不毛の荒れ地の自由と平等――スレッドフロート型電子掲示板に投稿された"なんJ語実話SS"における紋切型の両義性
0.事の経緯
こちらを読み、大変に触発されました。
以下、自分の感想を連投したものです。
以下の文章は『ボクラ・ネクラ』第四集(2021年11月)掲載の江永泉「プラットフォームの壊れた夢 厭な夜の妄弁」の一部を再編集し、加筆修正を加えたものです。
1.SSと呼ばれる主にト書きを用いて電子掲示板上で展開されてきたアマチュア中心の創作文化に関して
2021年現在[原文ママ]、ネット小説という言葉でイメージされがちなものは、おそらく2010年代に大きく伸張した「小説家になろう」や「カクヨム」などのものにせよ「PIXIV」や「ハーメルン」などのものにせよ、小説投稿プラットフォームにおけるそれ、つまり"従来の紙の小説"とほぼ変わらない画面構成の物語であるはずで、ゼロ年代の『電車男』のような、スレッドフロート型掲示板に分割して投稿される(スレッドを編纂した)形式の作品のことは、あまり想像しづらくなったように思われる※1。そんな作品の多くは「SS」と呼びならわされているジャンルに分類されていた、はずだった。
SSとは、「ショートストーリー」(Short Story)もしくは「小説のように文字で書いたり読んだりする創作要素のある短い同人作品全般」を指す。多くの場合、アニメやマンガ、ライトノベル、ゲームなどの元ネタがある二次創作で、原作の設定などを使ってパロディ要素を加えたりカップリングなどを加えた内容、原作を補足、補完するような物語、ファン による外伝のようなものが念頭に置かれる。ただし、本記事で後に触れるような「実話」ジャンルもあれば、「男」「女」「エルフ」などが登場する一次創作群もある。例えば橙乃ままれ『まおゆう魔王勇者』(2010書籍第1巻)の原作となったSS「魔王『この我のものとなれ、勇者よ』勇者『断る!』」が、一次創作としては有名だろうか。
元々、小説において「ショートショート」と呼ばれるカテゴリがあり、これが流用される形で呼称「ショートストーリー」が広まったとされる。しかし分量・内容的に「ショートショート」の範疇に入らない作品も多いこと、後にSSと略されたこともあり、意味が拡散して今日に至った。「サイドストーリー」「サブストーリー」「セカンドストーリー」「小説=Syou Setsu=SS」などの意味が込められることもあたっという。英語圏の「Fan Fiction Novel」(FFN/ ファンフィクションノベル)などとは、原作に相当するものを欠いた作品群(実話SSや『まおゆう』)を含む点で必ずしも一致しない。
SSというジャンルでどんな試みがなされ、どんな達成があったのか、是非の吟味も含め、取り組まれるべきことは山積しているが、この記事では特定の作品の話にフォーカスする。
※なお、スレッドフロート型掲示板の内容を引用する際、見やすさの観点から、空白の量を適宜調整し、太字強調などを施した。
2.なんJ語実話SS
電子掲示板には、誰もが、何であれ、書き込める、とされていた。そんな場に投稿される作品から、自由と平等をイメージしてみたいと思う。ただし、その最悪のバージョンのひとつを。
ここではID:zNuulXjOd「パッパ「…………アタマガイタイ…」」(2016年5月14日初投稿)を見てみる。本作は、中学二年生から30歳過ぎまでの「ワイ」の半生をいわばスライドショーにしたもので、父親の脳卒中を皮切りに、高校を中退する、両親の扶養を担う、生活苦と借金、パチンコにおぼれる、地震により被災するといった出来事が、簡潔なト書き風の形式で並べられている。作品は「今ワイ「…。」」という絶句に至った後、「①親は大切にしよう。/②お金は大切にしよう。/③最悪の事態に陥る前に、誰かに相談しよう。/④取り返しつかなくなりますよ。//終わり。」と区切られ、教訓説話の体裁がとられる。そして「全部実話です。/なんか質問あるなら受けます。/無いかな(^0^;)」と続き、以降、「>>133/おぅ!頑張るで!/んじゃ!」まで、他のレス、つまり、同じスレッド上の別の人に拠る書き込みへの応答がなされる。
