一万年後の一括り
五十歩百歩という言葉があるけれど、いつまで経っても、その言葉は腑に落ちない。
どう考えても、五十歩より百歩の方が、二倍の差があるわけだし、似たり寄ったりではないと思う。四捨五入すれば同じだと言われても、その切り捨てられたところが大切なのであって、ウサインボルトの世界記録だって、四捨五入されたら10秒になってしまうし、そんなことしたら、北京オリンピックの100メートル走を見て、感動した自分がバカらしくなる。そもそも、五十歩百歩は、敗者が作った言葉のような気がする。もしそうなのだとしたら、ほとんどの言葉なんて、負け惜しみから作られているんじゃないか、とさえ思う。一石二鳥は、ひとつのことを極めている人に敵わない人が作った言葉のような気はするし、石の上にも三年は、早熟な人に対抗しようとして、誰かが作った言葉のような気がする。という文章を書いてから、五十歩百歩の意味を調べてみると、五十歩逃げた者が百歩逃げた者を臆病だと笑ったが、逃げたことには変わらない、という勝者側の言葉だと分かった。ということは、敗者は、それまでどんなに活躍していても、負ければ似たり寄ったりってことなのか。 勝者は歴史に名を刻むが、敗者はまるでいなかったように忘れられてゆく。残酷のような気がして、なんとなく敗者を忘れたくないと思った。けれど、第二次世界大戦は、チャーチルより、ヒトラーの方がすぐに思い浮かぶのだから、敗者が忘れ去られるなんて嘘で、同時に、五十歩百歩だって間違っている、と正当化する。そういう言葉を作った人は、無責任じゃないかと嘆いても、誰が作ったのか分からないから、責めることもできない。作者不明だと、感情をどこへ持っていけば良いのか困ってしまう。作者を尊敬することも、軽蔑することもできない。大体の作品には、作者が記載されているけれど、なぜ言葉には作者が記載されていないのだろうか? 馬鹿を馬と鹿にした人は、何を考えていたのだろうか? 作者が分からなくても、私たちはいろいろな言葉を使っているから、作者なんてそんなに重要じゃないと、遠い先人から言われているような気がした。だから、作者の名前なんて覚えても意味ないのかもしれない。一万年くらい経てば、ベートーベンもモーツァルトもモネもピカソも、そのほか全員、無名になっているのかもしれない。第二次世界大戦を振り返っても、チャーチルもヒトラーも無名になっていて、だたあの時代に生きていた人間は愚かだった、と思われるのだろうか。