戦争の報を受けて書いた4600字
戦争の報があったとき、エッセイを書いた。自分にとっては、エッセイと、批評や評論や小説との区別は、やや曖昧だ。以下は、星野いのり[企画・編集]「ウクライナへの人道支援のためのチャリティアンソロジー『青空と黄の麦畑』」(2022年3月27日)に寄稿した文章だ。
※星野さま 自己判断で、江永のアカウントに転載したのですが、何かありましたら、ご一報いただけましたらさいわいです。
思い出の話
江永泉(えなが・いずみ)
あなたに、1991年生まれの私の話をします。思い出したことを話します。私の見聞きしたこと、体験したこと、その他です。あなたの周りとは、よく似た光景かもしれないし、ずいぶん違うのかもしれません。自分だったら、何を、誰に宛てて、どんな風に話すか。そんなことを想像しながら、読んでもらえると幸いです。
この前、東京の書店で本を買ったら、チラシが挟まれていた。福嶋亮大『ハロー、ユーラシア 21世紀「中華」圏の政治思想』という本に、植村真也(原作)の漫画『終末のワルキューレ』の宣伝が。キャッチコピーにこうあった。「人類の存亡をかけた、全世界の神代表 vs 人類代表の、タイマン13番勝負が開幕する!」。なんとも苦い諷刺のような、冗談にならない冗談のような組み合わせだった。そう評して済ませるには、あまりに広告的でポップ過ぎるかもしれないが。
私は日本のフィクションをあれこれ読んでいて、ゲームのように造られた世界が壊れていったり、また社会が壊れていったり壊れた後で残る世界が広がっていたりする様子をたくさん眺めてきたが、そういう類いのものは二次創作ないしはアマチュアの手による創作が中心だと思っていたら、気がついたら黙示録以後(ポスト・アポカリプス)なる検索タグが流布するようになっていて、それに殺伐とした異世界が様々なプラットフォームのそこかしこに溢れていて、いまだに奇妙な気持ちになったりもする。
日本の小学校に私が入学してから、高校を卒業する頃までに、統計では35万人超が日本で自ら命を絶っている。いじめを苦に、という報道も幾つかあって、私はひとに死ねとかエイズとか言われていた側だったから、つまり、いじめを受けていた側だったから、それに、そう言ってきた相手のひとりの顔面を椅子で殴ろうとして、教師に羽交い絞めにされた側だったから(頭おかしいんじゃねえのお前、って、殴ろうとした相手にドン引きされた)、そして、そんなどこかおかしい気もする自分自身がこの世に存在していていいのか、と悩んだ側だったから、それを考えると、まだ、異様な心境になる。
いまのところ、私は、自分も他人も、この手で殺すことなく、生きていられている。ただ、あるとき読んだ「自爆する子の前で哲学は可能か」という小泉義之の文章に、私は自分が此岸に踏み留まれていたと教えてもらったような気がしていた(それは私の誤読や誤解に基づいた体験だったかもしれないが、それでも)。
北朝鮮による核実験やミサイル発射実験が脅威として日本国内で大きく取り沙汰されていた頃、街に緊急放送が流れてサイレンが鳴るなかで、未成年だった私は何かとんでもないことが起こると直感したことがあった。実際は、何事もなく生活を続けていた、商店街の大人たちのほうに軍配があがったが。書いていて気づいたけれど、これはSMAPの曲『Triangle』が、あちこちで流れていたときのことだった。自衛隊がアフガニスタンやイラクに派遣され、それがどうして国際協力なのかと議論されていた時期のことだ。そのときには想像もしていなかった事態が、その後、たくさん起きた。
自衛隊のひとに会うと、何か戸惑う気持ちがある。このひとは、命を奪うとか、命を失うとか、そういう事態も辞さない行動のために、備えているのだ、と。もちろん、災害救助や緊急救命医療、強行犯捜査、そして諸々の社会福祉ほか、命が失われたり奪われたりする瀬戸際でなされる、様々な活動がある。当然ながら、私が現に身を置く社会なり世界なりが、無関係にあるわけでは全くないのだが、距離がとれている、とれてしまえてあるという感触を抱えている。そういうところにいる(それでも時々、周りで、ひとが死ぬ)。
