一億総無能:赤木智弘「「丸山眞男」をひっぱたきたい」を読む【1】

1.

 赤木智弘の文章「「丸山眞男」をひっぱたきたい――31歳、フリーター。希望は、戦争。」は2007年1月に雑誌『論座』に掲載されたのち、『論座』2007年6月号掲載の「続「丸山眞男」をひっぱたきたい――けっきょく、「自己責任」ですか」とともに赤木自身の手でweb上に公開されている。記事「「論座」の文章を公開しました」(『深夜のシマネコBlog』2007年7月11日)で赤木は、その公開の意図を次のように説明している。

 「希望は戦争」という、安直な要約ばかりが流通し、それが誤解を招いていることもあり、原文をアップすることにしました。
 読んでいただければ、私がいかに「戦争を忌避しつつも、しかし、戦争にしか期待を込めることができない諦念」を表明しているかが分かっていただけるかと思います。[http://journalism.jp/t-akagi/2007/07/post_227.html]

 そのように語られる文章は、学術的な作法に則った分析でもなければ、現場を活写するルポルタージュでもない。それは何より「戦争を忌避しつつも、しかし、戦争にしか期待を込めることができない諦念」の「表明」である。そこでは佐藤俊樹『不平等社会日本 さよなら総中流』(2000年)と苅部直『丸山眞男 リベラリストの肖像』(2006年)に言及されているが、両者の議論の枠組みが、忠実に引用されているようには思われない。特に苅部の参照に関しては、いうなれば挿話の孫引きであり、しかも細部を捨象して再解釈しているように見える。しかし、それゆえの力が、この文章には確かに見出される。私の見るところでは、この文章にはユートピア論が胚胎している。そこでは、「戦争」という障蔽の裏で、あるユートピアの到来さえもが「期待」されているのだ。

 自らが包摂された(格差)社会への耐えがたさ、そして、自らでは(格差)社会に適応できず、(格差)社会を改良することもできないという二重の無能力の認識、これらがあいまって、あるとき、突然、一切が別の秩序によって統治されることになるという、あるユートピア到来への「期待」が語られることになる。ただし、そのユートピアの輪郭は、赤木が「戦争」と要約する、雑多なイメージに埋もれてしまっており、戯画化された空爆、あるいは、人生の意味を付与するロシアンルーレット、もっと言えば〈一億総死亡ガチャ〉のごときイメージ群により覆われ、断片的に示されるにとどまっている。先取りして言えば、私は、その雑多なイメージ群から、〈一億総無能〉とでも形容しうるはずの、あるユートピアの構想を引き出そうとしている。――私はここで、赤木の文章を、ユートピア論的に読解しようと試みる。

 繰り返すが、赤木の文章は、「「丸山眞男」をひっぱたきたい」という題名が示唆するように、著者による価値中立的な分析というよりは、語り手の情念、願望を滲ませて語るスタイルをとっている。おそらくユートピア論は、いつの論であれ、誰の論であれ、妄想と理論との、あるいは特異な思弁と紋切型の述懐との、そうした狭間での、危険な彷徨であると言える。妖しげな情念への共感を断ち、述懐の内容を、置換しうる限り、既存の紋切型として取り去ってみて、それでもなお残存するものは何かを、探査せねばならない。この文章の綴り手がその筆致に滲ませている、情念と願望、そして諦念と絶望を確かめていくことから始める。

2.

 語り手が言及する佐藤俊樹『不平等社会日本 さよなら総中流』(2000年)は、「可能性としての中流」が終焉したと説く。自己が想像し、実行しうる「努力」を継続することで、より豊かな生活に至ることができるはずだ、という可能性を共有する(大多数が一律に信じうる)という意味において人々は「平等」に「中流」だという意識を培ってきたのだ、と佐藤は論じている。

いわば未来への可能性の共有において、「みんなが中」の新中間大衆社会は成立していた。しかし、二○世紀の終わりと歩調をあわせるように、「可能性としての中流」は消滅し、さまざまな分断線がうかびあがりつつある。[佐藤俊樹『不平等社会日本』88頁]

 このような見方は実のところ、それ以前になされていた意識調査の分析が提示した、議論の枠組みを踏襲している。1970年版の『国民生活白書ー豊かな人間環境の創造ー』では、国民における「中流意識の一般化」に関連して次のような分析が記されていた。

 さらに注目すべきことは、10年先の将来について「下」は「中の下」へ、「中の下」は「中の中」へ、「中の中」は「中の上」へと、それぞれ一階層上位へあがることを希望していることである。人並みの生活をしたいという意識が生活の向上意識に強くつながつておりしかもそれが、現実からかけ離れたものとしてではなく、実現可能性があるものとして描かれているのである。[『国民生活白書ー豊かな人間環境の創造ー』6頁]

 このように「中流意識の一般化」において、「人並みの生活をしたいという意識」そしてそうした生活に「向上」するのは「実現可能」だという「意識」が伴っていることが、1970年時点で注目されていた。佐藤の新書は、この「実現可能性」の信憑が成立し機能した歴史的条件と、それが信を失い機能しなくなった現状がいかにして到来したのかを論じていたと言える。

 ここで強調したいのは、「可能性としての中流」が、そもそも内的に破綻している観念なのではないか、ということである。「中」は、「上」と「下」なしには規定されないが、誰もが「向上」するならば、畢竟、誰もが「上」となり上中下の区分は消滅するはずだ。パイを分ける、という比喩を使うならば、相対的により多くのパイを手に入れることと、パイ自体を絶対的により大きくすることが、ここでは混同されている。前者によるパイの増加と後者によるパイの増加とを取り違えることで、「向上」の「実現可能性」は、担保されていたのだろう。

