さようなら、百合男子(中編)――アポカリプス・新人類・ユートピア[2019.11.24]
■はじめに
本記事では、2019年11月24日(日)開催の第29回文学フリマ東京にて頒布の不毛連盟『ボクラ・ネクラ Vol.3』に寄稿した論考「さようなら、百合男子(中編) ――アポカリプス・新人類・ユートピア」を、許諾を得て再掲したものです。同論考の前編に関しては以下の記事をご覧ください。
この「さようなら、百合男子」は「百合男子」をひとつのテーマとしたものでしたが、話運びを勘案するうち前編発表(2018.11.25)と機を同じくして小泉義之「最後のダーク・ツーリズム――『少女終末旅行』を読む」(『アレ Vol. 5』所収)が発表され、また『SFマガジン』2019年2月号で百合特集が組まれ、さらに百合SFアンソロジー『アステリズムに花束を』( 2019年6月)が刊行されるなど、様々な出来事が重なりました。これを受け、私は元々のプランから変更して中編を書きなおしました。以下に示す中編では、前編で取り上げるつもりだった作品のうち、草野原々のものに対象を絞って以降の論を進めるための、予備的考察を行おうとしていました。
しかしその後、状況はさらに変わっていきました。中村香住「誰が「百合」を書き、読むのか」(『海響 特集:大恋愛』第1号、2020年6月)もあり『SFマガジン』2021年2月号の百合特集2021もあり、作品もそれを巡る語りも、どんどん重ねられていき、私自身の見解や前提を修正することになったり、無知や読み違いを反省することになりました(草野原々論に絞っても、そうでした)。次号の『ボクラ・ネクラ』に掲載しようとしている後編においては、またさらに大きくプランを変更することになると考えています。その旨は、あらかじめここで述べておこうと思います(なお、自身の「百合」観を振り返った記事として以下を置いておきます)。
※以下は、昨年2019年に『ボクラ・ネクラ Vol.3』へ寄稿した文章を、再掲したものになります(表記など、一部を改めました)。
■さようなら、百合男子 (中篇)――アポカリプス・新人類・ユートピア
一、ジャンル論と作品論
状況は変わり、できることも変わる。本稿の前編を記述してからの一年のあいだに、小泉義之「最後のダーク・ツーリズム」(『アレ』vol.5 2018年11月)や『アステリズムに花束を 百合SFアンソロジー』(早川書房 2019年6月)などを始め、百合とSFというジャンルと関わる理論そしてフィクションは、いっそう繁茂したように思われる。環境は変わり、プレイヤーも変わる。そして、私も。
振り返っておく。〈推し〉という語を使って言えば、私は、ひとがもはや「百合」の推し、あるいは、「百合男子」の推しではいられなくなる岐路、限界を見極めるために「百合男子的感性のクリティカル・ポイント」を探ろうとしていた。複数の理論とフィクションを渉猟し、私自身の感性の是非をも巻き込んで問いながら、「百合男子的感性」を内的に分割して、そこに見出されるものの見方や考え方などを、是と非に選り分けようとしていたのだ。それが前編を記述した頃、私の念頭にあったプランだった。
プランを変更する。対象を絞る。私はここで、草野原々「最後にして最初のアイドル」(2016年初出)が、いかなる意味でジャンル上の諸要請を満たす物語であったのかを論ずる。さようなら、と二重に言うために。そして、その先へ。論を進めていく。
ジャンルの捉え方に関して、ここで説明しておこう。あるジャンルの読者の感性を論ずる営みとは、ある理論的立場を明確化する試みであると私は考えている。
ジャンルとは何であるか。つまり、ジャンルは何をする機能を備えているのか。本稿では、ジャンルは諸テクストを編纂するものと捉えておく。例えば、〈ポスト・アポカリプス百合SF小説〉として伊藤計劃、瑞智士記、草野原々の名を挙げるとき、それは、それら三者の作品を〈ポスト・アポカリプス百合SF小説〉として解読するだけでなく、三者を評価するための、ある観念を生ぜしめるような試みにもなっているはずだ(例えば、ひとはそれを、〈ジャンルの本質〉だとか〈ジャンルの真髄〉だとかと呼ぶかもしれない)。
