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夏の幽霊(9)

 うわー、これは足の踏み場がないな、と久々に帰ってきた母になじられた。空き缶は前に母が来たときよりもところ狭しと転がっていたし、ゴミ袋に入っていないコンビニ飯の容器は机の上から溢れ出し、椅子の上にまで浸食していた。変色した生ゴミは臭気を発して、蠅共が渦を巻いていた。床は黒々としていて元の色が見えない。ぬめりのある床から外れて、僕がいつも歩く道だけは正常で床の色が見て取れた。その上に足を落ち着けて、今日は母に言わねばならないことがあるので、床に正座をする。怪物も今日は帰ってきていない。
 母の化粧は以前より濃くなっていて、今度は「玲くん」と言う男のことを話していた。
「玲くんは前のよりも、優しいんだよね。今度こそ上手くいくと思う」
 また違う男に変わっている。それでも、きっと母の気持ちは純粋な愛なのだろう。
 どんな愛でも、形でも谷口が許したように。
 僕は、そんな母を受け入れようと思った。
 その上で、
「母さん、今日は言いたいことがあって」
「なあに。一緒に住むのは玲くんが嫌って言ってたから無理だけど」
 帰ってきてからも、ずっと頭の中でこだまするのはトラックのエンジン音と電車と併走する姿だった。清々しいあの光景を忘れられなかった。今もまだ道を突っ切っていくトラックが目に浮かぶ。幼い頃の僕は運転席が好きだった。
 今の父は怪物だけど、僕の中に父は生きている。この父を忘れたくはない。今の父は情で一緒にいるだけで、僕は断ち切らねばならない。僕の中の父の愛を大切にするために。
「やりたいことができた」そのやりたいことを言えないけれど。「これから、児童相談所とか、生活保護とか、国とか市へ駆け込んで、そのやりたいことをするためにいろんなとこを頼ろうと思ってる。高校は退学するつもり。だから、今まで僕を工面してくれてありがとうって言いたくて」
 細々と僕を支えてくれたのは母だったわけで。僕を見ていなくても、それでも。
「感謝してる。これからは一人で生きていくよ」
 りぃん、と二階からくらげが鳴いている。くらげが空を飛んでいるみたいって母は言っていた。そのくらげが、もう瞳に映らない。母の瞳には、僕はいない。それなのに、どうしてか母は傷ついたような、湿った顔色になる。
 りぃん、とまたくらげが泣り響く。
「お金、いいの?」
 うん、と僕は強く頷いた。もういらない、僕は何もいらない。一人で生きていける、と強く念じて。
「もういらない。決めたんだ」
「なんで」
「さっきも言ったけど、やりたいことができたから」
「そっか、そうだよね」
 母が動揺しているのは、なぜなんだろうか。とっくの昔に母は言っていたはずなのに。出て行け、と。独り立ちしろって何回も言われてできなかったから。そんな傷ついた表情をするのが意外だった。ひし、と僕の体を抱きしめるのも、今更と感じてしまう。そういえばどうして、この人はこの家に泥水して帰ってくるのだろうか。間違えているだけ、と決めつけていた。僕のことも父のこともどうでもいいのなら、帰ってこないはずで。お金なんか落としていかないはずで。たびたび帰ってこないはずで。
「なんだか寂しいなあ、お母さん」
 そうして、こんなときに僕の名前なんて呼ばないはずで。
「悟」
 この人に上手くのせられっぱなしだった。
「不器用でごめんね」
 母は耳元で囁いた。僕もこの人の本当の気持ちなんて知らなかったのだ。それでも、今までのことがあるから。受け入れられはするけど、許せはしなかった。同情もできない。
 母を突き放して力強く立ち上がる。男の匂いがたっぷり沁みた服に胸焼けする。僕は、もう既に自分で立てるのだから。
「早く帰れよ」
 僕は匂いを振り払う。香水はもう沢山だ。誰とも知れない名前もたくさん。ありとあらゆる名前で呼ばれた。
 僕の名前はなかった。
 僕はいつも僕を見てほしかっただけなのに。
「もう来んなよ」
 言葉を吐き捨てるのは慣れていた。突き放すのも、暴言を紡ぐのも。
 母と同じ。
不器用だから。
 母は憐憫を顔に宿して帰って行く。捨てられた子犬みたいに小さな背中を抱えて。床をヒールで踏み潰して。土足で入って、土足で僕の家から出て行く。そうして振り返りもせずに家の扉を開けて、閉めもせずに帰って行った。放置された扉が力なくよたよたと前後している。ゆらゆらと揺らめいて、僕は再度その場に力なく蹲り脱力した。

