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お弁当を忘れた日(後編)


はじめに

この話は tel(l) if… の挿話です。時系列はvol. 5の前後です。
本編はこちらから。(全話無料)


登場人物

千葉ちば 咲恵さきえ
主人公。進学コースの女子生徒。伊勢のことが好き。

伊勢いせ
特進コースの社会科教師。毎週火曜日、咲恵の勉強を見ている。

麹谷こうじや 卓実たくみ
特進コースの男子生徒。咲恵の恋を応援すると言っているが……?


前編はこちらです。


本文

ドーナツショップに向かう。
二人で同じ方向の電車に乗るのは初めてだった。
何両目に乗る、ホームのどこに立って待つ、そういうことを一人だと考えなしに決められるのに、ひとり増えるだけですごく違和感がある。
正直、駅から店までの道順が怪しかったけれど、それについては卓実が覚えていた。

よく考えたら、家族以外の人とイートインスペースでドーナツを食べるのは初めてだった。
テイクアウトにすることのほうが多い。

友達とファストフード店に入ってポテトを盛大にこぼしたことがあった。中学三年生の冬だった。
そういうときの対応に人柄って出るなぁとしみじみ思ったものだ。
さすがにもう高校三年生だし、ファストフード店になら友達とたまには行くけれど、ここは慣れていない。席につくまで気が抜けなさそうだ。

さて、どうして私は、卓実とドーナツを選ぶ列に並んでいるのだろうか。
同じに見えて、本当は私だけ、別の世界線に迷い込んでいるのかもしれない。そんな小説がある。

私はいつも通りのドーナツを一つ選んで、セットのアイスコーヒーを注文する。
今日もなんとか、こぼさないで席まで運べた。
少し挙動不審だったかもしれないけれど、空腹でこれなら上出来ではないだろうか。

「卓実、もしかして、飲食店でバイトしてた?」
「してない」
「運び方がスムーズだった」
私なんかに比べたら雲泥の差だ。
「なんだ、面接か? 普通だよ」
「やっぱり、運動神経の差なのかな」
あと、デートでたくさん来てそう。でも、それは言わなかった。

もしかして卓実って、すごくドーナツが好きなのだろうか。
少なくとも、降って湧いたドーナツチャンスに飛びつくくらいには。
彼は一番シンプルなものと、生クリームが入ったものを頼んでいる。飲み物はオレンジジュースだった。

「咲恵って、お嬢様なの? 豪邸に住んでたりする?」
さっきの意趣返しみたいに、卓実が尋ねる。
「違うよ。あんまりこういう所に来ないの。あと、運動神経悪いから」
「よく、進学コースを受験しようと思ったね」

本当に、何も考えずに、家族の言われた通りに受験してしまった。
本命の公立高校に受かると思っていたからだ。
その本命も姉の真似である。
よく調べもせず、勉強は嫌いだからと消去法で進学コースを受験した。

私の所属する進学コースは、スポーツ推薦枠の生徒が半分、残りの半分は文化部と帰宅部だ。
だから、体育も求められるレベルが高い。
私の実力では、保健と出席日数だけで得た、5段階評価の3が限界である。
それもかなりオマケしての2よりの3だ。
そして、体育祭では肩身が狭い。でも、参加する気がある振りをしなくてはいけない。

成績の良い人はだいたい体育も卒なくこなす。
きっと人生の節目にも、特につまずいたりしないのだろう。私と違って、ね。
だから、特進コースの卓実や、文芸部で知り合った私の友達も、運動神経はそれなりに良いのだろう。
どうやら、この学校に私の理解者はいないらしい。

でも、伊勢先生に会えたんだよなぁ。
心の中で存在に感謝した。

「伊勢先生、なんか言ってた?」
会えないなら、せめて卓実から伊勢先生の情報をもらうことにする。
「何も。『わかった』ってだけ」
「いいね」
その様子を想像して、私は噛みしめる。
「何が?」と卓実は呆れていた。
「先生らしくて素敵な話だね。ありがとう」

卓実には、隠さずに伊勢先生の話ができる。
それがとてもありがたい。

「伊勢先生って誕生日いつかな?」
ふと疑問に思った。相性占いをしてみたい。
「聞いて来てほしいの?」
「いや、大丈夫。そういうのは自分で聞かないとダメだから。でも、変に思われるかな」

「咲恵の誕生日は?」
私の誕生日は夏休み中の八月だ。日付を伝える。
「卓実は?」
彼が教えてくれた日付はとっくに過ぎた、四月の某日だった。
「いま、変に思った?」
「いや、別に」
「先生にもこんな風に聞いたらいいじゃん」
「そっか。ありがとう」
実践できるかはわからないけれど、お礼を言っておく。

「そんなに好きなら、編入試験を受けたら良かったのに」と卓実は腕組みをした。すっかり食べ終わっている。

私は全然食べていなかった。
話しながら食べるというのは意外と難しい。
っていうか、ドーナツってどうやって食べていたっけ。急に忘れてしまう。
飲み物はけっこう減っていた。

「先生に会ったのは編入試験のずっと後だよ。それに、私、本当は勉強嫌いなんだ」
とりあえず、ドーナツを小さくちぎりながら話す。

「そういえば、卓実には気になってる人、いるのかな? 私ばっかり話聞いてもらってる気がして」
「俺、彼女いるから」
「あ……そうなんだ」

なんだか、こちらの空気が読めていないのが悪いみたいな、そんな言い方だった。
恋愛の話が地雷だったのか。
たしかに、卓実になら彼女がいても不思議ではない。でも、こうやって話していると、つい忘れてしまうのだ。

私はドーナツを食べることに集中した。
全然味がしない。なぜだろう。
これを食べたくて、ここまで来たのに。

「そうか、彼女の話はできないもんね。勝手に話されると嫌がる人もいるか……」
気まずくて、少しへらへらしてそう付け足した。

そういえば、私の知り合いで恋愛が成就している人を見たのは初めてだ。
それも一回ではなく何度も。
もちろん、学校でカップルを見かけたことはある。
クラスにもいる。
でも、話したことがある人で考えると、今のところ、卓実しかいない。
「ごちそうさま」のついでに拝んだ。
「パワースポットじゃないんだけどな」と卓実は苦笑した。

「卓実って、何気に人と接するときに気遣いが行き届いてるよね。みんな、そういう所もわかってて好きになるんだろうね。そうやって彼女のこと、他人にべらべら話したり、のろけたりしないの尊敬するよ」

私なら経験値が足りなくて、人間関係にまつわる優先順位や選択肢を間違えてしまいそうだ。
そのうち、誰かに嫌われて、それがほころびになって、いまの全部が台無しになる気がする。
だから、普段から必要以上に人と接していない。
恋愛も伊勢先生を密かに思っているだけでいい。

「急に何? 反応に困るよ」
「単に感想だよ。なんで怒ってるの?」
「怒ってないよ」

私は人を褒めるのが苦手らしい。
伊勢先生ならもっとさりげなく、スマートに言えるのかな。褒めるのって難しい。

一方、私のお弁当は、姉が朝のうちに大学に持って行ってくれたおかげで無駄にはならなかったらしい。
それならそうと、早く言って欲しかった。

(完)

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