この作品の特徴は、貧困と病苦からなる「実話」が、「ワイ」や「パッパ」といった人称が示唆するように、いわゆる「なんJ語」と呼ばれるところの紋切型表現を利用して物語化されていることである。「なんJ語」とは、「なんでも実況(ジュピター)」と呼ばれる電子掲示板を中心に形成された、スラングを含む一連の紋切型表現のことである。仔細は省略するが、「なんJ語」を使うとされる人々を指示する、顔文字やAA(アスキーアート)による視覚像が与えられており、そのような人々には「なんJ民」(または「やきう民」など)という呼称が宛がわれている。
この「なんJ語」という紋切型表現のため、この作品は「実話」であると証言されるにも関わらず、何か深刻さを欠いたかのような印象を覚えさせる。冒頭から見てみよう。
「ワイ」と「医者」の科白にともに「w」が過剰に含まれることは、両者が状況をいわば他人事のように捉えているということを示しているように捉えられる。過剰に使われる「w」は、笑いの感情を伝えるよりは、リアリティの剥奪、親身さを欠いた冷笑的な気分を催させる効果を発揮している。一連の「「え…?」」、「中2ワイ「え…?」」、「ないよな?」といった文言がもたらす不穏さは、そうした冷笑的色調と対比されることで際立つ。特にレス番号9での、括弧抜きで、いわば地の文のような形で書き込まれた「ないよな?」という文言は、自分の意図かどうかも定かではない形で、認めがたい不安が漠然と立ち上ってくる、そうした気分を見事に描写している。しかし不安は「一年後パッパ「あー、タバコ吸いてー」/「酒飲みてー」/「仕事行きてー」」に至って、一気に解消されたかのように映り、「ワイ」の言葉はまた「w」に塗れていく。
そして、物語はこの後、「ワイ」の高校中退(「「学校辞めよ」」)、両親を扶助するための借金、パチンコへの惑溺(「「パチンコしたら稼げるかな…?」」、「27歳ワイ「慶次ヤバすwwwwwwwwwww1日で15マソ儲けwwwwwwwwwwwwこれはいけるwwwwwwwwwwwwww」」)、といった経過を辿り、「29歳ワイ「ヤバすwwwwwwwパッパ様態悪化wwwwwwパチンコで増えた闇金wwwサラ金wwwww生活費wwww病院代wwwwwww」」といった状態に至る。
「ワイ」の科白はもっぱら「w」塗れであって、時たま挿入される「w」抜きの科白(例えば、「「学校辞めよ」」)が際立つとはいえ、全体的に、思考停止、というよりは生々しさが鈍磨したような気分で覆われている。この作品が、「実話」とされながら、「ワイ」の心情や、物語内容に没入するのとは全く異なる仕方で受容されていることは、次のような一連の流れを見ることで明瞭に把握できる。ID: zNuulXjOd.netによる投稿の後に、レス番号103やレス番号133のような応答がなされているのである。
作品は「ワイ」が「w」塗れの語りをもう出来なくなった地点、「w」を出すこともできず沈黙する「今ワイ」の時点で、作者zNuulXjOd.netの現時点と一致させられ、その後は作者が、いわば「ワイ」のモデルであるところの現実の人物として、地の文で語り始める。しかし、例えばこの物語への応答は、「w」塗れの感想であったり(レス番号103)、あるいは、「w」を交えているがゆえに作者の「ワイ」には「余裕」がある、という診断であったりする(レス番号133)。まるで、このような紋切り型塗れの物語であれば、内容に関しても語り手に関しても、同情であれ拒絶であれ、どんな感想を付けようと構わない、というよりも、何であれどうでもいいかのようである※2。
もちろん、「ワイ」の体験する貧困や病苦は、インターネットにアクセスする、現在生きている日本語話者の幾らかにとって、無視できないような内容を含んでいるのではないか、と思われる。例えば「低学歴と高学歴の世界の溝」(2013年8月9日)といったはてな匿名ダイアリー記事が衆目を集め、参照され評言を寄せられていたことを想起せよ。
身近に感じるかどうかはともかく、「ワイ」の物語を、ある種の貧困の事例として関心を以て眺めるような、何らかの読者共同体を、特定し、名指すことができると、それが示唆していたように思う。それにも関わらず、「低学歴と高学歴の世界の溝」と「パッパ「…………アタマガイタイ…」」が与える印象は、まるで異なるものである。賛否はあれシリアスに受け止められる一方と、残酷で不謹慎に笑いとばされる一方。それは読者に提供される情報の多寡に還元されるものではなく、「なんJ語」という紋切型、一種の文体が関わる問題であるように思われる。
3.紋切型の功罪
