体験小説『RingNe』2章-断編-『花束』
「いってらっしゃい!」
満面の笑みで放たれた高純度の祝福は、雲が割れそうな声量で、木々に吊るされた風鈴を揺らし、リィンカーネーションを祝福する音が鳴る。
装置が起動すると、世界は点描画のように分散し、それはやがて粒子か波になった。輪郭は消え、意識は溶けていき、夥しい数の見知らぬ感覚を知覚し、成す術もなく世界そのものとなっていく束の間、僅かな意識が明瞭に過去を再生した。
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「いってきます」と言った。もうだれもいないこの家に、欠け落ちた言葉が虚しく沈んだ。
母が目玉焼きを焼く音も、父が新聞を開く音も聞こえない、凪いだ玄関。ゴミ収集車が来たことを告げる陽気な音楽だけが、容赦なく響く。
扉を開くと、野鳥の声、車の走行音、何も変わらない世界の光景。ただ滞りなく回っている。明日には僕も叔母の家に引き取られ、見知らぬ家で目を覚ます。きっと、滞りなく。
学校に着くと、担任からカウンセリングルームへ呼ばれた。スクールカウンセラーと名乗る見たこともない大人から、両親の事故についてあれこれ聞かれる。
大丈夫? という言葉がまだ乾いてもない生傷を抉る。せっかく無視できていた痛みが再生する。ただ自分が決壊することに耐えた。
その後、学校まで迎えに来た叔母の車に乗せられ、叔母の家に着く。
「新しいお母さんだと思っていいからね」「元の家のように好きに過ごしてね」
道中かけられた様々な台詞はカウンセラーの言葉と同様の質感で、無邪気に心を裂いた。
元々倉庫に使っていた二階の部屋を自分の部屋として開け渡された。折り畳まれた布団と、机だけがある部屋。
「ごめんね、まだ準備できていなくて。これから色々買い足していくからね」と叔母は言って、下の階へ降りた。
夕方になると二つ下で、小学四年生の従兄弟の隆也が帰ってきた。
叔母に呼ばれ、玄関へ挨拶に行くと、隆也は僕を一瞥する。
「これからよろしくね」
と隆也が言ったあと、僕も同じように言った。目は合わなかった。
「母さん、おやつはー」
と言って隆也はリビングへ向かった。
僕は階段を登った。
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翌朝、実家から必要な荷物を持ってくるため、叔母の車で家に帰った。
誰もいないリビング。冷えた木造の柱に触れると、穏やかな気配を感じて、つい額を寄せた。この家で一人で暮らしたい、というのが本音だった。
自分の部屋で荷物をまとめ終え、母の部屋へ行くと、四畳半の小さな面積にベッドとタンスが置かれ、窓際には一輪のカーネーションが咲いた鉢植えが置かれていた。
日差しを浴びて輝く花弁の赤い色彩は、虚になってしまった部屋で、唯一ビビッドな存在だった。
結局僕は、リュックに入るだけの自分の荷物と、カーネーションの鉢植えを両手に抱えて持って帰った。
図書館に行き、カーネーションの育て方を調べた。日差しを好むこと、定期的に肥料が必要なこと、長ければ六月末までは咲き続けることを知る。
部屋の窓際に鉢植えを置いて、今度は少しでも長生きしてもらおうと、大切に育てた。
食卓は、ずっとぎこちなかった。
隆也が叔母に学校であったことを話し、叔母が気を遣って僕にも話を振る、ということが繰り返された。
「歩くんはどうだったの?」
僕が話を始めると隆也はそわそわとし始め、別の話題でよく話を遮った。
隆也は親からの愛情が一%でも、僕へ渡ることを恐れているように見えた。だから僕もできるだけ返事は端的にそっけなく、そのうち話をすることもほとんどなくなっていった。
その分、カーネーションに語りかけることが増えた。
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季節は過ぎて、五月になると、例年より早く梅雨入りした。学校は午後から予報されていた大雨に備え、正午には早退となった。
それでも雨は強くコンクリートを打ち、街の音を掻き消すには十分だったから、玄関のドアを開けても叔母はそれに気づかなかった。
