メモ(「クレオール」について)

(2010年代前半に書いたもの)

 「クレオール」という語は、二重に使用されている。クレオールは、一方では歴史的・地理的に限定された場でおこった様々な出来事が生み出した一つの文化のありようを指す。他方、クレオールとは、そのような語で名指される、様々な文化に見出されるような現象・形態的特質をも指す。

 『クレオールとは何か』では、著者であるカリブ海のアンティル諸島のマルティニク出身である二人の小説家、パトリック・シャモワゾーとラファエル・コンフィアンによって、カリブ族の「起源譚」 から、奴隷たちの口承文化と白人的な文字文化、そして、エメ・セゼールやエドゥアール・グリッサンなどの現代クレオール作家へと、歴史的なテクストの集合を通してクレオールという文化の来歴が辿られている。それぞれのテクストを、ありうべき一つの筋をたどるかのように配列することで、多様性と混淆に満ちたカリブ諸島の文化が、始めは否定的にではあるが「クレオール性」と名指されるようになり、そして肯定的なことばとして捉えなおされていくさまが描かれている。

 一方、『クレオールとは何か』の著者たちに加え、さらに同じくマルティニク出身の言語学者も加えた三人の著者による『クレオール礼賛』では、「一つの心的態度」 としてのクレオール性による、アイデンティティと他者との新たな関わりの創設が試みられている。著者たちは、「『普遍性[ルビ:ユニヴェルセル]』への強迫観念」 により否定されてきた、「アンティル性」という地域に根ざしたアイデンティティを肯定し、グローバル化する、つまり、多文化の接触という点で「クレオール化」する環境において、自己も他者をも抑圧しない形で、自己のアイデンティティを体現することを可能にする姿勢が考察される。その姿勢を著者たちは「クレオール性」と呼んでいる。

 対比するならば、『クレオールとは何か』は「クレオール性」の歴史的系譜を、『クレオール礼賛』は「クレオール性」の同時代的意義を重点的に描いている。前者は、テクストをもとにしながら、歴史として記録されてこなかった非白人の文化と白人文化の出会う場で作り上げられてきた、クレオールという文化が今日に至るまでの、いわば来歴の記述である。後者はクレオール性を引き受けたうえで、自らの地域的アイデンティティをも十全に体現しようとする人々のためのいわばマニフェストである。

 ところで、「クレオール性」という概念を捉え、それを用いて思考することは、様々な立場から行われてきた。そもそも、この「クレオール」という語自体が、歴史的に様々な語義を取り込み、意味領域を拡大しながら使用されてきた。クレオールという概念を基に思考を展開したのは、ベルナベ、シャモワゾー、コンフィアンだけではないし、初めてでもない。だから、「クレオール性」という語はそれ自体多様な意味領域を含んでいる。それゆえ、ある地域的・歴史的な一つの文化の性質をあらわすこともある一方、様々な文化に見出せる普遍的な現象をもあらわすこともある、という二重性が生じているのだ。

 『クレオールとは何か』で、そして『クレオール礼賛』でも取り上げられているエドゥアール・グリッサンは、「クレオール化という言葉が世界の現在の状況、すなわち、[……]最も隔たった、おそらく最も異質な文化的諸要素が関連付けられることになった状況を表すのにふさわしい」 と述べる。そして、紛争の原因となるような排他的な「ひとつ根のアイデンティティから抜け出て、世界のクレオール化という真理のなかへ入っていくこと」 、つまり、詩的想像力を用いながら、関係性の中で自らのアイデンティティを捉えることが必要であると述べる。

 グリッサンの「クレオール」概念と『クレオールとは何か』における「クレオール」概念のあいだには、クレオールの地域性に対するとらえ方の違いがあらわれている。グリッサンは「クレオール化」という語で「クレオール諸語を構造化してきた現象のことを言っている」 。一方、『クレオールとは何か』では、「ここアンティル諸島」 の「われわれ」におきた出来事としてクレオール化が語られる。グリッサンの記述ではクレオール化という出来事が地域性を(比較的に見て)薄められているのに対し、『クレオールとは何か』においては、その地域性が(比較的に見て)強調されている。

 とはいえ、その違いは絶対的なものではないし、むしろ共通する捉え方も見出すことができる。グリッサンは、クレオール化が「狭く限定された土地において」 、組織化されていない言語間の衝突によってできたと述べ、それがフランスとカリブ諸島のあいだでおこったということが偶然ではないことを指摘している。一方、『クレオールとは何か』でも、クレオール化について、「世界のあちこちに、われわれが三〇〇年以上にわたって生きてきたこのプロセスは広がっている」 と論じられており、単なる地域性を超え出た性質があることに言及している。つまり、両者の違いは強調する力点の違いである。

 ここまでは、カリブ諸島出身の人々、いわば(単なる地域的な意味で)クレオールの内部の人々の言説を見てきたが、非カリブ諸島出身の人々、いわばクレオールの外部の人々も、クレオールという概念を用いた言説を展開している。本稿では、クレオールと同じく、フランスによる植民地支配を受けてきたマグレブ地域(北アフリカ)出身の小説家と、日本の文化人類学者の論を例として取り上げる。それらの例からは、クレオールの二重性を捉えることの困難性がうかがえる。逆に言えば、その「本質(とされるべき何か)」を固定し、概念化することが困難であるがゆえに、クレオールという語はその浸透力とその非‐覇権性を両立できたのだともいえる。