例えば、2015年10月18日に立てられた、「彡(゚)(゚)が事件・事故の犠牲になるスレ」を見ておきたい。作者が実際の事件を「なんJ語」や顔文字、AAを用いて「事例」として作品化したものであり、あわせて27の「事例」が紹介されている。特徴的な紋切型が用いられていることに加えて、ここで注目したいのは、事例として選択された体験が、作品化されることで、いわば同じ地位に並列されることである。
このように、1937年ドイツでの事件から始まる「事例」は、現在の日本にまで及び、「これ覚えてるわ」や「せやで、あまり詳しく言うと身バレするから言えぬ/すまんな」といった反応が書きこまれるような事件まで、紋切り型にして羅列していく。そして「事例22」では、「ワイが学生のときの話(もう15年前)ンゴよ」と、作者自身が体験したとされる事件が語られる。
事例1と事例22を並べるとわかるように、どちらも犠牲者役となる顔文字は、「彡(゚)(゚)」(この顔文字は、「なんJ民」特に「やきうのお兄ちゃん」を示す)としてあらわれ、事故・事件の原因とされる無機物が「○○ニキーwwwwww」と語り、犠牲となった者の「彡()()「ファッ!?」」ないし「彡()()「」」で結ばれている。両者は地理的にも時間的にも隔たり、深刻さの度合いも異なり、一方は他人事で、もう一方は自分の体験であるにも関わらず、いずれも平板な紋切り型によって、同じような物語として受容できてしまう。あたかも、「なんJ語」のような紋切型が、人々を出来事の生々しさから隔てる、皮膜となっているかのようである。
つまり、紋切型は、どんな出来事も同じように包んでしまうのだ。語られるのがどんな出来事であっても、スラングに塗れた、他人事のような「事例」として、同じように受け止めてしまえるようになる。それが紋切り型の使用がもたらす、一つの効果だろう。
翻って、「パッパ「…………アタマガイタイ…」」の読者が、その作品や作者に対して、たとえ物語が「実話」とされていようと、この社会の諸相を洞察させる内容を含んでいようと、なにかどうでもいいと感じてしまうとすれば、それは、「なんJ語」的な紋切り型が、ある種の効果を発揮しているからではないか。思考停止、ないしは、生々しさの鈍磨が生じているからではないか。いってみれば、「なんJ民」の話すことが何であれ、それはどこかネタくさいのであり、ベタであると主張したところで、それがネタになってしまいうるという、どこか底の抜けた感触は、拭い去ることはできないのである。
本稿はここまで、単純で常識的な通説を、まだるこしく述べてきただけではないか、と訝しむ向きもあるだろう。確かに、ここまでの話は以下のように要約できるように思われる。
すなわち「なんJ語」で話された――「なんJ民」として話した――内容は、真に受けてもらえなくても仕方ない、と。
確かにその通りである。しかし同様に、どこまでも真に受けられてしまっても、仕方がないのである。そして、そんな風にしてスレッドの上では、実話も史実も虚構もごたまぜに、紋切り型塗れの文体で語られ、毀誉褒貶を受けているのである。そのようなスレッドの上での狂態を、剔抉しているのは、実は、こんな文言であるのではないか。「ここが天国だなんて/それじゃあまるで地獄みたいじゃないか/クソったれもアーティストも一緒くたなら/糞も芸術も同んなじだな」(呂布カルマ(@Yakamashiwa)2016年4月18日12時27分のtweet)。
例えばそんな天国/地獄では、「ワイ」がパチンコにはまって、借金塗れになり、「パッパ」も扶養しなければならない中、「マッマ」から末期がんだと告白されたという報告に対しても、「最初のクモ膜下出血で父親死んでりゃ良かったのになwwww/そしたらお前ももうちょいまともに生きたかもなwwwwwwww」(レス番号103)と応答してしまえるのであり、そして「ワイ」を引き継ぐように語る作者さえも「不謹慎だけど、そうなるかもね。/高1ワイにタイムリープしたい。」と返してしまうことが、可能なのである。
ここでは、笑い事でない実話さえ滑稽な失敗譚と化しており、作者さえも、自分の体験を、ありふれた事例として扱うのである。そこにはありふれているがゆえのすごみもある。「最初のクモ膜下出血で父親死んでりゃ良かったのになwwww」という言にさえ、「不謹慎だけど、そうなるかもね」という応答がなされる。このことが示すように、誰かが「ワイ」の人生とは無縁であるという線引きは、ここでは成立していない。