リビングから電話をしている叔母の声が階段まで聞こえてくる。
「そうなの。養育費がもう、大変で……え、養護施設? だめよ、親戚たちからの顔があるもの……」
僕は帰ったことが決してバレないように、足先に細心の注意を払って、階段を一歩、音を立てずに踏む。カタツムリのようにゆっくり、慎重に。一歩繰り出すたびに、学校は明日から休もう、一年後にはこの家を出て行こう、と心に決めていった。
それから、ほとんど毎日部屋に引きこもるようになった。食事と排泄だけの運動。あとは、カーネーションと僕だけの世界。雨が続くと不安になり、晴れれば幸せな気持ちになった。
カーネーションの肥料を切らしたので、久しぶりに外へ買いに行かねばならなかった。
「行ってくるね」と言って部屋を出て、無言で静かに家を出た。
外はあまりに眩しかった。久しぶりの晴れに、道端の雑草も活き活きとして見えた。
二十分ほど歩いたところにあるホームセンターに着くと、今日が母の日であることを知った。たくさんのカーネーションが売られていた。僕は貯めていたお年玉で買える範囲の、安い肥料を買って、帰路に着いた。
できるだけ音を立てないようにドアを開け、静かに階段を上がっていくと、階段にフリンジ状の赤い花弁が落ちていた。心がざわつき、慌てて部屋へ戻ると、カーネーションは根本から切られていた。
夢だと思って、深呼吸をしようとするも、呼吸は速くなっていくばかりで、息が苦しい。目の前の世界がぼやけていく。
そのまま床に身体を突っ伏して、ひどい悲しみがじわじわと込み上げてくると、薄い床板の下から、叔母と隆也の声が聞こえてきた。
あいつだ、と思った。嗚咽を堪えながら怠い身体で階段を降りて、リビングへ入る。
「あら、起きてたのね」と叔母が言う。テーブルの上には一輪の赤いカーネーションが花瓶に刺されていた。
急な吐き気を催して、その場で胃液を吐いた。二人は驚いて、すり足で後ろへ下がった。この距離が縮まることは、もう金輪際ないのだろうと思った。
叔母は目を瞑り、薄くため息をついた後に「大丈夫?」と言って、雑巾を渡した。
隆也は窓を開けて、外の空気を吸っていた。
僕は胃酸で枯れた喉で、吐き気を堪えながら、隆也の方を見て言った。
「このカーネーション、僕の部屋の……」
隆也はそれに気づいて、遠くから言った。
「そうだよ、花は使わなきゃ勿体ないでしょ。それに花は切られても再生するって学校で習わなかった? あ、不登校か」と笑った。
強い殺意が芽生えて、隆也に飛び掛かろうとしたところ、叔母に止められた。太刀打ちできない強い握力で、肩を抑えられた。
「隆也、人のものを勝手に使っちゃだめでしょ」と隆也を叱りながら、僕を赤子を宥めるように、嗜めた。
ものでもない、使うでもない、全てが違っていて、全てが狂っていた。
ただ堪えきれなくて、泣くしかできない赤子の気持ちを初めて理解した。
夕飯も朝食も断り、切断された茎の断面を見ては悲しみが押し寄せて、泣きながら何度も謝った。
土に水を注ぎ、買ってきた肥料を撒き、明日も晴れるようにとただ祈りながら、泣き疲れた身体はすぐに眠りに落ちた。
数日経っても茎は生長することなく、癒えるはずのない日々が続いた。
「まだ何も渡せていないのに」と母に呟いた。
自然と家からは離れていき、行く宛もなく街を歩くようになった。夜に駅前に行くと、ストリートダンスのチームが練習をしていて、特に理由もなくなんとなく練習を見ていたら、ある日から声をかけられ、可愛がられるようになり、毎夜通うようになった。
親もなく、家もないことを話すと、食事を奢ってくれたり、家に匿ってくれるようにもなった。
失踪届など出されぬように、叔母の家には数日に一度だけ帰った。カーネーションはもうただの土となったが、水と肥料だけはあげつづけていた。
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そうして数年が過ぎた頃、未だ癒えない痛みを誤魔化すように、僕も彼らと共に踊るようになっていた。
新たにチームに入ってきた葵という女性と付き合うようになり、一人暮らしをしていた彼女の家に共に住むようになった。彼女もまた両親を亡くし、行く宛もなく街を歩いていたところを勧誘されていた。
