リアクション(故永しほる記事「誤読#1「うまれisなやみ[Explicit/閲覧注意]江永泉」への)

作者語りの前置き

自分が以前に書いた詩「うまれisなやみ[Explicit/閲覧注意]」に、長文(おおよそ3000字強)の感想をいただきました。とてもありがたいことでした。

自分が何をしたくて文章をつくったのか、どんなふうに文章をつくったのかは、作者も口にすることができます(記憶だよりであるし、事後的に出したものが遡行的なステイトメントと化すことの是非は気にしつつも)。

けれども、どんな風に読まれているのかは、言葉にしてもらってはじめて(私は)知ることができます。どうつくられたのかではなく、どう読解されたのかこそ、いわば作品の生であると(私は)思います。それが形になるのは、一般によろこばしいことです(作者としても力づけられることです)。

どう読まれたのかを複数の読者に言葉にしてもらったこの詩は果報者で(最初にもらったのは、同人『孤、その他』を企画してくださった北上さんからの評でした)、それを知ることのできる私は幸運です。それに、上のような読みをもらったからこそ意識にのぼり、思い出せたことも、ありました。

この作品のつくりかたや、つくるとき何を考えていたのかなど、メモしておきたくなりました。大袈裟に言えば制作秘話に相当するでしょうか。ただ、私個人は、作者語りありきで作品を解釈するよう読者に強いる(作者語りを踏まえない解釈を一段下に置く)のは、わるい振る舞いだと思っています。

ざっくり言えば、私は、原則的に、制作者当人の語りより力のある作者像や作風の分析といったものがありうる、という仕方で誰の作品にも接したいと思っています。自意識過剰な話かとも思いつつ、私は解釈なるものに執着があるため、この種の作者語りに関する私見を書き連ねたくなります。

この辺りの話、自分で考えを整理するためにも別記事でまとめてみました。

自分の思うよい解釈みたいな話をくだくだしく述べて、私の作品を真に受けるなら作者としての私の話をあまり真に受けないでほしい、みたいな面倒な話を述べてしまったと反省があります(もっといい書き方があるはず)。ただ、自分のような解釈の捉え方は一般的ではないかもしれないと思い(自分と前提が異なる人に伝わればということを念頭に)、書いてみました。

以上で前置きを結び、作品感想への直接的なリアクションに映ります。

「うまれisなやみ[Explicit/閲覧注意]」の作者語り

作品の"裏事情"に関する情報にアクセスしやすいのは作者なのは、確かなことだと思います。脳、いわばナマモノ製の制作ノートに、作者はアクセスできるのだから、それを共有可能な形で公開しておくのは一般によいことだと思っています(これが制作ノートだと口にするとそれを信じさせ、読み方の手引きとして忖度を強いてしまう点が作者性の厄介さだとも思いますが)。

以下で「うまれisなやみ」に関するいろんな話を箇条書きで並べてみます。とはいえ、逐次的に何を念頭にして書いていたかは記述できなさそうです。「制作過程など」は、文章の草稿からの形成過程に関するものです(記憶のほか、Wordファイルで保存していた文章の日付などを参照しました)。「参照元など」は、制作過程の話よりさらに内面的とされそうな事柄に言及しています。「オブセッション」は、さらにより私語り的な内容です。

制作過程など

・「0.」は2015年頃に書き留めていたものを2020年に加筆修正した文章。Wordファイルの形式で保存していた。

・「1.」は2013年頃に書き留めていたものを2020年に加筆修正した文章。Wordファイルの形式で保存していた。

・「10.」は「0.」と「1.」を翻訳エンジンを用いて多言語で複数回再翻訳したものをつなげた上で、書き換えや書き加えを行った文章。2020年に作成した。

・注は2020年に作成した。

・文章の作成は主にデスクトップPCのキーボードでローマ字入力で行った。紙と筆記具や、スマートフォンなどでのフリック入力は使用していない。

・『孤、その他』企画者の北上郷夏さんからSNSで詩を載せないかと声をかけてもらい、文章を作成して「0.」「1.」「10.」と付したあと、全体の題を「うまれisなやみ[Explicit/閲覧注意]」に決定して、Wordファイルで送付した。

