺害を最低ラインとして共有していることに気づき、絶句する。困惑している私に気づいたゲイブは笑いながら、
「こんな話題、どう参加していいか分からないよな。俺アメリカに住んでた頃なら、警察に連れていくって言ってたかもしれない。だけど、俺たちはみんな自爆テロで家族や友人を奪われてるんだ。イスラエルでカフェに入ったら、こういう話題ばかり聞こえてくる。他にもアラブ人とユダヤ人は共存できるか、とか…」
というとナダヴがそんなの無理だね、といい、またも激しい議論がはじまる。私は端で小さくなってコーラを啜るしかなかった。
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私は東京で生まれ、大学時代を京都で過ごした。日本の都市部で生きてきた私にとって、人生の苦難はせいぜい、「高価な服が買えない」、「恋愛がうまくいかない」、あるいは「仕事がつまらない」といったものであった。しかし新しい空気を求めて踏み出したこの旅行の中で直面を余儀なくされたのは、世界の各地に命のかかった苦難に絶え間なく直面している人たちがいる、という事実だった。私は日本では豊かとは言えない家庭で育ったが、ハオターにおいて私の貧困とは比べ物にならないインフラの不足を目の当たりにした。親の世代ですら戦争を知らない日本人として育った私は、周辺地域と紛争状態にあり、テロの恐怖におびえるイスラエル人の日常に震撼する。
私はベトナムの旅を終えた後も世界中で旅を続け、多くの人々と知遇を得た。スウェーデンで家族の人生を背負って働くソマリア人、母国を追われたエリトリア人、そもそも自国を持たないクルド人、帰る故郷を空爆で失ったシリア人、戦争から逃れてきたスーダン人、戦争中の自衛隊の行いについて涙声で感謝を述べるイラク人、そして、イスラエル人と命がけで戦うパレスチナ人…
私が当たり前のように享受してきた平和で、満たされて、ともすれば退屈な人生は、実は世界的には珍しく、多くの人が願っても得ることのできない人生なのであった。私は旅に出たことで、それを目で見て、生の言葉で聞くことになった。
こういう体験に対する反応は人それぞれだろう。NPOやNGOに入って発展途上国の人々を支える人もいれば、医者になって傷ついた人を癒す人もいるだろう。国連など大きな組織に入ってより大きなスケールで世界を変えようと思う人もいるかもしれない。
私の場合、多くの人々との出会いを経て、この世の苦しみの連鎖は救い難く絡み合っており、そのもつれをほどくことは難しいという感想を抱くに至った。イスラエルの平和はパレスチナの絶望で、パレスチナの宿願成就はイスラエルにとって悪夢の実現なのである。
私はそれで、筆を執ることにした。旅行記を書くことにしたのだ。大それたことを言うつもりはないが、私に世界を変える力はなくとも、地球には日本や世界の人々が思いもよらない状況に身を置かれている人がいるということを面白い文章で人に伝えることができたら、それは微力ながら、世界をより多くの人にとって住みよい場所にすることに寄与するのではないかと密かに企んでいる。
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