そうしたジャンル観念は、使用するその都度ごとに、よしあしを問われることとなるはずだ。その観念がよく使われるとき、より強度ある創作を可能にする観点や技法が発見されるだろう。ジャンル観念はテクスト生成を触発する――例えば、これもSFならば書けるのだ、こんなSFの誕生が見たい、など。逆にその観念がわるく使われるとき、それは創作をより制限する規範として認識されてしまうだろう。ジャンル観念はテクスト生成を抑圧する――例えば、SFと認められるためにはこう書かねばならない、こんなものはSFではない、など。
ジャンルの名の下で諸テクストが編纂されるときには、必ず、そうした観念が(自覚の有無に関わらず)形成されている。――要するにジャンルの機能とは、事例(当該ジャンルに属するとされる諸テクスト)を備えた、批評的な観念の生産なのである。そこからは、既存の諸作品をヒエラルキーへと割り振る基準や、創作を試みたり断念したりするきっかけ、そして、さらなる制作と思考の触発が、引き続いて生産されていくことだろう(注一)。
注一、テクスト、ジャンル、作家、作品などに関する考察を以下に追補する。実のところ、この編纂という観点においてジャンルと著者名には大差がない。銘々に同じ名の付された諸テクストを編纂することは、同じジャンルと括られた諸テクストを編纂することと同様に機能する。あるジャンルを代表する諸作家が選別され列挙されるように、ある作家を代表する諸作品も選別され列挙される。要するに、〈作風〉とは〈ジャンルの本質〉の一変種である。例えば、〈伊藤計劃以後〉のような語は、販売部数や被言及数のような数量的データとも、生年や出版年といった時系列的データとも異なる、ある批評的な観念を生産している。〈作風〉もテクスト生成を触発し抑圧する。――ここに包摂される含意は、おそらく「影響の不安」(ハロルド・ブルーム参照)とでも呼ぶべき問題圏において展開されうるものだろう。すなわち、あるテクストが、既にあるとされる傑作、代表作、先行作などといかに(無)関連になるかという問いの地平において。――これは何某の手癖ではないか、パクリではないか、など(抑圧)。――あるいは、これは何某の新境地ではないか、換骨奪胎ではないか、など(触発)。
とはいえ、唱道者の意向が必ずしも尊重されるとは限らないジャンルの定義とは異なり、作風の内実に関しては〈作者本人〉という特権的な審級が導入されている、とは主張できるかもしれない。もっとも、様々なプラットフォーム上での商業的また非商業的なn次創作や集団創作の普及は、こうした〈作者本人〉の意図なるものの優位は不可侵な自然権などではなく、諸条件により自明視されてきた覇権に過ぎないという認識を巷間に流布しつつあるようにも映る(例えば、キノブックスのWEBマガジンの連載『カレー沢薫のワクワクお悩み相談室』2019年7月5日更新の記事「カレー沢先生、「公式と解釈違い」のモヤモヤをどう解消すればいいでしょうか?」などを参照のこと)。
さらに言えば、作品名ですらも諸テクストを編纂する名目に過ぎないのかもしれない。――極端な事例を挙げて見よう。佐木隆三の小説(講談社 1976年)が原作のテレビドラマ『復讐するは我にあり』(2007年)で、登場人物の榎津巌(演 柳葉敏郎)は、『ローマ人への手紙』第一二章第一九節の文言「復讐するは我にあり」を〈誤読〉しながら、自らの凶行を正当化しようとして語るが、教誨師に反駁を受け、激して叫びをあげる。――復讐は己の手でなすべし、と解して、その文言を心の支えとしてきたと語る榎津に、教誨師は指摘する。それは「主いひ給ふ、復讐するは我にあり、我これに報いん」という「主」の言葉であり、ここでは人々に復讐を戒めるように説かれているのだ、と。――榎津は、愚かにも、『ローマ人への手紙』が総体として示すような〈大意〉に反する〈でたらめ〉な読解(誤読)を行ったに過ぎないのだ、と断ずるのは容易かもしれない。しかしながら、榎津は確かに、あるテクストを首尾一貫された仕方で解そうと試みている。ある意味、榎津は、己でも知らないうちに創作をなし遂げていたのだ、と解することさえできるかもしれない(ただし、ここに批評的な観念を見出すことは難しい)。強度の相の下で捉えるならば、ジャンルや著者の概念と同様に、作品の概念もまた、テクストを編纂する際の相対的に固定的であった枠組みに過ぎないと見なしうる。もしそう見なすならば、あるテクストの個体性(それが一つのテクストであること)は、そこから意味を引き出す解釈の場において、解釈されるたびに与えなおされる性質として規定できるようになるだろう。