私は自衛隊員の孫だ。早期退職した祖父はアルコール依存症になってしまい、だから妻子には色々あった、と聞いて育った(その子どもというのが私の親のうちのひとり)。けれど私が学校に通うためのお金のいくらかは、その祖父からの援助でした。
自衛隊員が「人殺しのために働いている」、みたいな物言いは、よく批判のときに口にされていましたよね。例えば20年ほど前、アメリカによるイラク侵攻の頃です。みなさんは生まれていましたか。覚えていらっしゃいますか。私は少しだけ。もっとも、「人殺しのために働いている」などと罵られたことは、私にはないのだけれど。それでも私は「人殺しのために働いて」いた者(直接そう聞いたことはなかったけれど、祖父はたしか通信関係の役職だった)の孫です。そしてまた反戦の志を聞き、育ちました。
もうひとりの私の祖父の父親(曾祖父)は、第二次世界大戦後すぐの時節に変死したそうです。「国策会社」に勤めていたその曽祖父は、上司の指示で書類を処分したところ、上司と連座で不正の責任を取らされ、最後は海に沈められた、らしいです。だから、それまで生徒として通っていた学校で、今度は下働きをして家計を支えながら勉強していた、とも。そちらの祖父が遺していた書きかけの回想録には、そんな風に書いてありました。どこまで本当なのかは、わからないけれど。
祖母たちの話をしないことを、ゆるしてください。ひとりまだ存命なのです。また曾祖母の話をしないことも。私が知るひとりの曾祖母は、いま存命の祖母とのあいだに、色々あったのです。
別の、どこまで本当なのかわからない話。もうずいぶん前のこと、スマホも知らなかった頃の話だけど、二人きりでいるとき、自分は、東条英機の遠縁の一族だ、と打ち明けられたことがあった。これはあんまり人前で言うな、って言われているんだけど。そう前置きをしながら、ひとが話してくれたことがあった。確かめてはいないし、会わなくなってから時間が経ち、相手の連絡先もわからない。だけど、ともだちだったんです。
皆さんは、どんな戦争犯罪人の縁者と会ってきましたか。話してきましたか。心を通わせてきましたか。誰から、どんな話を聞いて、育ってきましたか。あなたの御曾祖は人を殺しましたか。反戦を訴え、獄中で亡くなりましたか(そういう人もいた、と4、5歳の頃に知った。親族ではなかったけれど)。あるいは、飢えて、落ちていた腕を食べようとしましたか(別のひとから聞いた話。私はそのうち一人しかわからないが、私の曽祖父はそのような経験はしていなさそう。もう三人の曽祖父は、どうだったのだろう)。
思い出を話すのは怖い行為で、しばしば傲慢な行為かもしれないとも思います。時宜にそぐわない長話を誰かに聞かせることができる力は、何か強権じみたものにも思えます。ただ、こうした話を通してしか、できないことがあります。想像すること。例えば写真でしか知らない相手の顔の輪郭や陰影に、そのひとが辿ってきた生を重ねてみること。あるいは統計で数えられる一名に。そこに抽象的な誰か以上の、息をして血が流れる誰かがいると心底から感じること。そういうことです。
ひとは、過去を思い出すとき、また話すとき、目の前がおろそかになったり、手が止まったりします。それらは、必ずしもよい出来事とは保証されてないけれど、それで止められる事態もあります。だからこうして、わざと少し遠くに、私的な言葉を投げようとしている。声を吹き込んだ風船を飛ばすように。