 赤木の議論も、概観すれば、こうした枠組みに立っている。ただし「未来の可能性」は二重に失われ、相対的な「向上」も絶対的な「向上」も、もはや実現しえないものとされている。

 佐藤俊樹氏は『不平等社会日本 さよなら総中流』の中で、ホワイトカラーとブルーカラーの世代間移動について、戦後の高度経済成長で一時的に開放性が大きくなったものの、団塊世代の時点ですでに開放性は戦前のレベルにまで小さくなったと考察している。すなわち、戦争が流動性を押し広げ、社会が安定するにつれて流動性は失われていった。
 それでも、経済が右肩上がりの時代は問題がなかった。流動性がなくとも、経済さえ右肩上がりであれば、給料は増え続けたのだ。給料が上がるということを通して、すべての労働者が報われていた。
 三種の神器(白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫)や3C(カラーテレビ、クーラー、自家用車)、それに持ち家や結婚・出産などの家族関係の構築、おまけに憧れのハワイ航路もつけておこう。こうした「庶民の夢」と呼ばれたものを、この時代の人たちは手にすることができたのだ。格差は確かに存在したものの、それは「アイツは3ナンバーに乗っているのに、俺は普通車だ」というレベルのものであり、現在のような、人間が生活するうえで致命的な格差ではなかった。
 私たちだって右肩上がりの時代ならば「今はフリーターでも、いつか正社員になって妻や子どもを養う」という夢ぐらいは持てたのかもしれない。だが、給料が増えず、平和なままの流動性なき今の日本では、我々はいつまでたっても貧困から抜け出すことはできない。

 ここでの「「庶民の夢」と呼ばれたもの」や「今はフリーターでも、いつか正社員になって妻や子どもを養う」という夢」などを、全て共感を交えて理解するのは困難かもしれない。それは、少なくとも部分的には、例えば男性学的観点から、〈治療〉すべきイデオロギーとして、批判的に検討できるかもしれない。他方で、今なお、自分の子どもなるものを出産したり育成したりできるか否かの差が「人間が生活するうえで致命的な格差」と考えることもできるのであれば、語り手の吐露する切迫した絶望感のようなものも、今なお理解可能なものであるはずだ。

 このワーキングプアというくくり方は何かがおかしい――その違和感を突き詰めていくと、番組では「元サラリーマン」「イチゴ農家」「仕立屋」といった経済成長世代と、「ホームレスになってしまった30代の若者」「フリーターである私」というポストバブル世代の間にある大きな差違を、見過ごしてしまっていることに気づく。
[……]
 特に、仕立職人が、妻の葬儀のために手をつけずにいる貯金のために、生活保護を得られないことについて、識者が「妻の葬儀の費用を自力でまかないたいというのは人間の尊厳であり、それを捨てないと生活保護を得られないことに問題がある」と述べていたことが気にかかる。それが尊厳だというのなら、結婚して家庭を持つことや100万円の貯金など夢のまた夢でしかない我々フリーターの尊厳は、いったいどこに消えてしまったのか。

 語り手による「貧困」の悲嘆や、「尊厳」の希求は、もはや真剣な同情を催すよりは、滑稽に映るかもしれない。――おめでたいことだ、と冷やかに嘲笑されてしまう類の寝言に映るかもしれない。

 2007年時点で31歳の「フリーター」であるというこの語り手が、知ることのなかった現在を生きる私たちは、〈いま・ここ〉にある社会はもっとひどいとか、〈いま・ここ〉にいる社会人たちはこんなに視野が狭くないとかとコメントして、それで済ませることも可能だろう。だが、「人並みの生活をしたいという意識」を、語り手の現状に合わせて修正すべき偏見と捉えることは、結局、現状適応を目的とした自己欺瞞なのではないかという、この懐疑にはまだ何か無視すべきではない何かが残されていないだろうか?

 この語り手は、――〈いま・ここ〉にいる〈我々〉からすれば――稀少な恵まれた生活を〈当然の権利〉として要求しているように映るかもしれない。結婚できないこと、正社員になれないこと、そうしたことが「人間が生活するうえで致命的な格差」だという理解に対して、そもそも前提とされる〈ふつう〉の認知が歪んでいる、と感じるかもしれない。しかし、認知の歪みとは何か? この語り手が吐露する、「庶民の夢」が叶えられそうにないことへの絶望は、――そして「希望は、戦争。」という語に込めた情念は――例えば「『現代用語の基礎知識』選・2016ユーキャン新語・流行語大賞」のトップ10に選出された、「保育園落ちた 日本×ね」(×は引用者による伏字)という語に込められたそれと、通じ合っているのではないか?

 ここで、安易に、この語り手の認知の歪みを〈治療〉することが、問題の解決策だと述べてはならないだろう。――それは結局、個人を社会に適応させるばかりで、社会を個人の思いや願いに合わせて変えていく契機に結びつかない。〈ふつう〉を(合理的に、かつ、良識的に)正しく認識できるように、〈治療〉すること。それは、現状に満足するために、パイが半分しかないという不満ではなく、パイが半分もあるという感謝を持つようにと自他に促し、自他をそう訓育する欺瞞に等しいのではないか。

 それは見方によっては「向上」をもたらすかもしれない。だが、しかしこの「向上」には増加が欠けている。もはや全体的な経済成長の可能性はないかのようであり、よくなることはないから認識を改めろと命じられているかのようだ。そこには、何ほどかたえがたく、また耐えるべきでもないものが混ざっていはしまいか。こうした考えに首肯しうる何かを見出せるのならば、そのとき読み手はきっと、この語り手と同じ地平に立っており、同じ風景を見ているはずだ。

 そして、きっと、同じ絶望も知っている。

(3.に続く)

参考


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