参照元など

・題の「[Explicit/閲覧注意]」に関連して。動画サイトで配信されるMVで、楽曲タイトルに加えて「Explicit」という語を目にするようになった。私が目にするようになったのは2010年代末からだが、もっと前から使われていたのかもしれない。ある種の暴力性(きわどい、どぎつい、などと形容されそうな)をコンテンツが含む際にその語がタグとして付されているようだった。

・引用したキャッチコピー自体は、2010年頃に知ったものだが、引用したのは2020年の「0.」作成時。加筆修正の過程で埋め込まれた。

・シューベルト『魔王』は10代の頃、ラジカセに入れられたCDで、日本語版とドイツ語版をそれぞれ聴いたのを覚えている。歌手名は失念した。

・TVドラマ『家なき子』(1994)は、かつて見ていた覚えがある。安達祐実が演ずるすずが「同情するなら金をくれ」と繰り返すカット(12話ラスト)が映るTV画面を観ていた。漫画版(沖倉利津子)の上下巻も、読んでいた。確か10歳前後のことだった。「先生もカネゴンだったんだね」と呟くコマがあった気がする(忘れがたい)。安達祐実による実写映像の、怒りや睨みや叫びの演技も印象深いが、漫画版のすずの、静かに吐き出す言が、コマ内の余白に帯びさせる、張り裂けそうな叙情も脳に残っている。

・「xftgy」という文字列に関しては、音読不能な叫びなどの表現とされる、ネットスラング「くぁwせdrftgyふじこlp」を参考にした。「X」に関して私が現在連想するのは、物体X、存在X、X JAPAN、マルコムXなどである。

・「QWERTY配列」のキーボードでは「ftgy」の四字が隣接しているため、キーボード上でデタラメに手を押し付けると、出力される確率が高い文字列のひとつである。ネットスラングとしての内輪感ではなく、読めない名前と叫びへのオブセッションがあった。音読不能性と記号性を高め、検索可能性を下げる意図で(要するに「ああ、あのネットスラングね」と一読時に済まされてしまわないように)、「x」を付した。検索エンジンで極力特定の対象に関連付けられる文字列を避けたかったが、完遂できたわけではない。

オブセッション

2010年頃に触れたアニメや同人音楽が「うまれisなやみ」の文章に明らかに反映されている。例えば水無月すう『そらのおとしもの』のカオスのセリフやLiz Triangle『Who Killed U.N.Owen』の歌である。それらは当時の自分にとって、ルイ・アラゴン『イレーヌ』やラシッド・ブージェドラ『離縁』と同じようなものだった。心の砕かれとリンクしたような言葉の砕かれとしてある表現だった。血と系譜が言葉で絡み合っていた。身体中に文字が刻まれるイメージがあった。人形。サイボーグ。フランケンシュタインの怪物。『シゴフミ』のOP映像を覚えている。人間性よりキメラ的な不自然を感じていた。それはホラーだと思っていた。というかむしろ、ホラーとしてなら通じるかもしれないと思った。キッチュな紋切り型になることができるから。怪物は記号になることができる。記号として、流通することができる。同類でないものと交流できる。同類にすることができるし、同類になることができる。ゾンビ。サイレン。クトゥルフ。改造手術をするか、さもなくば改造手術をされたかった。私はまがい物だった。まがい物のまま本物になることを思っていた。アルトーによって自分自身の作品の子になることを考えるようになった。怪異と物語と己であることの関係を、物語シリーズではなく甲田学人に触れながら考えていた。変形する異形。異界の生。自分を、生きられたキャラクターたちと並べて捉えようとしていた。私は記号の塊で刻んだり刻まれたりしてあって、記すことで輪郭を検めかつ輪郭を崩してありたかった。キキダダマママキキ(岸田将幸)やゲラシム・ルカの詩に落ち着いた。身を置ける風景があった。二次元はなかったけれど。ASA-CHANG&巡礼の曲を聴くときみたいだった。予測変換のように機械が私を先んじる装置が、私の疎外かつ私の解放だった。機械になること。それが私がループ映像になることで、繰り返される錆びついたオルゴールの音色みたいな反復で生と死からなるゲームの外にいけないか私はまだ気になっている。

[了]

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