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tel(l) if... vol.3 呼び捨てにして

登場人物

千葉ちば 咲恵さきえ
 
主人公。進学コースの女子生徒。伊勢のことが好き。

伊勢いせ
 特進コースの社会科教師。咲恵の勉強を見ている。

麹谷こうじや 卓実たくみ
 
特進コースの男子生徒。咲恵から勉強に誘われる。


社会科準備室での勉強に卓実が加わった。

彼には三つのことを話した。
だいたい毎週火曜日の放課後、社会科準備室で勉強を見てもらっていること。
おかげで成績が向上していること。
教科担任にはあまり知られたくないこと。

第三者に話してみると、我ながら他の生徒を出し抜くようなズルい学習手段をとっているなと思った。

「麹谷くんも、一緒に聞きに行かない?
でも、誰にも言わないでほしいんだ。
これ以上、先生に迷惑かけられないし、
大事にしたくないから」

自分から提案しておいてなんだが、卓実が乗ってくるとは思わなかった。
彼と一緒に勉強してくれる人は、探さなくてもたくさん現れるだろう。
わざわざ私と聞きに行く理由もない。

「火曜日か。わかった。うん、他の人には言わないよ。俺もこっそり成績上げたいし」

彼が誘いを受けた驚きと、秘密にしてもらえる安堵が同時に来た。
本当にこれでよかったのだろうか。
わけがわからなくてとにかく早く帰りたかったし、
相手に対しては、この話すぐにでも忘れてくれないかなと思った。

彼とは駅まで歩くことになった。
おおかたの生徒はさっきの電車に乗ったのか、人影は減っていた。
二人でいる所を誰かに見られたら嫌だなと思った。
彼とは乗る電車の方向が違っていた。
とにかく早く電車が来て欲しかった。

「なるほどな。そうやって先生とうまくやっていけるの羨ましいわ」

彼の言葉が少し……いや、かなり引っかかった。
私はどうやって返しただろう。
たぶん、ハハハと笑ってごまかした。

うまくやっているのはそちらのほうだろう。

私は基本的に自分ひとりで何かを実践し、間違えても誰もそれを指摘してくれない。
だから、教師からの些細な連絡事項でさえこちらは聞き逃すわけにいかないし、風邪や法事で欠席したときはクラスメートにノートを貸してもらうたびに申し訳なく思う。
修学旅行のときなど班決めのたびに頭を下げて既にできているグループに入れてもらう。(修学旅行では班のカメラマンに徹した。)

そんな惨めな思いをしたことはないだろう。
彼が何か困っている時、間違えそうなとき、周りはきっと進んで手を貸す。
それだけ周りは彼に関心を持っている。

だったら、先生にわからない所を教えてもらうくらい、別にいいだろう。
そっとしておいてくれないか。
咎められたわけでもないのに、私はその何気ない一言で勝手に傷つき、勝手にイライラしていた。

次の火曜日、休憩時間に卓実が教室に現れた。
すぐに気づいた誰かが彼に声を掛ける。
勘違いではなく、教室の視線は少なからず彼に集まった。
やばい、こっちに来る。
そう思って、私はそそくさと教室を出た。
彼も教室を出て、廊下で話をした。
雑踏の中のほうが人目につかなかった。

「さっき、伊勢先生見かけたから先に話しておいた。咲恵の予定確認してなかったけど、聞きに行くのは今日の放課後でいいよね?」
「うん。いいよ」
「そっち一時間目なに?」
「なんだっけ……」

本当に忘れてしまった。
内心、呼び名が「さん付け」からファーストネームの呼び捨てに変わっていることに驚いていた。

「ねー、一時間目何?」
卓実は廊下から私のクラスを覗き込むと、すぐ近くの女子に聞いた。ドアに隠れて、彼女から私の姿は見えない。
「うわ、びっくりした。なんか貸してほしいの?」
「いや、違うけど」
校舎の違う、特進コースの卓実がここにいる。びっくりして当然だ。彼女は掲示板を見た。
「古典だね」
「ありがとう」
卓実は教室の方に前のめりになっていた身を、またこちらに戻す。
フットワークがとても軽い。

「古典だって」
「私の名前もそうやって誰かに聞いたの?」
「そうだよ。そういえば前に俺のこと『麹谷くん』って呼んでなかった?」 
「呼んだ」
「名前で呼んでくれない? 俺も何気に今朝から、呼び捨てにしちゃってるし、咲恵もそうしてよ」
「わかった」

彼はそそくさと特進コースの校舎に戻っていった。そういえばこの短い休み時間にわざわざ来てくれたんだったなと気づいた。

それから呼び名について
ナチュラルボーンなのか、
身につけた処世術なのか、
そうやって人と人の距離を縮めてきたのだなとしみじみ感心してしまった。

そうかと思えば、今度はモヤモヤした。
私の感情は忙しかった。
先生に話しかける折角の機会がなくなってしまったではないか。
でも、先に探して話をしてくれたのは助かったといえば助かったのである。


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