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レズビアン当事者(私個人)が受け取った、チェイサーゲームWが伝えたいこと

🌈はじめに

チェイサーゲームW2放送直後から、SNS上で批判的な感想をよく見かけるようになった気がします。

何故意見が分かれているのかを考えてみると、ドラマに期待していることの違いがあるからではないかという結論に至りました。

これは私がシーズン1の時から言っていることなのですが、チェイサーゲームWを見ている方は、大きく「樹と冬雨の”恋愛のドラマ”」として見ている方と「同性愛者のリアルな問題を投影した作品」として見ている方とに分かれているように思います。

前者の視点で見ている方は、「ただ二人のイチャイチャが見たい」「不倫ではなく純愛で」「旦那やヨルムはいらない」という感想が根底にあり、シーズン2を見て「何が描きたかったのか分からない」となっているのかなと思いましたがいかがでしょうか?

ただこのドラマは、いつふゆの恋愛を見せたいわけではなく、「自分らしく生きる選択をできない同性愛者に寄り添い、社会問題への提起を行うこと」が目的だと私は思っています。

本来ドラマを見る視点は人それぞれでいいんだと思います。
ただこのドラマに関しては、イチャイチャだけを期待していた人にこそ、「どうして樹と冬雨は不倫せざるを得なかったんだろう」ということを考えてもらうことに大きな意味があると私は思っています。

だから私は批判的な意見にたいして、「いろんな意見があるよね」「嫌ならドラマ見なければいいじゃん」で終わらせたくなく、批判的な感想を持った人と一緒にこのドラマの意味を考えたいと思い、この記事を書いています。

是非ご一読いただけると嬉しいです。


🌈チェイサーゲームWが伝えたいこと

先に結論を言うと、ドラマの描きたいことは下記2つだと考えています。

  1. いつふゆと似た境遇にいる同性愛者に自分らしく生きる道を提示する

  2. 同性愛者を取り巻く社会問題への提起

このメッセージはシーズン1の時から制作陣が繰り返し発信されています。詳しくは私の前回のnoteもご参照ください。
「シーズン1と2とでは別作品になってしまったようだ」という批判もお見掛けするのですが、私はシーズン2からも上記2つのブレないメッセージを感じるので、むしろ”チェイサーゲームらしい”展開になっているなと思っている派です。

個人的な意見で恐縮ですが、まずは上記2点がドラマの伝えたいことだという前提で、皆さんからツッコミが入っているポイントを整理していきたいと思います。

・いつふゆと似た境遇にいる同性愛者に自分らしく生きる道を提示する

いつふゆと似た境遇にいる同性愛者というのは、世間体を気にして自分らしさを諦めてしまった同性愛者の方を指しています。

例えば冬雨は同性愛者として生きることを諦め、男性と結婚する道を選びました。そしてこの現実世界にも冬雨と同じ選択を取った(取ることを検討している)方が本当にたくさんいます。これまで受けてきた多くの偏見・身近な人からの非難・”普通のフリ”ができる既婚者の楽さ・・いろんなことが積み重なり、自分らしさを捨てる決意をした同性愛者の方々です。そんな皆様の心のうちは「同性愛者なのに既婚とかどうせ誰にも分ってもらえない」「自分らしさはもうとっくに諦めている」と、いわばシャッターを閉ざしているような状態なのかもしれません。

このドラマはそんな皆さんに寄り添いつつも、本当にこのままでいいのかを問うことを目的にしていると感じます。だからシーズン2も二人のイチャイチャよりも、冬雨と樹のリアルな葛藤や弱さにフォーカスが当たっていると思いました。

冬雨が他のドラマの主人公のように強くないのもそのためで、冬雨は、何もかも諦めてシャッターを閉ざしてしまった同性愛者として描かれているからこその脆さを持っているのではないでしょうか?

「冬雨は自分では何も決められない弱い人間、周りの脇役(浩宇)から言われないと動けない」という批判をお見掛けしますが、それが現実なんです。「不倫じゃなくて離婚してからイチャイチャしてほしい」という批判も、娘がいる・実家の問題・世間体・・いろんなことがよぎって、すぐに離婚の決断はできない、でも相手の女性への想いも止まらない、それが現実なんです。

今のまだまだ生きづらいこの社会で自分らしさに向き合うってそう簡単なことじゃないですよね。でも周りの人の声を聞いて、大好きな人に向き合って、少しずつ少しずつ、自分らしさに手を伸ばして成長する尊さ。それがこのドラマの伝えたいことではないでしょうか。

・同性愛者を取り巻く社会への問題提起をする

そもそも、同性婚と異性婚が完全に同列で、偏見が完全にゼロの世界であれば、冬雨は浩宇と結婚することは無かったと思います。樹と冬雨とで結婚して今のような障壁はなく二人で幸せに暮らしていたことでしょう。