レス番号103の人物(ID:9k7OGxM0r)は、常軌を逸した冷淡な人物としてではなく、作者、そして「ワイ」もまた思ってしまうであろうような、ありふれたことを書き込んだ、どこにでもいる人物として、存在しているのである。「ワイ」の体験した出来事は、作者にとっても読者にとっても、誰であれ、いわば、同じように他人事として受けとめられていると解釈できるのだ。こんな紋切り型塗れの天国/地獄では、誰もが、誰でもないかのようにして、出来事が捉えられるのである。
暴挙に映るかもしれないが、そんなスレッドの上にこそ、肯定すべき自由と平等の力を、見出してみたい。例えば、以下のように解釈することで。――すなわち「なんJ語」的な紋切り型においてこそ、人々が、自由に、そして平等に語る存在になるのである、と。――そんな風に口にできる場合さえあるのだ。
社会においては、自由も平等も分断され、それぞれに相応に配分されてしまっているように思う。例えば、はてな匿名ダイアリー「低学歴と高学歴の世界の溝」はこう述懐する。(リンクを再掲する)
「この溝は超えたことがあるものにしか実感できないんだろうなと思うし、実感しても人生にいいことはあまりない。だから大半の人は溝に気付かないか、見ない振りをしてごまかすんだと思う」。「釣りだと思う方は、そう思ってた方がいいと思うし多分そういう方はもうひとつの世界を知らなくてもいい人なんだと思います」。そんな風に語られてしまう限り、果たして自分は、「超えたことがあるもの」か、「低学歴の世界」にいるのか、「高学歴の世界」にいるのか、と問うことしかできない。そんな社会を、そんな分断を、そんな風な線引きや配分を、前提にしなければならないのだろうか。
「高学歴世界の人は「学歴なんて関係ないよ」って澄んだ目で言うんだよね……。そういう話じゃないんだ」。確かにそういう話ではない。しかし、やはり「学歴なんて関係ない」地平から話を始めるべきなのではないか。誰もが、エロイでも、モーロックでもなく(ウェルズ「タイム・マシン」を参照)、同じような存在であるのだと、信じる限りは。
誰が何をしても構わない、そんな自由と平等を見出せる場こそ、実は紋切り型に塗れた天国/地獄なのではないか。「もうひとつの世界を知らなくてもいい人」であっても、誰であっても、例えば、共に「なんJ民」になるとき、自由に、そして平等に語る存在になるのではないか。スレッド上で語られるのは、誰でもない誰かによる、誰に起こっても構わないような、出来事の語りである※3。
史料で知ったのであろう異国の飛行船事故も、自分の大学生時代の体験とされる一挿話も、自由に、「彡(゚)(゚)」の出来事として語り出すことができ、それは他の話――例えば、高校を中退した「ワイ」の話――と平等に、「事例」として、物語として捉えることが、可能なのである。紋切り型においてこそ見出されるような、そんな自由と平等があるのではないか。それを、例えば、誰もが自分で語る自由、誰もが誰もに語りかける平等であると、そしてまた、誰もが笑える自由、誰もが笑われうる平等であると、ひとまずは言いうるのではないか。それとも、ここでもまた、「高学歴の世界」と「低学歴の世界」のような線引きに、「なんJ民」(と非「なんJ民」)といった別の線引きをぶつけることで、分断されていることを誤魔化しているだけだろうか。
4.紋切型の彼岸
ひとまず約言してみたい。線引きや分断の後に可能になるのではなく、それ以前に、線引きを生み出すような、分断を可能にするような自由と平等がある。紋切型の陳腐さに見出すべきは、その内や外の話者という線引きや、それに準ずる分断ではない。紋切型が語られるところで見出しうるような、誰もが誰かにある出来事を、同じ重みの下で語りうる、話す存在になる、という契機を肯定すべきである。その契機に根差した自由と平等の上においてこそ、線引きも分断も生じているのだから。本稿は、おおよそこのような仕方で、自由と平等をイメージしようとしている。しかし問題は、そんな風に話がきれいに済むことがあるのか、ということである。
もう一度、ID:zNuulXjOd「パッパ「…………アタマガイタイ…」」に話を戻す。この作品はSSまとめサイト「SS 森きのこ!」で編纂されている。もしこの作品を、「ニュース速報(VIP)」に投稿された、元のバージョンで閲覧した場合、そのまま読み通すことには困難が伴う。
