棺桶に相乗り出来ると思うなよ。
死にたいと思った時、初めて裸になった自分に気付けるのかもしれない。
他人の声を介在させる余地の無いほど逼迫した、どうしようもなく張り付いた自分の感覚にやっと耳を傾けられた気がして。
産まれてきた事を選べない代わりに、自分を終わらせる方法を持つための自死が御守り代わりであったり、損切りのためなのかもしれない。
自分なりのバロメータの大小の差はあれど、私は何度か死にたいと思ったことがある。死にぞこなって、今があるし、それでいいんだと、今は思えている。
当時の感情は薄れかけているけど、自分なりの死を手に取って夢みた経験は事実だ。
例えば、日に日に職場に適応出来なくなって、ひょんな事でどこかで歯車が壊れてしまって、泣きながら退勤の車を走らせ、行き着いた名も知らない公園で、ドラッグストアで買えるだけ買った睡眠薬を持ちながら、飲めば全てが終わるとただただ佇んでいた夜だったり、
もしくは、最高のLIVEの帰りに、ふらりと駅のホームに飛び込んで、このまま人生を終わりにしてもいいかもしれないと思うことだって。
今あなたは、どちらも軽いと思っただろうか??
他人にとっては、どれほど小さなものであろうとも、自由な死因の種になり得るのだ。進むも引くもあなたが決めることじゃない。
自死が、唯一の救いだったのかもしれない。
考えうる限りの最高の策だったかもしれないから。
楽観的な死もあれば悲観的な死もあるけれど、定義づけができるのは当事者だけなんじゃないか。
人それぞれの生がある分、人それぞれに死がある。
他人が立ち入れない場所に正解も不正解も、重いも軽いもない。浅いも深いも。理由があってもなくても。干渉するべきではない。
そして終わったことに、理由をつけるだけの時間は虚しい。
嘆かわしくも生きてればやがて死ぬ。悲しいことかもしれないが死は身近で、誰にもある。
外側の世界に生きている今の私たちに人の死をとやかく理由をつけて判断する権利はない。
選んだ方法は直視し難いものであれ、当事者にとっては守るべき内側の世界に帰る選択肢の1つの結果で、人は結局、外側の人間でしか有り得ないから烏滸がましいだけなのだ。
そもそも死が救いになる世界なんて、既に当事者の内側からは既にお払い箱の外側の世界に過ぎないかもしれないから、 自死の凄惨だと言われる一部分を盗み見(たような気になっ)て、勝手な想像で外側の人間が当事者を救えたかも、なんて思うのは驕りだ。
他人の死を思うことが出来るなんて思うことが、放漫だ。入り込めると思わない方がいい。
私は当時の自分へ、最高の弔いを。ここまで人間の皮を被ってきたんだから、せめて最期は人間のままで居させて欲しい。
純粋な死因を捻じ曲げたり察しないように見守り通り過ぎることだけが、今の私にできることだと思う。死の脇道を生きている外側の人間だから。
私がまた死を選ぶことがあれば、定員1名の世界であることを願う。