フレーズの繁茂:「一億(総-)」の場合[1935-1985を中心に]

 フレーズは繁茂する。しばしば、自らの変種を生み出しつつ、それは増殖する。もちろん自らが使用される条件を厳密に規定しようとするフレーズもあれば、その規定を曖昧化し、できるだけ拡散しようとするフレーズもあるだろう。しかし一義的になろうとするフレーズも多義的になろうとするフレーズも、それにより、使われやすさ、つまり複製されやすさを高めようとしているはずだ。その意味では、同じ方向に向けられているはずだ。

 フレーズには日付がつきものだ。それが言われたり記されたりする日付が、どのフレーズにも(権利上は)あって、それを検めることで、あるフレーズが繁茂していく過程、すなわち増殖と変異からなるネットワークを記述することが(権利上は)できるはずだ。ここでは「一億(総-)」というフレーズの系譜、その繁茂のありようを探査してみたい。

 この「一億(総-)」というフレーズが繁茂する端緒は、1935(昭和10)年の国勢調査であったように思われる。例えば同調査を受けて、東京世論新聞社により『総人口一億記念 国勢調査要覧』(1936年)が、また朝日新聞の副社長であった下村宏(海南)により随筆評論集『人口一億』(1936年)が出版されている。なお、この時点での一億という概数は、いわゆる「内地」の人口のみならず、同時代の植民地の人口を加算した上で称された推定値だったようだ。

 「一億」は総力戦体制下で、いわば〈主語を大きく〉して、挙国一致の雰囲気を演出するために活用された。例えば1939年には陸軍省情報部編の小冊子『国家総力戦の戦士に告ぐ』で「聖戦へ民一億の体当り」という五七五の「国民標語」が示されており、国民貯蓄奨励局発の標語「一億一心百億貯蓄」が流布されていた。翌1940年7月23日の首相就任演説で近衛文麿も「一億一心」を用いている。

 そして1942年頃には「一億総進軍」といった文言がそこかしこで登場するようになっていく(東条英機「大東亜戦争と一億総進軍」『警防』1942年1月や、岩竹茂雄「一億総進軍と銃後の協力体制」『大日』1942年1月、徳富蘇峰「一億総進軍の時」『日の出』1942年2月など)。「総進軍」のほかに、「一億総突撃」「一億総武装」「一億総決起」などの文言も現出しており、雑誌『少年倶楽部』1945年7月の表紙は「一億総鉢巻」と題されていた。このようにして、「一億(総-)」というフレーズは氾濫し、浸透したのである。

 総力戦体制下において浸透した「一億(総-)」というフレーズは、ポツダム宣言の受諾(8月14日)と降伏文書の調印(9月2日)を経た後も、後続する語のイデオロギー的含意を取り換えつつ存続していく。日本という領土が再設定されていく中で、「内地」を越え植民地を含めた「国民」を糾合するために用いられた「一億(総-)」は、今度は「国民」を糾弾する語として利用されていく。東久邇稔彦による「全国民総懺悔することがわが国再建の第一歩[……]我々は今こそ総懺悔し」(1945年9月5日演説より)といった発言が「一億総懺悔」演説とまとめられていくことになる。

 やがて「一億(総-)」は徐々にその政治(地理)的含意を忘却され、再設定された領土内での生活形態の均質さの雰囲気を演出する語として、活用されていくことになる。白黒テレビの世帯普及率が90%近くに迫ったとされる1957年には、大宅壮一が「ラジオ、テレビというもっとも進歩したマス・コミ機関によって、“一億白痴化”運動が展開されているといってもよい」(『週刊東京』1957年2月)と評して論議が起こり、1959年刊行の『大宅壮一選集』第7巻には「〝一億総白痴化〟命名始末記」や「〝一億評論家〟時代」が所収されることになる。