投下直後から、「自分語り楽しいンゴオオオオンゴオオオオンゴオオオオンゴオオオオンゴオオオオンゴオオオオンゴオオオオ 自分語り楽しいンゴオオオオンゴオオオオンゴオオオオンゴオオオオンゴオオオオンゴオオオオンゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ[後略]」といった文章がID:uskHPhhbrによって繰り返し投下され、また、作者のID:zNuulXjOdが投下した内容をそのままコピー&ペーストして投下する、またさらに、ID:zNuulXjOdが投下した内容へと、ID:ta7x6QpR0が卑猥な内容を繋げて投下するなど、物語の線条性を汚損するほど、別のIDによる投下が挟まれているからである(おそらく、スレッド上における作者、読者という弁別は、容易に解消しうるような取り決めに依存していると言うことができる。本稿の論旨により寄せた言い方をするならば、スレッド上では誰もがいつでもどこでも、自由に作者として書きこむのであり、平等に読者としてある場にアクセスしている、と一旦は想定してみるべきである)。
ID:zNuulXjOdが投下を続ける中で書きこまれた、ID:0Net65Ndpによる「あーあ地獄だよ」(レス番号51)という言が、物語の内容を指しているのか、それともスレッドの状況を指しているのか、すぐには判別がつかなくなるほど、そのスレッドは荒れている。
そうしてそのスレッドを読み進めていけば、ID:9k7OGxM0rによる、次のような書き込みにも出会うことになる。「イヤァァァアアアアア!!なんJ民がいるぅぅぅううう!!なんJ民がいるぅぅぅううウウ!!!!/気持ち悪ぅういい! イヤァァアアアアアアアア…!!/VIPPER専用掲示板なのになんJ民がいるぅうううイヤァァアアアア!イヤァアアアアアアアアアア!![後略]」。確認しておけば、ID:9k7OGxM0rとは、先に引用したレス番号103(「最初のクモ膜下出血で父親死んでりゃ良かったのになwwww」)と同じIDである。
こうして、事態はやはり、「なんJ民」と、「VIPPER」(これも「なんJ民」のような、ある種の人々を指す紋切り型の一種である)との分断や、線引きとその侵犯の問題に収斂するようにも思える。そうすると、本稿は結局、物語に編纂する操作が持つ力(例えばまとめサイトの「権限」)を無視して、スレッドの上の自由と平等が云々と語っていただけであり、結局、誰が何にどうしようと構わない、というだけでは、こんな陰惨なことにしかならない、という結論に至るのではないか。
度を越した酷薄さ、愚鈍さ、無神経さだと呆れられるかもしれないが、やはり本稿では、このような荒れ果てたスレッド自体を肯定し、そこから自由と平等をイメージできるはずだ、と主張したい。例えば次のように解釈することで。ID:9k7OGxM0rは先程引用したレス番号103を投下した後、上記のような投下を繰り返すまでの間に、二度、次のような書き込みを投下している。
ここでの「イッチ」とは、「パッパ「…………アタマガイタイ…」」のレス番号1、つまりここでは作者(ID:zNuulXjOd)を指す「なんJ語」のスラングである。そして、レス番号115から、ID:9k7OGxM0rなどによって、「イヤァァァアアアアア!!なんJ民がいるぅぅぅううう!!なんJ民がいるぅぅぅううウウ!!!![後略]」の投下が繰り返されてから、レス番号122で、作者は、「ええんやで(ニッコリ)」と応答している。
一連のやり取り、つまり、ID:9k7OGxM0rによるレス番号103の「最初のクモ膜下出血で父親死んでりゃ良かったのになwwww」という書き込みから、ID:zNuulXjOdによるレス番号122の「ええんやで(ニッコリ)」という書き込みまでの間は、およそ10分程度に過ぎない。
この10分程度の間に、ID:9k7OGxM0rは、アイデンティティを――仮にそのようなものがあるとして――形成し損なうことを繰り返している。レス番号103や108だけを見れば、「ワイ」やその家族を嘲笑する人非人として、自己形成できているかに見えるが、作者によるレス番号106の「不謹慎だけど、そうなるかもね」という応答や、そもそも「ワイ」や「医者」もまた「w」塗れで発話していたことを併せて見てみると、むしろ、作者・「ワイ」・「医者」とID:9k7OGxM0rは、同じ地平に立っているように見えてしまう。ID:9k7OGxM0rは、誰でもない誰かから、人非人として際立つことに、しくじっている。