迂遠に映ったかもしれないが、ここでは、〈原作への愛〉や〈原作のリスペクト〉といったヒエラルキーを適用せずにn次創作を解釈する地平を整備するための予備的な考察を試みた。
だから、ジャンル小説の読者は、望むと望まざると、つねにすでにマイナーな批評家へと生成しつつあると言える。控えめな口調であれ、傲岸な口調であれ、ジャンルなどは気にも留めないマジョリティとは別の知覚、別の認識、別の思考が、ジャンルを念頭に小説を読む動作主には見出されるはずだ。理論的ではない読解などない。――排他主義や独断主義は、どれほど理屈屋や不平家呼ばわりを避けようと下手に出る動作主とも無縁ではない。――紋切型の評言や、いいね、拍手などが積み上げられる、その傍らに、よい使用法を案出する試みを添えること。そうしてまた別の理論とフィクションが生まれる。
二、諸ジャンルの要請
短編集『最後にして最初のアイドル』(早川書房 2018年)の解説で、前島賢は、作者の草野をこう評している。「膨大なオタク文化の洪水を存分に浴する者、あるいは、みずからの内の深く深遠な世界を追求するものは数多くいるだろうが、両者を併せ持つ才能は希有だろう」(334)。草野は以下のような人物類型を満たす卓越した書き手であると前島は評する。――「二次元キャラや声優やアイドルをこよなく愛しているのだが[……]SFやミステリ、あるいはホラーといった別のジャンルにも愛を注いでおり」、なおかつ、「歴史・軍事や情報技術・自然科学など」の知識を参照しながら、〈原作〉の設定を活かした「悪趣味でグロテスクな」パロディを創作する「悪いオタク」のハイエンドが草野原々である(329)。――以上のような評言は、草野の作風を的確に捉えているはずだ。
付け加えて言えば、ここでいう「悪いオタク」たちのパロディ(n次創作)への衝動は、批評的である。パロディ(n次創作)とは、通例では常識や良識、要はマジョリティの感性によってその使用が統御されているような〈原作〉及びそこに含まれるいくつかの〈設定〉を、別の仕方で展開することで、それらのよい使用あるいはわるい使用が、いかに可能であるのかを探査する実験である。「悪いオタク」たちが望むと望まざると、そうした実験には、例えば、アメリカ合衆国憲法に矛盾を発見したと語ったとされる数学者、クルト・ゲーデルの挙措、すなわち合衆国への帰化審査の場で、なぜその憲法下でナチス・ドイツのような独裁政治が成立しうるのか説明しようとしたという逸話に見出される挙措にも似た、反常識的で反良識的な気風が感じられる(注二)。――もっとも、だからこそ「悪いオタク」の大半は、真に受けるべきでない些細な「冗談」という装いの下でしか、そうしたパロディ(n次創作)を提示しえないのだが。
注二、この逸話は「ゲーデルの抜け穴」として知られているようだ。例えば以下の論文を参照。F. E. Guerra-Pujol 'Gödel 's Loophole' Capital University Law Review, vol. 41 (2013), pp. 637-673。
草野は、「冗談」を、己のなしうる限り真に受けて展開することで、その「冗談」を彫琢し、そこに含まれていた批評的な観念を前景化させるという、その力において、大半の「悪いオタク」たちに比して卓越している。私も前島と同じく、草野の短編「最後にして最初のアイドル」を、「冗談を激しく追求。ありったけの情熱を捧げてたどりついた地平」(330)として捉えている。だが、「冗談」という言葉は、いまだ余りにも自己抑圧的な響きを帯びている。――そこにあるのは、「冗談」というより、諸ジャンルの要請への忠実なのである。
私は草野原々の短編「最後にして最初のアイドル」が、諸ジャンルの要請を組み合わせ、同時にそれを満たしている点で卓越的な作品だと捉えている。ただし私の評価が、「ワイドスクリーン百合バロックプロレタリアートアイドルハードSF」という作者の草野自らによる作品分類と、どの程度に整合的であるのかは、私のよくするところではない。それは、本稿の読者に委ねられるべき事柄だろう。
それでは、「最後にして最初のアイドル」が生い立つ土壌、それが生産されたフィールドに見出される(と私の捉えている)諸ジャンルの要請とは、どのようなものか。以下、四つの問いに応答する形でそれを素描する。
問一:どのような場合に、SFと百合というジャンルは共鳴するのか?
