ちょっと賢こそう
N村Hろゆきさんという方がいる。
近年は「論破王」として引っ張りだこである。
彼のメディアでの扱われ方には違和感がある。遊びのディベートなら良いが、政治家や科学者を呼んで彼と討論させるのはやめたほうが良いのではないかと思う。理由は後述する。
数字に大した根拠はないので目安程度に思っていただきたいのだが、彼の教養、論理的思考力が日本で上位1%くらいだと仮定してみよう。
つまり1クラス33人として3クラス合わせて一番賢い人、日本でだいたい1,200,000位くらいの場所にいると。
それくらいの層、知識階級にいる日本人は概してHろゆきさんのように詭弁を弄してまで相手と戦おうとしない。同レベル、または自分よりも高レベルの人との話し合いでは探り合いながら優しく会話しても本質的で有意義な話ができる。
低レベルの人との話し合いは避ける。どうしても話さなければならない場合はできるだけいなす。なぜならば論争は時間とエネルギーを使う活動であり、避けられるなら避けるに越したことはないからである。
衝突の回避は知性的振る舞いのひとつである。
しかしHろゆきさんは真っ向から議題に関して相手の論者にぶつかっていく。知識階級に属するレベルの潜在能力を持ちながら、振る舞いが大衆的なのが大衆に受ける。
それは時に論者に本質的な問いに直面することを強いて良い場面を生み出すこともあるが、だいたいは皆が無意味だから避けている論争の場に挑発テクニックで論者を引っ張り出そうとしているに過ぎない。
恐らくHろゆきさん自身は単にイレギュラーな精神構造を持つ、まあまあ賢い人でしかない。彼は問題ではない。
しかし99%のあまり賢くない日本人の中に彼のソフィスト的詭弁術を「論破」と呼んでしまう人が多くいることはちょっとイタい。
思うに、彼のような精神構造、人間性を持つ人は「陰キャ」と呼ばれて虐げられる。私は個人的にはそういう風に周りから言われている人たちに対して何らのネガティブな感情も意見も持っていないことを強調しておきたいのだが、とにかく彼らは虐げられてる感じを感じながら成長していく。
Hろゆきさんはそういう人たちにとってのヒーローなのではないか。
「昔は陰キャだったけど今はかっこよくなったよ!」のように、感情移入するために、あるいは感情移入の結果として努力の必要が発生するタイプの、目標たりうるタイプのヒーローではない。
彼は陰キャの見た目、陰キャの話し方のままで、その知能を利用して並み居る陽キャも陰キャも蹴散らしていく。知識人的立ち位置を獲得し、一定の尊敬も集める。
実際は蹴散らしているのではなく、板についた詭弁術で相手を煙に巻くだけである場合もあるが、それはある程度知性のある人にしか分からず、ユーチューブの切り抜きを見る人々の大部分には判別できない。
「話の内容はよく分からんけど、Hろゆきさんに煽られて相手が取り乱している。だからHろゆきさんの方が有利に話を勧めているんだ!」とさえなる。
彼は目標となる、インスピレーショナルなヒーローではなく、現在のいけてない自分のまま感情移入できて、「論破」を疑似体験させてくれて、インスタントに快感を与えてくれる、短期的に消費されるヒーローなのである。
動画を拝見する限り、彼には議論の目的が2つあるように見える。彼自身も意識的に行っているわけではないかもしれないが、以下の2つ。
論理の穴が気になるのでツッコみたい。
相手の人格を攻撃したい。
1が彼自身を含む彼をマーケティングする人々が宣伝する彼の議論の一面である。たしかにこちらは建設的な議論につながることがある。
しかし頻繁に見え隠れするのが2である。これはちょっと優しくない。
プライドが傷ついた、あるいは傷つきそうなので防衛、さらには報復の手段として相手の人格に関わる攻撃をしているように見える。
「日本語わかりますか?」
「頭が悪いなーと思います。」
などという言葉は建設的な議論に資するものではない。こういった「煽り」は、相手を動揺させてねじ伏せるためのテクニックである。互いを高め合う、温かみがあって優れた世界に属する術ではない。
遊びのディベートなら良いが、政治家、科学者らと具体的、現実的な話題について彼と討論させるのが良くないと私が考える理由はここにある。
単に建設的でないのである。彼は単純に議論があまりうまくない。
論破されるべきでない正論を論破してしまったように凡百の大衆が勘違いしてしまうのって良いことなんだろうか。