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何か一つのモノにのめり込めなくても良いじゃない。
プロローグ
私は飽き性だ。
それと興味のあるものの幅がとても広い。
好奇心をバネにびよーんと、恐るべき跳躍力を武器に様々なジャンルやカテゴリを渡り歩く。飽きたらまたびよーんと、考えもしなかった方向にジャーンプ。以下繰返。
何か一つのものにのめり込み、その道を極める人って素敵だなってよく憧れてた。
そう職人みたいなやつ。何だかブレてなくて、確固とした自分があるようで凄く魅力的な生き方に見える。
私もいつかそんな風になりたいなーとか思ってた。
沢山ある興味関心の中から、これだってモノが見つかるのでは!とか、特に音楽なんてやっていると、自分のスタイルがいつか見つかるような気がしてた。
作風みたいなやつ。でも構築しているうちに飽きる。違う方向へ行く。うーむ、これで良いのかなーとか考えてた時期もある。
でも今は思う。それで良いって。飽きて飽きて、動きまくろう。行動しまくろうと思える。そんな話。
「どうせ続かない」って言葉をさ、「新しい世界を見つけたのね!すごい!」って言葉で変換していかない?
小さい頃から「飽き性」という言葉は僕について回っていた。一つのキーワードみたいなモノだ。
空手やってみても1年もせずに飽きた、サッカー部に入っても半年もせずに辞めた、ギターは数日だった。絵だけは6-9歳くらいまで延々と描いてたかも、でもその後描くことはあまりなくなった。って、こんなの氷山の一角だ。書き出したら途方もない。やってみて辞めたことなんて無限に湧いてくる。
「あれがやってみたい!」と言ってすぐに「もう興味なーい」に着地する。または別のことがやりたーい!とか。
勿論親はその度に困惑する。「もう辞めるの?!」「また?!」このコンボの終着点は「どうせまた辞めるんでしょ?」「どうせ続かないでしょ?」といった【どうせ系】否定語である。
どうせ系は湧き上がった好奇心に水を差す、スーパー↓サゲ言語↓じゃない?
まじサゲだし、萎えだろうと。
私はそう感じていたし、自分なら
「すごい!また新しいやりたい事を見つけたのね!」
「(以前取り組んでたことは)もうやり切ったのね!お疲れ様!次はどんなことにワクワクしてるのっ?!」
とかそんな感じで声かけるなーって思う。
何で飽きたらいかんのー?って、凄く不思議だった。
なんかひたすら調子に乗らせてくれてたら本当に助かるっていうか、気にせず見つけた事物に没入できるのになーってね。
「飽きる」のメカニズムを分析する。
ってことでさ、そもそも
「飽きる」ってどういう状態なの?って事を考えてみようと思う。
大きく分けて2つのファクターがあるなって考えてるんだけど、一つは
【好奇心の終息】であって、もう一つは
【行動した結果】って感じ。
まずね、【好奇心の終息】だけど、前提として全ての原動力は好奇心であると思うの。
興味関心ほど、人を行動に駆り立てる爆発的なエネルギーは存在しない。
そして大前提に、それらは狙って生み出すことはできないし、何にでも反応するわけではないよね。
全く興味ない分野について「オタクになれ!」とか言われても無理じゃん?
興味ない事をやったり、強引に学ぶ事に「しなければならない」「こうでなければならない」という概念ベースの強要語が染み付いていると、そもそもここで引っ掛かっちゃうかもだけど。つまんないものはつまんない。これは絶対正義だ。ごめん私、心が震えてないからパスだ、それ。って言っていい場面。
そしてHave to系(○○せねばならない)言語に惑わされなくなったとしても、自分で選んだことでさえも、一瞬高揚したはずの好奇心が勢いよく終息を迎えることもある。
こんな自分かっこいいかも、こんなことに取り組んでる自分素敵かも、これやったらお金稼げるかも、人気出るかも、誰かに評価されるかも…。みたいな気持ちをベースに行動してしまうと、そういうのって全部外的要因が原動力になっているから、純粋な好奇心では無いわけ。こうした方が良さそうと思って作り上げたハリボテの好奇心は簡単に崩れ去ってしまう。本当の興味関心があることって、既に心震えてるし、ほとんどの場合理由とかないからなー。この心が燻るように燃える言語化不能のワクワクや身悶えこそ内的要因の好奇心。私は最近オタクの芽生えとも呼んでる。
それでね、この内的要因ベースの好奇心ってすごい勢いで知識を吸収するし(もっと知りたい!学びたい!みたいな)、ガンガン行動につながっていく。
これをうまく継続させると、前述したいわゆる職人っぽい【何かを極めた人】への道が開けるように思うの。良いよね、なりたいよね。
ってことが好奇心ってものだと私の解釈を簡単に説明したんだけど、
この燃えたぎる好奇心がフワッと終息しても、まあ良いじゃんって話をさ、今日はしたいわけ!
もうさ、例え熱量持って取り組んでたことがあっても、ある日突然「あれ?なんか興味薄れたかも」ってタイミングがくる時がある。そこからさ、自分を奮い立たせようとしても燃え尽きた好奇心は嘘をつかないからさ、そこからは「継続しなければならない」のあの忌まわしきHave to語に支配される構造になっちゃうわけ。
そんなの勿体無い!って思わない??
本当に好きだったものならさ、好きじゃなくなった時に正直に距離を取るのも大事じゃないかなって、まあそんなところ。だから飽きることって美しいことなのよ。
一度華々しく燃えたんだからさ。燃えれる人生最高じゃん。オタクってそういうものだし、恋人との関係や夫婦関係でもいつだってそこが大事なタイミングだと思う。私の好奇心を、人生を燃やしてくれてありがとう。らぶ。って清々しく飽きた方が絶対次の心地よい行動に繋がっていくと思うんだ。
そう、2つ目にあげてたのは【行動した結果】
飽きるって状況は、行動した人にしか用意されてないステージなんだよね。
結局行動しない理由を見つけてステイし続けちゃう人って、飽きることも許されない。何も始まらないまま火が消えちゃうのを待つしかないなんて、自分自身があまりに可哀想。
思い切って手放して行動してみると、その先で継続するか、新しい気づきと共に飽きるステージに行けちゃう。ほぼそのどちらかじゃん。
やりたいなって事があったらさ、仕事辞めてみても良いじゃん?微妙な人間関係を頑張って続けなくても良いじゃん?勢いよく飛び出して、その先で好奇心が燃え尽きる様を、素敵な時間だったって見送るのも、これは外的要因で決めてたなーとか、こっちが内的要因からくる興味かもって気づくのも、全ては行動した後にしか落ちてないアイテムよ。
って事で飽き性全肯定!
そんなこんなで、私は誰かが何かに飽きる事を全肯定したい。
よく行動したな!すごい!
あなたにとってなんて有意義な時間だったんだろう!尊い!
みたいな言葉しか浮かんでこない。
新しい自分にいつだって生まれ変わって良いし、リバースおめでとう!ハピバ!って感じ。
ちょっと自分の話書きたかったけど、これは長くなりそう。続きは飽き性編第2章で。飽きたら書かないかも。笑