答一:二つのジャンルで共にフロンティア(新天地)が要請されるとき。SFに、いわゆる外宇宙や内宇宙――極限環境、精神世界、サイバースペースなど――を取り扱い、現行制度に包摂されていない土地や空間を――そして、そこに建設されたユートピアを――想像するという機能を割り当てるのは、さほど異例な操作ではないだろう。
それでは、百合に関しては、どうだろうか。同性愛などを抑圧するイデオロギーが支配的な状況では、制度や慣習により否定ないし排斥されてしまう恋愛を想像するジャンルとして百合は機能する(ある意味で、駆け落ちや心中は、現行社会からの離反Exitである)。現行の世界、我々を包摂する社会や、国家といったもの。それらの外にある地平、言いかえれば、新しい生活や新しい共同体を試みるためのフロンティアのイメージに、強度を与える力を発揮するという役割が期待されるとき、SFと百合ジャンルは共鳴する(注三)。
注三、おそらく、日本では平成期以降とりわけ議論されるようになった、少子高齢化と生涯未婚率(五〇歳時未婚率)の上昇によって、それ以前には事実に反する仮想として受容されがちであったSF的な世界観が、日常的なものになりつつある。そのような世界観の浸透を示唆する作品として、例えば、駒尾真子『ワイルドブーケ』全二巻(2008年 一迅社文庫アイリス)がある。これは、戦争と疫病により男性が減少し、生殖に結び付かない自由恋愛が法律で禁止された異世界のヨーロッパ風の王国が舞台の百合小説である。また、百合作品ではないが、ムサヲ『恋と嘘』(2014年より『マンガボックス』で連載)は、満一六歳以上の国民の自由恋愛が禁止され、遺伝情報などを考慮して決定されたという、国家の指定する相手と結婚し生殖するよう指導される近未来の日本を舞台としている。この作品では、国家の主導する強制的異性愛の抑圧性が日常化した環境下での(異性間や同性間の)恋愛物語が展開されている。さらに、『恋と嘘』TVアニメ版の主題歌であったフレデリック『かなしいうれしい』のサビの一節「このまま嘘でもいいから夢泳がせて/正しい正しい今を探してく」は、フロンティアへの脱出という主題を考える上で、極めて示唆的である。
問二:なぜ、ポスト・アポカリプスが、百合そしてSFと共鳴するのか?