皮肉な出来事。自分や他人が己だけの思い出を声に出しあうという私のビジョンには、10年ほど前に読んだ詩人、ヨシフ・ブロツキイによる講演の一節が残響してある。「大衆の支配者たちが小さなゼロを操ってやろうとたくらんでいるとき、芸術はそのゼロたちの中に「ピリオド、ピリオド、コンマ、マイナス」と記号を書き込んで、ゼロの一つ一つを、常に魅力的ではないにしても、ともかく人間らしい顔に変えてしまうのです」(『私人』)。私たちが言葉の力で互いに「ともかくも人間らしい顔」を得る、そんな理想。けれど、冷戦下にソビエト連邦を追放されたこの詩人は、その後もずっと、大ロシア主義という思想を抱き続けていたらしい。つまり、ウクライナという国が立つことを否定する思想を。ブロツキイは、そうした立場から、「ウクライナの独立について」という詩を書いてもいたらしい。私はそのことを、これを書くなかで初めて知った。
もうひとつ、皮肉な出来事。私はあるとき、自分をいじめていた加害者も私と同じ人間であると腑に落ちた(だから、いまは級友と呼びたい。後年になるほど、世間の空気を読み上や下の人間として他を扱っていたほかのクラスメイトたちに比べればずっと、私は私とその級友に近しさを覚えるようになっていた。不相応な理想化や悪魔化が働いているとも自省するが)。家庭や経済の諸々を背負って、歴史や社会の積み重ねのなかで、誰もがいまを生きている。私にそう気づかせたのは、書店で立ち読みした小林よしのりの漫画『いわゆるA級戦犯』の、東条英機だってひとりの人間だった、というメッセージだった(そして偶然、私が東条英機の遠縁のひとに会ったのは、そんな体験をしてから暫く後のことだった)。もっとも、だから日本の歴史を知ろうと私は加藤陽子『それでも日本人は戦争を選んだ』を手に取り、そうして歴史を学ぶうち、私の心を撃った漫画家は粗雑なデータを使い回し、諷刺というかプロパガンダ的な美化や歪化を施した絵で、独断的な主張を発している人物だと判断せざるを得なくなっていった。
これらの、韜晦に映るかもしれない文章が、そこに記された皮肉な出来事が、茶化しや水差しのために選ばれたネタというより、笑い泣きをする以前の地平で私が激突した身も蓋もない事実からできた話であることを、強いて私は述べておく(どうしようもなくアイロニカルなのは、わかっているけれど)。
人にはこういうことも起こると、話したくなったのは羽鳥ヨダ嘉郎『リンチ(戯曲)』を読んだからでもある。そこには例えば、20世紀にハンセン病者が(不当に)隔離されていた島でなされていた男女分断(これはいわゆる「断種」にも通ずる優生学的企図に裏打ちされていたようだ)への抵抗として、人々が暴動を起こした話に触れられている。それはアメリカ植民地下のフィリピンのクリオン島で起こった出来事で、日本軍による満州侵攻のあった年に起き(てしまっ)た男性たちによる女子寮襲撃であり、だから「この女子寮襲撃をマンチュリアと呼びます」(『リンチ(戯曲)』)。さらにその後、日本軍の海上封鎖によってクリオン島への食料輸送路が絶たれ、たくさんの脱出者や、餓死者が生じた、と記録されているようだ。
この紛然。これが生であり、記憶であり、歴史でありもすること。一捻りのシニカルな皮肉ごときで、カバーしきれるはずもない紛然。どんな表現のなかにも、出来事のなかにも、それが示さんとする当のイデオロギーからの逆流すら生ぜしめかねない、ユートピアへの衝動が抱えられてあるのではないか(そして、その逆もまた)。私はそんな風に思いたくなる。きっと、それが私を動員する、イデオロギーなのだが。
私がいまできる、話はこれで終わりです。
結びに、ふたつの文言。
「戦争の徹底的に卑劣な破壊の下に、さらに消費のいくつかのプロセスをも発見しなければならない」
(ドゥルーズ『差異と反復』)
「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」
(ユネスコ憲章 前文)
これらを、脳に刻んでおく。
[了]