***

 私服のまま学校に行くのはなぜか清々しかった。片手には退学届が握りしめられている。手汗でぐしゃぐしゃになっているけれど。きっとこれでいいと思いながら、朝の登校をする。周囲の生徒には奇異な目で見られ避けられていた。
 夏休みあけ、肌がじりじりと焼けてこんがりとした生徒がちらほらいた。僕もその一人。ただ私服姿なだけ。
 そのまま職員室に行き、「これ、お願いします」と淡泊にも退学を宣言した。ぽっかりと口の開いた担任の顔は面白くて、笑みを零してしまう。僕のさっぱりした顔を見せつけて、それでは、と手を上げて。職員室を後にした。扉を閉めきった後に、大騒ぎした担任が「待て」と背後から声で追ってくる。僕は上手くかわして、避けて、最後に倉田と谷口に別れを告げようと、教室に向かう。
 Tシャツとジーパン姿、足下は上靴ではなく靴下だけで廊下を歩くので、再度視線が降り注がれる。冷気の漂った廊下を感じ取りながら、教室の戸を引いた。
「あのさあ、『恋をするには、』の最終話見た?」
 井戸が僕の席で話をしていた。大きな態度、そして教室中に響き渡る声。教室の中心にいる倉田と谷口が耳を大きくして聞いていた。そして井戸も聞いているだろうことを知っていて言っている。 
 扇風機から繰り出される風が言葉を教室全体に吹かせていく。井戸の毒っけがありとあらゆるところに流布し、嫌な空気が流れていた。
 明らかに井戸は倉田と谷口のキスを見ていた。それは三人とも理解しているところだった。
「最終話さ、本命の男よりもレズの女との友情とったんだよな。ありえねぇ。だって気持ち悪いだろ。女と付き合うやつなんて、さ」
 ぴくり、と谷口の肩が震えた。風の毒がざざざーっと空気を汚染していく。誰も言葉を発していなかった。ただ井戸が虚勢をはって、傷ついた代償として倉田と谷口のことを遠回しになじっている。それを聞くたびに谷口の肩、足、唇が震え、瞳が揺らいでいた。
「ストーカー男もさ、全部許すんだよな。そんなのありえねぇ。主人公、恋愛できないんじゃないの」
 既に自暴自棄になった井戸。僕もとりつく島がない。自暴自棄になった原因は僕たちにある。黙って受け入れていくしかない。だからこそ、僕たちは、表の面を貼り付けたのだから。井戸は裏を見てしまった、それだけ。
 それだけ、だから。
「真実の愛って、主題らしいけど。レズもストーカーも、主人公も違うよな」
 だからって、そんなに怒らないでいいのに。
 谷口は立ち上がる。黒く綺麗な髪を巻き上げて、めいっぱいに拳を握りしめる。全身を震えさせて、井戸に向き直った。ずん、ずん、と足を踏みしめて。僕の席で大仰な態度をとる井戸の前に辿り着く。黒く澄んだ瞳に大粒の涙をのせて、瞬きをして、涙をあたり一面に降らせた。落下した涙の粒は丸のシミを床にいくつもつくる。跳ねて、飛んで、弾けて。
 彼女は言葉を濁さない。
「あんたなんかに、真実の愛の何がわかるの」
 そうだよ、と僕は同意する。あの時の僕たちは分かっていたさ、でも井戸が言うことは間違っていた。
 僕はごちる。
「愛も、情も、何一つ分かっていない、井戸に何が分かるんだよ」
 倉田だって、噛みしめる。
「真実とか、正しいとか、何が分かるの」
 それは世界に抵抗する僕たちの言葉だった。
 彼女は僕や倉田のために怒っていた。そうだ、僕たちは人のために怒ったり泣いたり、できる人を好きになったんだ。純粋すぎる彼女を好きになったんだ。
「決めつけ、当てつけされる世界に絶望した気持ちを何一つ知らない、あんたに何がわかんの」
 正しさの一つすら問うたこともない、お前らに何がわかるんだ。倫理を疑ったことがあったか、周囲の環境に絶望したことがあったか、法が救ってくれない現状を恨んだことがあったか。
 ちょっとした一言で傷つく人の繊細さを、理解したことが、共感したことがあったか。
 谷口が顔を真っ赤にして言ってくれる。井戸へと、いや世界へと。怒ってくれる。
「固定概念なんだよ」
 井戸へと噛みつかんばかりの勢いで。世界を揺さぶらんばかりに。
「真実の愛なんてない。それはただの正しい愛ってだけで、正しいってことは、固定概念で」