答二:現行の世界と連続したフロンティアを想像する上で、ポスト・アポカリプス的な意匠が効果的であるから。グローバル化は、フロンティアを想像困難にした(いまでは外宇宙や内宇宙はもちろん、サイバースペースにすら、ユートピアの夢想を容易に仮託できない)。もはや住人抜きのインフラ、例えば、人類抜きの施設を想像する方がたやすい(注四)。
注四、マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』(堀之内出版 邦訳2018年)第一章の題「資本主義の終わりより、世界の終わりを想像するほうがたやすい」を念頭に置いている。また、造形的イメージとしては、『けものフレンズ』(TVアニメは2017年)の舞台である(と推定される)人類のいないテーマパークや、『少女終末旅行』(TVアニメは2017年、原作は2014年から2018年、『くらげバンチ』に連載)の舞台であるほぼ無人の都市を念頭に置いている。
本稿前編でも引用したが以下の指摘は参考になる。「年端もいかない少女同士の親愛、彼女らが作り出す「二人の世界」を、よりヴィヴィッドに色めいたものとして描き出すために、そのコントラストとして世界から鮮やかさを消し、無機質なものにしようとすれば、//それは、たとえば終末世界となり、ディストピアとなり、//結果として、図らずもSFになってしまう。///なぜ、この百合SFの世界に荒廃した設定が多かったのか。SFに百合が好相性だからではない、百合にSFがマッチするからだ。」(注五)。おそらく、住人抜きのインフラを、違和感なく素描する際に、人類の衰退や(ほぼ完全な)絶滅という状況の援用は、効果的なのだ。
注五、いしもり「百合とSF」(『ナナメ読みには最適の日々』2017年12月14日付)。傍点は原文ママ。
問三:いかにして、二次元にいるキャラクターと三次元にいる人類との間での、暴力が、百合男子において問題となるのか?
答三:キャラクターに対して、作者や読者が非対称な仕方で関係を構築していると認識されることによって。この非対称性は、ジェンダー論的に翻訳されてもきた。
宗教学者の熊田一雄は、評論家のササキバラ・ゴウによる議論を援用して、百合男子的感性における、暴力をめぐるパラドクシカルな構図を素描している。熊田によれば、百合男子は、一方で百合を通して「「対等な性」=親密性」を志向するが、他方で自らの「一方的に見る」、「特権的な立場」を忌避しているという(注六)。ここでの百合は、支配‐従属のような非対称な力関係を持たない理想的な情動的連帯の体現であるとされている。つまり、それは一つのユートピア的共同性の体現なのだ。他方で、そのようなユートピアを現前させるために、現にいる人々にそのような理想を押し付け、その理想を実現するための道具、また、その理想を図示するための素材などとして扱うとすれば、そこには明らかに支配‐従属の力関係が生じる。ここで、解釈する側と解釈される側、能動側と受動側の分断を想定し、そこに二元論的性差の観念が重ねあわせよう。――百合男子の二律背反が素描される。
注六、熊田一雄『〈男らしさ〉という病? ポップ・カルチャーの新・男性学』(風媒社 2005年)第二章、特に82頁などを参照。
百合男子が直面するとされる二律背反は、ユートピア論者が直面するとされる二律背反と類比的なのである。三次元が二次元を包摂する構図と、現行の社会や国家がユートピアを包摂する構図とは似ている。ユートピアが全面的に実現するためには、旧来の共同体は消滅しなければならない。――それと同様に、この意味で、百合の十全な実現のためには、百合男子は消滅しなければならない。
問四、百合男子的感性とポスト・アポカリプス百合SFは、どこにおいて協働するのか?
答四、旧人類としての男性ないし男性性を担う人類の抹消、そして、百合的ユートピアと現にいる作者や読者の関係性の構築という課題において。
百合男子のパラドクシカルな課題は、問一、問二の議論と総合すれば、以下のように要約できる。暴力のないユートピアを、男性性(を払拭できない人類)の消滅した(アポカリプス後の)世界での、キャラクター(新人類)たちによる関係性として表現するとき、それを表現し観賞する作者や読者の「一方的に見る」、「特権的な立場」は、いかにして解消できるのか。また、解消できないとすれば、どうすればよいのか。――作者や読者になること自体が〈百合に挟まる〉にも等しい事態を招いてしまうのであれば、百合男子は〈観測しえない百合〉と、関係ならざる関係を結ぶほかない(注七)。