 「糾弾」や「糾合」を交えながら、1960年代以降「一億(総-)」はいっそう氾濫していく。目についた「一億(総-)」を以下に列挙してみる。「一億総通訳」(三島由紀夫『婦人公論』1960年6月巻頭言)、「一億総株主化運動」(邱永漢『投資家読本』1961年)、「一億総デザイナー時代」(本田宗一郎『得手に帆あげて』1962年)、「一億総流民化時代」(川添登『現代都市と建築』1965年)、さらには、「一億総水洗化」、「一億総マイカー」、「一億総レジャー化」、「一億総サラリーマン化」、「〝一億総カレーライス〟に賭ける男」、など……。「一億(総-)」は文化的経済的な含意を強め、いわば消費社会的な文脈が横溢する言葉の奔流の中に自らの居所を見出すことになる。

 「日本」なる領土を再設定するプロセスの中で、このフレーズはなお自らの形態を保持して、含意の変動を繰り返しながら拡散していく。もちろん、この後でも、「一億(総-)」というフレーズは、大日本帝国の総力戦体制を批判する文脈で用いられている。とはいえ、「もはや「戦後」ではない」と1957年版『年次経済報告(経済白書)』に記されてから10年が経過した後の、日本統計協会の月刊誌『統計』1967年7月号では、ついに「日本の人口一億を突破」との文言が堂々と姿を見せている。再設定された領土の下で、「人口一億」は綴りなおされたのだ。こうして30年をかけ、フレーズ「一億(総-)」はロンダリングされたのだった。

 むろん、領土を再設定するプロセスは、つねにすでに遂行されてきたし、いまなお遂行されているし、これからもまた遂行されていくだろう。例えば、1944年にグアム島で戦死したとされ、同島で生存していた横井庄一が羽田空港に到着したのは1972年2月2日のことだったし、調停された協定が発効され、琉球諸島及び大東諸島に沖縄県が再設置されたのも、同1972年5月15日のことだった。

 1970年代に入ると、「一億(総-)」は「中流」ないし「中産」の語と合流する。1970年版の経済企画庁『国民生活白書』では、1960年代に所得・消費水準が急速に平準化したので、「このような階層別および地域別の所得・消費の平準化に対応して、中流意識がとみに強まつている」と、国民における「中流意識の一般化」が指摘されている(5頁)。大蔵省(現・財務省と金融庁に相当する)の官僚であった佐上武弘の「三つの設問〔ジェネレーション・ギャップ、就業人口革命、一億総中産階級化〕」が雑誌『地方自治』1972年10月号に掲載されている。またM・N「一億総中流化を考える」という時評が雑誌『浄土』1972年2月号に確認できる。1970年以降も「一億(総-)」は様々な語と結びつきつつ繁茂していったのだ。

 1980年代には、山崎正和、石川真澄、筑紫哲也の三者による討論「「柔らかい個人主義」の時代はくるか 一億総中流意識・見栄講座・三浦報道・浅田彰現象を考える」(『朝日ジャーナル』1984年6月、第26巻第28号)や、藤島泰輔の連載「1億総中流時代の新ステータス」(『週刊ダイヤモンド』1985年8月-12月)のように「一億総中流」は自明の言葉のような佇まいを示している。しかし、一方で、次のような新聞記事も確認できる。「「一億総中流」と呼ばれるほどわが国では中流意識が高い。[……]しかし、家を建てればローン地獄。教育費もバカにならない。[……]「中流幻想の崩壊」や「中堅層の没落」を指摘する声が聞かれるようになった」(森精一郎「“崩壊”兆す?中流意識 所得・資産の格差開く」『朝日新聞』1984年10月1日)。とはいえ、まとめるならば、いずれにせよ、「一億(総-)」というフレーズは、ある種の一体感を演出する際に用いられてきたのだった。

 そして、以上に見てきた、この「一億(総-)」というフレーズの探査は、格差とそれを超える一体感の幻想へと思いを巡らせるための、呼び水となるだろう。

 1988年版の『国民生活白書』では、格差の拡大という問題意識のもとに、意識調査の結果とその分析とが記されている。そして1990年代末から2000年代にかけて「中流」の崩壊と「格差社会」の到来は喧しく議論されることになる。それは、いわゆる就職氷河期の到来と軌を一にしている。1975年生の赤木智弘が「31歳、フリーター。希望は、戦争。」という副題のついた文章「「丸山眞男」をひっぱたきたい」を発表したのは、2007年のことだった。

 *赤木智弘「「丸山眞男」をひっぱたきたい」論に続く……?

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