 支離滅裂な言葉で。でも僕たちには言っていることが分かった。何一つとして、正しいものなんてない。正しいことは、『勝手な押しつけ』なんだ。僕らはできなかった、正しさがある。僕は正しくなれなかった。壁を感じていた。簡単に正しくなれる人をうらやんでいた。
「あたしは、間違えて生まれてきた」と倉田は言っていた。僕もそうだ。きちんとした愛を受け入れたかった。きちんと人を愛したかった。傷つけるんじゃなくて。
 傷つけない愛し方を知りたかった。
 でも。
「私は、全部ぜんぶ綺麗だって思う。なんでそんな汚いものみたいに言うの」
 彼女は僕たちの愛し方すらも綺麗だって言うんだから。
 自分を認めないわけにはいかない。
「もういいよ」僕は足取りを軽く教室に入る。彼女に聞こえないとしても言い続ける。「もう怒んなくていい」君は教室の中では聖人君主だ。こんなことをしたら、明日から浮いてしまう。いじめにあったりもしてしまうかもしれない。
 それは教室で僕がどれだけ浮いていたか、で分かる。僕は、汚い服で登校して、臭いもあった。体操服と制服しか服がなかったから、ずっと二つを着まわしていたら、首元がびろびろに伸びた。頭は脂ぎっていたから、きっとみんなから忌み嫌われていた。
 井戸も、みんなも、そんな僕を遠巻きにせず、浮くだけで済ましてくれた。
 そんな僕や井戸の正論を払いのける正論は、きっと、ずっと、もっと受け入れられない。
 だって、僕らの方が間違っているのだから。
 間違いは、正しちゃいけないんだ。
 なら、どうする。
 だから、踏み出して僕は彼女と井戸の間に割り入ろうとした。勢い余って机にぶつかる。がりがりと床を削り、歪な音を立てる。
 すると、どこかからか「勝手に机が動いた」と声が聞こえた。
 試しにもう一つ机を動かした。今度ははっ倒すほど大きめに机を揺らしてみる。
 今度は教室の至るところで戦々恐々の声が湧き起こる。彼女が怒ったことよりも、僕が動かす机に視線が行く。集中線が僕の前にひかれる。毒っ気は好奇心へと様変わりする。
 これだ。
 井戸へと顔を向ける。先ほどの大仰な態度も背筋が正される。井戸も僕が見えていない。
 僕は、最後の幽霊をする。
 谷口琴子の怒りの印象を薄めるために。彼女が好きだから。彼女はそのままの綺麗なままな姿でいてほしいから。
 僕は思いっきり机を蹴り上げる。倒れた机は近くにいた生徒の間取りに落ちていく。椅子をはっ倒す。ガラクタみたいに崩れた音が鳴り響く。悲鳴が方々から降りかかる。僕は止まらない。近くにある椅子も、机も、触れたものを全て蹴ったり叩いたり。机の中から、教科書がまき散らされる。色とりどりの教科書が床に並べられる。シャープペンシルといったペンが転がるが、掴み上げて黒板へ投げつけた。反射して、落下。床へ切っ先を突き立てて、倒れた。水筒は蓋を外してまき散らした。ノートは紙を破いた。チョークは折った。教壇をはったおした。かかってある鞄は一つ残らず持ち上げて、中のものをぶちまけた。生徒が教室から逃げ出した。「先生を呼んで」と誰かが声をかける。そのすきを与えぬうちに黒板をひっかいた。悲鳴が沸きたつ。悲鳴は悲鳴を呼び、生徒たちが一斉に廊下を音をたてて走り去っていく。隣のクラスも聞きつけてパニックだ。「逃げろ」「殺される」「死ぬ」と井戸が波にもまれて、倒れた。慌てて立ち上がり、群衆の波にもまれながら外へ向かって走っていく。
 どうだ、これが真のポルターガイストだ。
 ガチャガチャと一通り動かしたら、僕の周りには何も残らなかった。円を描くように机も椅子も、人すらも立っていない。
 振り返ると、谷口琴子がぼんやりと眺めていた。
「藤本くん?」
 瞳を覗くと、うすぼんやりと僕の影が佇んでいた。ひょろ長くて、図体だけでかくて。体なんて痣だらけで。君を傷つけることしかできなかった。そんな僕がようやくその瞳に映った。
「僕は君の幽霊になれたかい」
 静まり帰った教室。ポルターガイストを受け入れるまでに数分。僕は自身の中の高揚感に満たされながら、彼女の視界からはずれる。
 教室から背を向けた。