注七、こうした立場からの範例的な発言に関しては、「百合が俺を人間にしてくれた【2】――対談◆宮澤伊織×草野原々」(『Hayakawa Books & Magazines (β)』2018年7月19日付)が参考になる。とりわけ、同インタビューには聞き手と宮澤の以下のようなやりとりは興味深い。「宮澤 あのですね、壁になりたいとか、観葉植物になって見守りたいとか、あるじゃないですか。僕はまったくそう思わないんですよ。/――それはどうして?/宮澤 え? いらないじゃないですか。僕。/――壁ですら、存在しなくていいと。/宮澤 うん。観測したくない。[……]――よく壁が擬人化されてたりしますが。/宮澤 それは、壁の形をした人間じゃないかと思って。僕はまったく壁にはなりたくないです。かろうじて受け入れられる概念としては、以前『けものフレンズ』が放送されていたときに漫画家の今井哲也さんがツイッターで書かれていた、かつて人間だったものになってジャパリパークのすみっこのほうに転がっていたい、みたいな。これが僕が受け入れられる限界ですね。[……]宮澤 そうですね。白骨死体がバラバラになったような状態でかろうじて。もちろん意識はいらないですし、観測することで影響を与えたくない。観測できない百合を書きたいです。/――観測できない百合、ですか。/宮澤 無になりたいですね」。宮澤の発言は、百合男子の自己抹消という志向の範例的な表出となっているように思われる。
一方的に見る側の男性性と、一方的に見られる側の女性性という、いわば攻め×受け的な二元論がここでは作動している。概略的に系列化して示せば、(a.)能動性‐男性性‐見る側‐攻めと、(b.)受動性‐女性性‐見られる側‐受けというab間の非対称な関係が、作者や読者と、キャラクターとの関係と類比的に捉えられる圏域がここにはある、と言える。この圏域では、願望を充足するフロンティアを、フィクションに仮託するという発想それ自体に、いうなれば二次元のキャラクターに対する三次元の作者や読者からの〈高次の暴力〉の正当化が含まれてしまっているのでないか、という懐疑が提示されている。端的に言えば、この懐疑への応答がこの諸ジャンルの交錯する場では要請されている。
以上、四つの問答を通して、諸ジャンルの要請を素描した。暴力性を排除したユートピアを描く物語は、その理念上、作者や読者と(ユートピアの住人としての)キャラクターとの間の非対称な関係(つまり、暴力的な支配‐従属の関係)をも解消しなければならないはずだ。が、それではフィクションの通例的な享受そのものが不可能になってしまう。このパラドクシカルな構図が、ジェンダー論、セクシュアリティ論の枠組みで捉えられることで、ポスト・アポカリプス百合SFと百合男子をめぐる諸要請、特に作者性‐読者性が不可避に帯びる〈男性性〉(つまり見る側の特権性)の抹消という課題が生じている。
続いて、このような地平において展開された小説として「最後にして最初のアイドル」を読解していく。それを通して私は、要請により具体的な形態を与えるとともに、その要請への応答がいかにしてこの小説をそれ足らしめているのか、論じることを試みる。
三、キラキラの到来 (書かれなかった)
四、エモの零度 (書かれなかった)
追記:第三章、第四章に相当する話題を、「さようなら、百合男子」後編では行うはずだった。非常に簡潔にまとめれば、それはこのようなものだ。――結末において読者と語り手を「アイドル」として規定することで、物語世界を成立させるとともに物語世界と現実世界の結節点である位置として、具体的な読者を包摂し、脱メタ化(=キャラクター化)することによって、草野原々「最後にして最初のアイドル」は、「百合男子」的問題――〈高次の暴力〉(暴力を消し去ろうとする作者の権力や見られることなく見る読者の権力が体現するような、解消困難な暴力性)が「百合」の理念を内側から破綻させる――に対するひとつのとりうべき振る舞いを例示した、と。
そして、私は世界を辞去する(さようなら)「百合男子」とは道をたがえながらも(さようなら、百合男子)、このような仕方で「百合」作品を読む限りにおいては(左様なら)、私もまた「百合男子」として何かを語れるのかもしれない、と話を結ぶつもりだった(ただしここでの百合や男子という語が支配従属関係や二者的な強弱関係を、男性性/女性性という二元論的な性別観とアナロジカルに捉えるという、批判されるべき要素を含むフレームワークであることは、付言しなければならない)。
だが、私は別のことを語らねばならない、と思った。気づいた。