 マグレブ地域出身の小説家、アブデルケビール・ハティビは、評論集『マグレブ 複数文化のトポス』のなかで、フランス語における多様性の一例として、クレオール語について次のように述べる。「クレオールの価値を形作っているのは、よく言われるように、土地の味わいであり、歌い踊るようなアクセントであり、エキゾティックな即興である」 。ここでは、クレオールの「外部」からの評価が「内部」からのそれとは違って、あたかも「西洋」に対する「オリエント」のようなものとして捉えられていることを読みとれる。しかし同時に、ハティビは「要するに、フランス語とは、程度の差はあるものの、フランス語を形作っては解体する内側や外側から作用するすべての言語のことなのだ」 という言葉からもわかるように、フランス語というもののありかたそれ自体を「クレオール的」なものとして捉えている。

 一方、日本の文化人類学者、今福龍太は『増補版 クレオール主義』で、クレオール語の生成について「言語というような確固たる文化的体系ですら、接触や融合の結果として、伝統や一貫性から切り離された、『原型』への還元の力にさらされていること」 に注目する。ここからは、今福にとって、個々の言語が確固としてあることと、個々の言語の「原型」となるような普遍的な構造があるということが、前提となっていることが読み取れる。そして、クレオール化について、「土着文化と母語の正統性を根拠として作りあげられてきたすべての制度や知識や論理を、まったく新しい非制度的なロジックによって無化し、人間を人間の内側から更新し、革新するビジョンをうみだす」 可能性があると主張する。ハティビとは逆に、クレオール化を自己の内的な変化の契機として肯定しようとする態度と、言語の確実性や普遍的言語の措定などの「非クレオール的」な前提認識が共存している。

 つまり、「クレオール語」をあたかも「われわれ[西洋的文明人]にとってのよそものの使うことば」であるかのような印象を与えかねない修辞で形容するハティビが、「フランス語」というカテゴリーそのものが常にその境界の再構築とともにあるという見方を打ち出す一方で、「クレオール語」による「われわれのことば」の再編を称揚するはずの今福が、「土着文化と母語の正統性を根拠として作りあげられてきたすべての制度や知識や論理」の境界それ自体の不確かさを忘れたかのように、「クレオール化」において、「母語」とその外側の「まったく新しい」言語、つまりは「われわれ[西洋的文明人]にとってのよそものの使うことば」があるかのような論理を展開してしまうのである。

 このような、クレオール化の把握のねじれは、「クレオール」それ自体の持つ二重性の表れであると言える。クレオールを地域的・歴史的な特集現象とみなす一方で、クレオール化の構造を理解していたハティビと、クレオールを普遍的現象としてとらえながらも、クレオール化の前提となるような言語文化の流動性の認識をとらえそこなって映る今福の例は、クレオール化というものが、容易な抽象化も特殊化も困難なことばであることを再認識させる。それは、特異と普遍という二つの極の間を揺れ動くものなのだ。

 『クレオールとは何か』は、クレオールということばが揺れ動きの下にあることを理解しており、クレオールということばの来歴を、同時代的な理解から、地域的・歴史的な軌跡として構成したものである。この本は、その意味で、クレオールのはらむ二重性を圧殺することなく示すことに成功している。

 同時代的には、クレオール化という出来事は、(グリッサンが指摘するようなものとしては)世界中で発生している。それはハティビのフランス語についての理解に見られるような言語のありかた、つまり、他者であるはずのものが自己の枠組みを深く変化させるという出来事である。今福が指摘したように、クレオール化は、確かに、土着・正統・正当というイデオロギーによって形成された、覇権的な言説の体系を転倒させ、問い直し、少しずつ、つくり変える力を持っている。

 クレオール化は、まったくの普遍的言説として周囲のあらゆる多様性を飲み込んでしまうようなものではあり得ない。その一方で、まったくの特殊的言説として、暴力的に周囲の多様性を排除してしまうようなものでもありえない。クレオール化は、いたるところに少しずつ浸透し、穏やかに作り替えていく。『クレオールとは何か』は、そのような概念として「クレオール」を提示することに成功している。

 『クレオールとは何か』の、クレオールの提示の仕方それ自体も、二重的である。一方では歴史的な流れ、歴史的な資料に依拠しながらも、それは同時代的な理解の中で洗練された視座によって配列される。このように、『クレオールとは何か』は、クレオールの二重性を体現し、特殊と普遍とのあいだを揺れ動くことによって、覇権的な言説に揺れをもたらし、少しずつその覇権性を解体するやり方を示しているのだ。

〈参考文献〉
アブデルケビール・ハティビ(2004)Abdelkébir KHATIBI『マグレブ 複数文化のトポス――ハティビ評論集』(澤田直編訳)青土社
今福龍太(2003)『増補版 クレオール主義』筑摩書房
エドゥアール・グリッサン(2007)Édouard GLISSANT『多様なるものの詩学序説』(小野正嗣訳)以文社(原著1997)
ジャン・ベルナベ、パトリック・シャモワゾー、ラファエル・コンフィアン(1997)Jean Bernabé, Patrick Chamoiseau and Raphaél Confiant『クレオール礼賛』(恒川邦夫訳)平凡社(原著1993)
パトリック・シャモワゾー、ラファエル・コンフィアン(2004)Patrick Chamoiseau and Raphaél Confiant『クレオールとは何か』(西谷修訳)平凡社(原著1991)

追記:ASA-CHANG&巡礼『ニホンゴ』2020が、台湾の宜蘭クレオール(日本語とアヤタル語の接触により生まれたとされる)に触発されたことで制作された曲だという話を知り、あらためてクレオールへの関心が増してきた。PCの奥に沈んでいた文書だったが、見つけたので、再掲してみる。


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