***

 真っ青な空に、秋風が僕の背をなでる。彼女、谷口琴子の下駄箱を撫でて。何度となくここで音を立てて、彼女を困らせたことを思い出す。
 下駄箱をでると、僕が彼女のウォークマンを彼女の目の前で聞いていたこと。倉田が白々しく彼女を励ましていたこと。プールで倉田が隣に座ったこと。あのプールサイドの孤独。武道場では一緒に谷口の音楽を聞いたっけ。一緒に踊った。夜の道路で青い金魚がくるくる回っていた。アルコールで酔っていたんだ。最高の夜だった。星を見たのはトンネルだった。
──愛は呪いなんだね。
 倉田の吹き出した笑い声を覚えている。
──傷つけない愛し方を探そう。
 と言ってもらったけれど谷口からの答えは、僕には大きすぎた。
 井戸が僕の胸倉をつかんで怒っていた。自分のために怒れること、人のために怒れることは、エネルギーがいる。それもまた美しい記憶だった。谷口と歌った。谷口の手をとった。谷口が好きだった。好きだって倉田が気づかせてくれた。どんな形であれ、愛することを認めてくれた。何から何まで記憶が鮮明に輪郭がくっきりと映える。
 僕の高校生活が、ここで終わるのだと、ようやく理解するなんて。
 記憶が言うことを聞かずに目にしみる。夏の終わりの気配がする。
 校門から出ようとしたところで背後から「藤本」と声をかけられる。
 最後の最後まで見えているのは、
「倉田」
 お前だけだったよ。
「どこ行くの?」
「夢を叶えに」
「夢なんて……そんなの高校卒業してからでいいじゃん。これからの高校生活も楽しいよ。合唱とか、あの子のピアノ姿見れるんだよ。三人でまた一緒に歌えたり、文化祭回ろう。体育祭とかも。あたしは運動音痴だけど、あの子が走る姿も見れる。大学の進路とか悩んだりして。三年に上がったら、また違う姿見れるかもしれない。あの子と、もっと。
 なんで消えるの?」
「夏の幽霊だから」
 夏には消えるんだよ。
 秋風が晒される。鼻にこすれてくしゃみしそうだった。
「せっかく仲良くなれたと思ったのに」
 僕は頭を振る。何も言えなかった。高校にいれない理由なんてたくさんあって言えなかった。そもそも、そこまで僕と倉田は言葉を交わしていない。
 ここで彼女を傷つけることだってできた。お前は、知っているか。洗濯機が動かないから、服を公園で洗う惨めさを。水がないから、一生懸命学校で話さないようにして少しでも渇きを和らげようとしたことも。電気がないから夜は何もすることがなく、虚しく他人の家の光を頼りにペンを持っていたことを。昼ごはんの飢えを。帰っても、殴られるだけの人生を。靴下の穴が空いていた。いつも同じものは着ない、クラスメイトに何がわかるのだろう。
 お前は甘い、と突きつけることだってできた。僕だって、できれば高校にいたかった。でも、不可抗力な暴力は、どうしても僕を、普通たらしめない。甘いことなど言ってられなかった。
 だから、せめて、甘い考えのままで、夢のままで、この関係を終わらせたかった。
 僕は、夏の幽霊ってね。
 倉田は、それを知ってから知らずか何も言わずに近づいた。
 捨てたと思っていた携帯をわたす。手元に残る重い携帯。そもそもここから始まったのだ。ガラケーだよ、時代遅れだって笑って捨てたくなる。これからの時代には、きっと必要のないものだ。それでも名残惜しくてたまらないものだ。
 意図的に落としてしまったので淵が掠れているし、へこんでもいた。パカッと空けると黒い画面に僕の晴れやかな顔が映る。
 こんな顔をしていたっけ。
 倉田に向き直る。小柄で、ハーフで、茶色いボブカット。白い肌にまん丸な瞳、蝶みたいに長い睫。
 瞬いて。
「お元気で、夏の幽霊さん」
 その茶色い瞳には僕の影は映っていなかった。

***

 深淵トンネルをくぐらず、道路をぶらぶらと歩いた。スーパー柳瀬で彼女を追跡した道のりを辿る。CDショップで谷口に話しかけたことをすいっと思い出される。夏の暁が色濃く電柱や街を照らして、あぶり続けていた。私服に焦げ付く暁の中で唯一、ポケットの中の携帯が熱吸収する。しっかりと握りしめて、倉田と踊った場所を過ぎる。川に近づいてくる。不良の吹き溜まりとなっている千鳥橋のこかげは藍色を秘めていた。川につかって札束をすくいあげた。河川敷を横目に橋の柵に手を滑らせる。コオロギが、早めの合唱を始めていた。僕は柵に体を預けて、一思いに。
 携帯を投げ捨てた。
 記憶の奥底にある谷口のプール後の湿り気を、橋にかかった粉とともに、ぱん、ぱん、と払い落とした。
 今度は振り返らず歩き出せそうだった。

#創作大賞2024 #恋愛小説部門

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