追記の追記:上の説明はあまりに言葉足らずだったため、草野原々「最後にして最初のアイドル」の話をもう少しだけ。この小説では物語世界上で想定される「この世界を小説として読む読者」に、「アイドル」としてなすべきことを(物語世界内の「アイドル」が)託そうとする、という展開になっています。ここで小説(つまり現にある文字列)の読者は、自身が、この物語世界内で「アイドル」に呼びかけられている「読者」として"も"自己を引き受けることを選ぶように促されます(ただし、現に文字列を読み込む肉体の地位は、常に物語世界をはみ出すため、完全な包摂というよりは半身が浸るないしレイヤーが被さる、あるいは世界が二重になるという方が適切でしょう。以下のリンクはホラーゲームの発売前のトレイラーで、私も詳細な設定は理解していないのですが、世界の二重視を視覚的なイメージとして示してくれていますhttps://www.youtube.com/watch?v=Bi8nECXlo6Y&vl=ja)。
私が評価するのは、一方で物語世界内のキャラクター、他方で現にある人体という引き裂かれそのものを物語の展開(つまり「アイドル」をめぐるそれ)と、うまくかみ合わせる試みであるように「最後にして最初のアイドル」が映ったからです。物語世界内から暴力性を排除すること自体が、「暴力性」があるとされるものを排除した世界構築、ないし「暴力性」があるとされるものが存在できないような体系の構築という点で〈高次の暴力〉を免れないとすれば、(初めから)暴力的なものがない世界や、暴力的なものが(贖いとして)解体される世界でさえ〈高次の暴力〉を免れず、そして物語世界を眺める高次の存在の暴力性という問題は解消されません(比喩的に言えば「不在の百合」は見たり想像したりした時点で「不在」性を失うし、それを存在感の程度問題として是認するならば、そもそも不在を志向するよりよい在り方を模索する方がよい、というのが自分の見解です。とはいえ別のやり方は常に探求されるべきだとも自分は思います)。
作品の話に戻せば、この作品が課す二重視は、高次からの観察(想像、創造)が物語世界への侵襲性を持つ、という前提を転倒させようとしています(ただし、物語世界の対象が人間を介して物語世界がいの世界にも現出して……といった感染ホラー的な逆の侵襲性とも異なるものが、そこに描かれていると私は思いました)。観察する読者や、創作する作者、それらを物語世界を脅かすものと想定するとき、つねにすでにある覆せない力関係の想定がなされてしまっています。それが「百合男子」的観点から問題視される暴力性の根源だとすれば、その解消は暴力性の排除(という暴力性の是認)ではなくこの観点の自己解体と変形によってなされるべきでしょう(つまり、二元論的性別観とないまぜになった、非対称な侵襲性の想定自体を問題化する観点へと、「百合男子」的観点に内在しつつの理論的探求によって、辿り着くこと)。
もちろん、草野原々「最後にして最初のアイドル」には固有の物語があり、私見ではそれは「アイドル」と「キラキラ」の問題(これは労働とレクリエーションの善き一体化という夢と、社会での搾取や抑圧という現実とのギャップの問題とも重なっています)であり、それが俗流ダーウィン主義をマテリアライズしたとでも言えそうな(物語世界内の)「アイドル」の生き抜き方につながる点にこの作品のすごみがありますが、そのような試行錯誤は、上で述べたような理論的探求にも役立つ(というよりそうした探究の手引きとしても解する余地がある)ものだった、というのが私の理解でした。
まとめれば、現に文を読む読者を「読者」として物語世界に回収しきったのではなく、あえて物語世界に回収され切らないようなものとして「読者」を読者とリンクさせつつ、そこで"現実>物語"でも"物語>現実"でもないような力関係の考え方をさせる筋道を描こうとしている(と解する余地がある)点で、私は草野原々「最後にして最初のアイドル」が、「百合男子」的問題――「百合」の理念(よい世界の体現)にとって邪魔なものとして「男子」(現にいる自分)があるが、自分抜きには(自分が観測ないし没入できる)世界が存在しないという袋小路――を、別の関係性へ変形させる(部分的に解体しうる)と、評価しようとしていたのでした。――ただし、これ自体が特定の物語論や、二元論的な性差観とアナロジカルに重ねられた力関係などを(変形させるためとはいえ)扱うことは確かであり、必ずしもこのようなやり方だけがその応答ではないということは、やはり付け加えておきます。
[了]