なのに、同性というだけで大きな壁が次々と現れて一緒にいられず、自分らしさを捨てざるを得ない状況になる、それっておかしくないですか?
という問題提起が次に描きたいことではないかと思いました。

例えば
同性婚はできない=愛とは認められない
不倫とは言われる=その時だけ愛と認められる
って理不尽だと私は思うのですが、作中ではヨルムや久保ちゃんから「冬雨は結婚してる」「それは不倫だ」と非難されてしまいます。
今タイムラインに上がっている批判的な声をあげている方もきっと同じような意見でしょう。(むしろその世間の声のメタファーとして、このセリフがある?)

そんな声に対して、二人を非難する前に、もっと根底にある、二人が幸せになれない&自分らしさを捨てる選択をせざるを得ない社会問題のほうを非難しませんか?というようなメッセージを私は感じます。

この社会問題のせいで、不倫にならざるを得なくなった二人のことを、優しく受け入れ、一緒に社会への問題を提起してくれる人が一人でも増えれば、この社会はよい方向に進むのではないかと私は思うんです。これが冒頭にお話しした「いろんな意見があるよねで終わらせたくない」の意味です。

せっかくいつふゆ(同性同士)が幸せであってほしいという共通の想いがあるので、線を引かず対立をせず、寄り添えたらいいのになと思います。


🌈まとめ

シーズン2からもこの2つのメッセージを強く感じます。具体的には下記です。


<1話>家族からの強い反対、樹への強い想い、家族の反対に向き合おうとする冬雨の気持ち
<2話>自分らしさに向き合っているヨルムとの対比、周りから不倫だと片付けられてしまう辛さ、本当に好きな人と過ごしている時間の幸せさ
<3話>「普通が何かは自分で決めていい」ということ、同性というだけで一緒に居て相手を傷つけてしまう理不尽さ
<4話>ママ(世間体)と戦うことに決断ができない冬雨の弱さ、それでも自分らしく生きるためにママ(世間体)に立ち向かう冬雨の強さ、自分が世間体をとることは旦那や子供に「付き合わせられている」と感じさせる場合があること




上記のように、冬雨の弱さや決断のできない部分が等身大に描かれているからこそ、冬雨と似た境遇の方は冬雨に自分を重ねることができ、そんな自分の分身とも言える冬雨が、4話で自分らしく生きる道を選択をすることで、当事者の方の背中を押す。そんな構造になっているじゃないかと思うんです。

だから「冬雨は弱い」「不倫は悪」というような批判が、結果的に冬雨と似た境遇の方にグサッと刺さってしまうのではないかという懸念もありました。

「チェイサーゲームWのドラマの目的が分からない」と言われてる人の批判の声が、チェイサーゲームWの目的である"当事者のシャッターを少しずつ開ける"ということの妨げになってしまうんじゃないか・・と。

これも私が「いろんな意見があっていい」で片づけられなかった理由の一つです。


チェイサーゲームWに救われたセクシャルマイノリティは非常に多いと思います。自分らしく生きられない同性愛者のことをここまでリアルに細かく描いた作品って他にあったっけ?と思うくらい画期的な作品だと思います。
だから「このドラマの描きたいことが分からない」と言ってる人が、「制作陣がおじさんだからレズビアンの気持ちを描けていない」というように言っているのを見ると、どうにも黙っていられなくなります。これだけ深い問題に向き合って描いてくださった制作陣の方には本当に感謝しかないです。


カメラワークや編集や予算など技術的なクオリティが気になる方がいらっしゃるかもしれません。それは「いろんな意見があっていい」部分だと思います。一切何も否定するなと言いたいわけではありません。

ただ、本編の内容に関わるような
「二人のイチャイチャ、ラブストーリーが主であるべき」
「二人の弱さ(不倫や自分で決断ができないこと)に共感ができない」
「浩宇やヨルムの出番が多すぎて邪魔」
などのお声については、本記事を読んでいただいて、樹と冬雨のバックグラウンドに少し寄り添って考えてみていただくのはどうかなと思い、本記事を書かせていただきました。

本記事に対してのご意見などがありましたらいなび~のマシュマロまでいただけると幸いです。
コメント欄など誰でも見れるところに批判的な声が上がるのは避けたいのでご協力をお願いします。


真面目な話をしましたが、私はチェイサーゲームWが本当に大好きです!
樹も冬雨も本当に可愛くて、菅井さんと中村さんの演技も最高で、いろんな感情を持たせてくれるドラマだなと思います。

残り4話、終わってしまうのは寂しいですが、二人の行方を見守りたいと思います!!最後まで読んでいただきありがとうございました!

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