互いの境遇に共感し、踊ることで自らを壊し、癒し、忘れ、ただそれが生き延びていくために必要だったから、そうしていた。
彼女と暮らすため家を出ることを叔母に伝えると、無理に眉を下げて寂しそうにする表情が気持ち悪かった。
ここに来た時と同じ量の荷物と鉢植えを持って、今までお世話になりましたと告げて、家を出た。
ある日、植物から故人の量子情報をシーケンスする「RingNe」というデバイスが発売されると、神花という概念と共にそれは瞬く間に広がった。
植物は人生の終わりと地続きの存在、という科学的事実は人々の生命観を揺らし、人と植物との関係を大きく変えた。
鉢植えを見ながら、もう少し早く広まっていれば、とも思った。
都内の堆肥葬管理センターでバイトをしていた葵は、開発会社から支給された「RingNe」をうちに持って帰ってきていた。
冷蔵庫にあったニンジン、ベランダで育てていたガジュマル、様々な植物を解析しては知らない人の名前が出てきて「本当なのかな」と二人で面白がった。
説明書を読むと、既に枯れてしまった植物でも、土中に触れると解析できる場合があるとのことだったので、カーネーションの鉢植えを持ってきた。
息を飲んで、土に触れる。
次に、カラスや蟻、魚類など様々な量子情報が並んだ。
テレビから「RingNe」のCMが流れる。
「RingNeは、大切な人とあなたを繋ぐ架け橋です」
そばにいた。
「RingNe」以降、植物主義者のための共同生活体DAO「ダイアンサス」が急速に知名度を広げ、彼らの活動に共感した僕は入会し、アジトで暮らすようになった。
ダイアンサスでは地上のすべての植物が神花として丁重に扱われ、地下のアジトでは量子サイクルしないよう管理された植物を創って暮らした。
地下での暮らしは人工太陽により外と変わらない自然が再現され、独自のトークンエコノミーにより経済が発達し、新興国のような活気に溢れていた。
植物への理解を深める様々な儀式に参加しながら、たまに地上へも外出し、何不自由ない暮らしを営んでいた。
不思議なことといえば、枕だけ。メンバーは共通のものを使用するよう、技術責任者の佐藤から言われていた。
曰く、寝ている間に植物の感覚へ近づけるよう、チューニングするためのものらしかった。
そのせいもあってか、ダイアンサスで暮らし始めてから、僕はよく特定の夢を見るようになった。
暗闇。上下の黒い大地に色とりどりの花が咲いている。キキョウ、スミレ、ヤエザクラ、タンポポ、マリーゴールド、ヒヤシンス。そして一本のカーネーションが中空から大地と平行に、重力を無視して真っ直ぐに、僕の方に向かって咲いていた。
根は触手のように蠢き、花は心臓のように脈打っていた。その拍動にあわせて、花弁の中心から白い花粉が噴出され、それは空間で人体の輪郭を模っていき、母の姿がそこに現れた。
上下の大地から色とりどりの花々が集まってきて、母の手元で花束となった。母は口を閉じて微笑んだまま、香りだけが変化して伝わってくる。
言葉ではなく、香りで、植物のコミュニケーションで話しかけてくれていることが分かった。でも、その香りは僕の身体をすり抜けていくだけで、意味として認識することができない。
「母さん、会いたかった」
そう伝えるも、何も聞こえていないようだった。
母はただ花束を僕に渡した。
「花束なんて、よくないよ。植物たちが可哀想だ」
そう言って拒む僕の身体を母は通り過ぎると、空間中の花弁が花びらとなり、散った。見渡す限りの花びらの雨中、僕もいずれ散りゆくこの肌を解かして、橋を渡っていくことを心に決める。そうすると夢が醒める。
長い走馬灯だった。僕はいま人と植物の間にいる。この橋を渡り切る頃、主語は融け、意味を失い、世界の本質へ誘われる。目線の先は、土中のように真っ暗で、あと一歩踏み出せば落ちてしまうような恐怖があった。
その先からふと、カーネーションの香りがした。そばにいる。この先が根の国だとしても、あなたに会えるなら共に渡りきれる。
最後の一歩を踏み出した。
黒い光。千紫万紅の花々が咲き乱れた空間。赤いカーネーション。
「ただいま」と言った。
「おかえり」と聞こえた。
(終)