凍結した感性
この人面白いかも、とフォローした人のフォロワーを見ると、一万人超えていて、肯定されたような感じがする。
あなたの感性は間違ってないですよと、SNSから言われているようだった。でも、そんなところで感性を肯定されても意味なくて、それよりフォロワー数で自分の感性は正しいのか判断している自分の感性が嫌になった。その作品が好きだから好きなのか、みんなが好きと言っているから好きなのか、そういう境界線をあえて曖昧にして、毎日をやり過ごしている。曖昧にしておくことで現実逃避するようになったのは、いつからなのだろうか? 曖昧にしたくても、国境は厳密に決められていて、小学校を卒業したら中学校に入学すると決められていて、それが全部人間が決めたことなのが信じられない。人間が作ったものなのだから、それを壊すことだって可能じゃないかと信じて革命に参加した人は、自分の感性が絶対に正しいと信じていたんだろう。渋谷は次々と再開発されて、少し寂しいと思っていたけど、いざ新しい高層ビルや商業施設ができると、便利だなと思ってしまう自分が悔しい。結局、確固たる理念というものは、自分にはないんだと自覚するし、だからフォロワーの数で自分の感性が正しいのか確認したがる。それでも、好きな作家はいるし、ドトールよりスタバの方が好きだし、TOHOシネマズより早稲田松竹の方が好きで、そういう時って、自分の感性は正しいのだろうか、とは自問自答していないから、まさに、これこそが自分の感性なんだろう、と思った。