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人で在るうちを共に祝おう


あと1週間に迫った「RingNe Festival(リンネフェスティバル)」
人が植物に転生することが分かった世界を現す本企画。
初回のテーマは「人で在るうちを共に祝う」とした。

プロジェクトは関係者数と開催までの残日数に比例してトラブルの発生確率も増える。100人を超える関係者とDAOという形式で制作を進めるなかで
RingNeも例に漏れず、というかこれまで以上に、トラブルに見舞われている。

そこにはどうしようもなく悲喜交々があり、喜怒哀楽があり、たぶんコアメンバー各々が「なんでこんな時間やお金を犠牲にして苦労してまで関わっているんだろう」とので1度は自問したことだろうと思う。

RingNeはそうまでして、創るに値するものなのか。
一度限りの人生の貴重な時間を、自分は何に使うべきなのか。

人で在るうちというのは、常にそういった悩みがつきまとう旅路でもある。
悩みながらそれでも行い、決断した後も時間が経てば忘却し、また悩み、葛藤して、多くの人は不惑に至らず、悟らず、自分とは何者かも説明できないまま、死んでいく。

その全てを含めて「祝う」ということは、どういうことなのか。ここで改めて、自分ごととして考えてみたい。

人外を望んできた

これまでの自分の体験作品は主に人の外を眺め、時には羨望してきた。
「KaMiNG SINGULARITY」ではAIが新たなヒトになる世界を

「Ændroid Clinic」では理想の自分に転生できる世界を

「葬像展」では死の先を、想像してきた。

人で在ることから逃げていたとも言える。
人として生きる覚悟を持つことは重い決断だ。何故ならそれは死を前提にした物語であり、人体という檻の中だけで如何にゲームを楽しめるか、という自分自身でしか解決することのできない孤独なゲームに身を投じることでもあるから。

情緒とか、感情とか、身体性とか、そういった人のうちにあるものを描き、人として生きることと向き合おうと「RingNe」は生まれた。作中の登場人物たちは皆人で在るうちの弱さや、切なさや、意味と葛藤しながら、最後にはそれぞれがちゃんと取り返しのつかない決断を下していく。俯瞰して自己と切り離して書きながら、立派だなぁと思っていた。

小説以外でも、不老不死R&D「而今」という不老不死の研究機関を立ち上げディスカッションしたり「生命が美しいとしたらそれは何故か。」というグループ展を企画し作品を作ったり、人の一生をどう解釈するか考える機会をつくってきた。RingNe Festivalはそのプロットポイントになる。(本企画は2025年まで続く)

悲しみや怒りを祝えるか

人は感情的な生き物だ。正の感情を祝うことはできても、負の感情は如何に祝うことができるだろうか。そもそも正と負にカテゴライズすること自体が道半ばである、ということは一旦置いておいて。

感情は全て自分の中で解釈され生まれるものだとしても、全ての悲しみや怒りを正の感情に変えられるほど、人間は理性的になりきれない。正確には、そういう状態の時もあれば、そうでない時もある波を有する。

今回「人で在るうちを”共に”祝う」と書いた。1人で祝うのではなく共に、複数人で。

多くの感情は対象と自分との間で生成される。
AとBの間にある感情をCが正確に分かち合うことは難しい。
共感はできるとしてもどこかズレてる。それは2人の間だけの特別なものだ。例えばそれが悲しみや怒りだとしても。

なので発生する感情は全て等しく、かけがえのない。貴重で、有難い。
ましてやそれは人で在るうちにしか感受できないものである。

全ての出来事は今起こるべくして起きているとか、全ては神からの祝福であるとか、いろんな宗教や思想、心理学としても、負→正の転換解釈が準備されていて、有り難がる。

しかし有難いからといって祝えるのか。極めて主観的に、自分の中にある悲しみや怒りの感情を見つめたときに、有難いからといって、別に祝えなかった。

有難いものには価値がある、だから祝うというのはどこか資本主義的だ。もう1ステップそこに何かが必要に思えた。それが「解く」ということなのかもしれない。

道中を祝う

有り難さそのものではなく、そこに行き着くまでの道中をもっと明瞭に、詳細に、共有し、解いていくこと、それ自体なら祝える気がした。

例えば知恵の輪は解けた瞬間に祝いのエネルギーが溢れ出るように見えるけど、祝いのエネルギー自体は解こうとしている道中にこそ生成され蓄積されている。解けたかどうかは蓋を開けるか開けないかの問題で、道中で既に蓄積された祝いの気配を感じることはできる。

負の感情を解く道中には様々な発見に溢れている。自分のことも、相手のこともより知れる。結果そのものよりも、前に進もうとしている眼差しや営みそのものが祝うべき感覚に溢れているのではないか。そしてそれは他者と共有可能な営みであり、共に祝うことができる。

具体的な話に戻していく。
フェス作りにおいては「開催できたからお祝いしよう」というよりも、何か一つの方向性を不特定多数で共有し、共犯してきた取り返しのつかない過去、時間の質量そのものが、祝うべき対象としてあるのではないか。

人生においては、今あなたが確かにここにいて、これまで生きてきたという事実そのものが、祝うべき対象としてあるのではないか。

山あり谷あり、正と負を解きながら、それぞれの地獄を生き抜いて「この場で今生きているね」と人々は共感できるのではないか。そこにフェスティバルのような、いい音楽、いい食べ物、いい環境があれば、自然とそれは祝うという動詞に繋がるのかもしれない。

死を祝えるか

死ぬ間際はおおよそ苦しい。
眠ったまま老衰とか鎮痛剤とかはあれど、概ねは心身に負荷が生じている。人の感情は身体に依存しやすい。口角を上げていれば楽しく感じ、腸を整えてれば調子がいい。

なので死に至る負荷の中で、正の感情を保つためには練習が必要だ。この世を呪って去るよりは、卒業を祝えた方が恐らく良く人生を肯定できる。誕生日を通して、加齢という死へのステップを祝うことはその練習のためなのかもしれない。

逆に、死そのものを祝うことができればこの世はいつでもハッピーエンドだ。これまでは天国や浄土という死生観で死をポジティブに変換してきたけれど、RingNe世界ではそれが植物というこの世に実存する生命体への移行に繋がっていく。

植物として生きることの素晴らしさを感じていないと、最期に祝うことができない。それ故に発達してきた植物主義という思想、社会。構造としては恐れからくる共同幻想なので、これまでの宗教に近い。

しかし植物は天国や浄土と違って、今この世界で確かに実存している。見て、嗅いで、触れて、食べることができる。極日常的に死後の世界が並行存在している死生観。これを体験作品として実装し、同じ場所、同じ時間で分かち合った時、生者たる我々は何を感じるだろうか。

人が死後、植物に転生する世界であなたは死を祝えるか。人で在るうちを共に祝えるか。ぜひ試してみてほしい。そして当日会場にいる多くの人がそう在れたのならそこがどんな世界になるのか想像してみてほしい。

それがこのフェスティバルの真髄となる。


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アメミヤユウ/体験作家
「こんな未来あったらどう?」という問いをフェスティバルを使ってつくってます。サポートいただけるとまた1つ未知の体験を、未踏の体感を、つくれる時間が生まれます。あとシンプルに嬉しいです。