「大衆的検閲」? 商業主義とディティールの逸失
桐野夏生の岩波『世界』(2023年2月号)への投稿が話題になっている。その中で、桐野はわざわざ「大衆的検閲」なんて言葉を使っているが、言わんとしてることの核心は、文章を読む人の、物事や人間への解像度が粗くなり、読解力・理解力を欠如した人やその能力が低い人も表に現れて、炎上処理のコストもかけたくはない出版社が商業的都合優先するようになり、作家が書きたいことを好きに自由に書かせてもらえなくなり得ることへの危惧の表明だろう。
現実の物事や人間存在は、従来までと比べ物にならないほどに際限なく、そのディテールが情報化されて細分化されているのにもかかわらず。
それにしても、すべての作家(表現者)は本質的な意味では、完全に自由には表現してないのではなかろうか。そうしたいとは思ってるだろうが、表現行為という営為の本源的にそれはどこまでも不可能なのではないか。やはり、自分なりに、あるいは他のどこかから枠を選んで探してきて(この選択以降は自由に)、その範囲のなかで表現を専ら追求しているのではないか。
そして、その枠は場合によっては、民意の明らかな暴走からの自主規制を内面化させてしまう可能性は皆無だとは言えない一方、人々や社会が抱える潜在的なニーズを察知し、枠の選択を洗練させて、表現を時代的に変転させていくことは、また作家(表現者)として決して悪いことではないだろう(良いことになるかは、その人が生み出す表現次第…)。
さらに、あえて言えば、検閲の本筋である政治権力・国家権力による検閲というのは、そういう創意工夫の余地すら、表現活動から奪い尽くし、枠そのものを自分たちの都合に応じたものに限って、お仕着せようとするものなのではなかろうか。作家や表現者が依然として常に神経を尖らせなければならないのは、引き続き、そういう圧力、弾圧に対してこそだろう。