レス番号113では唐突に「なんJ語」を使いながら作者へ同情を表明し、「荒らしてすまんかったな」と、自分は「荒らし」であったが、これからは作者、つまり「なんJ民」の側に立つ、と宣言している。だが、レス番号115以降で、「VIPPER専用掲示板なのになんJ民がいる」などと繰り返すことで、「なんJ民」としての自己否定を始め、同時に改めて「荒らし」として自己規定しようと試みている。それにもかかわらず、こうした書き込みの後、再び作者がレス番号122で「ええんやで(ニッコリ)」と「なんJ語」で応答してしまうことで、ID:9k7OGxM0rは、「荒らし」になることすら完遂できなかった、という事態に至っている。
ID:9k7OGxM0rの狂態に透かし見ることができるものは、スレッドの上で、何者かになることの困難である。言い換えれば、余りにも容易く何者かになってしまえることの裏にある、誰でもない誰かである話す存在たちの地平が、スレッドの上での狂態を通して、洞察されるのである。浅薄で貧しく映るかもしれない紋切り型が示唆するのは、誰もが「イッチ」にも「ワイ」にも「荒らし」にも「VIPPER」にも「なんJ民」にもなってしまえるような、そして逆に、誰も自力のみで何者かになることにはしくじり続けるような、無限に広がる底なしの自由と平等である。
どのようなスレッドにも、その基底部にある荒れ果てた地平を透かし見ることができるのであり、そこでは何を言っても、どんな書き込みををしてもいい。どうでもいい。読者に媚びてもよく、投下はエンターテイメントだと割り切って嘘八百を並べたり、事実と異なる書き込みをしても、「荒らし」であれ、何をしてもよい。どうでもいい(もちろん、結果として何がおころうが仲裁など期待してはいけない。誰もが実際どうでもいいからだ)。スレッドの上で繰り広げられる狂態においては、そのような自由と平等が、裏地を張っているのである。ID:zNuulXjOd「パッパ「…………アタマガイタイ…」」では、「なんJ語」という紋切り型での「実話」という形式や、スレッドの上での読むに堪えない荒れ果て具合などが、普段は物語の技法や良識的なコミュニケーションによって、うまく意識から逸らされているような、誰が何にどうしようと構わない、そんな自由と平等の地平を、前景化していると捉えることができるのである。
例えば上記のように、本稿はスレッドの上の作品を肯定し自由と平等をイメージしようと試みた。
おわりに
先に引用した呂布カルマのtweetは、もちろん「オーライオーライ」(『THE COOL CORE』2014年5月9日に収録)のおどろおどろしい響きを想起させもするが、それのみならず、例えば、CreepyNuts(R-指定&DJ松永)の「みんなちがってみんないい」(『たりないふたり』2016年1月20日に収録)のシニカルな響きをも想起させる。ラップとスレッドの書き込みは、同じ地平を想像させるように思われる。つまり、語ることにより初めて存在できるような、そんな誰でもない誰かとして話す存在たちが、ひしめく地平である。無論、語り手や、作者が、際立った個性を発揮する、という捉え方を無視することはできない。とはいえ、思うに、個性、作家性、キャラクター、例えばこうした言葉では、何か、取り逃してしまうものがあるように思われる。それを本稿では、自由と平等、と呼ぼうとした。
それは最悪で、存在しない方がよかったものなのだろうか。私は、そうではなかったのではないか、と書きたがっている。そうでなければ、そもそも、人々に文化など必要なかったとか、労働者に知性なんて必要なかったとか、言わなければならないのではないか、と疑っている(例えば道徳の教科で好成績を修めるまでは、私的な雑談をしてはいけない世界を私たちは望まざるをえないのだろうか。それが望ましいのであれば、そうなるだろう)。
散文は自由で平等なものだ、という考え方がある。例えば(本来)散文にルールはないので(本来)誰が何を書いても構わない、だから(本来)自由に読み書きがなされ、毀誉褒貶を、平等にこうむる(資格がある)のだ、といった具合の考え方である。それにひきかえると、批評は自由と平等に反した営みであるように映る。正邪善悪美醜優劣、どんな文言を用いるのであれ、批評のすることはと言えば、選別である。よくないものと、よいものを選別する。もう少し(不)穏当に言えば、誰もがそんな選別をするように、批評は誘惑、ないし教導する。よき作品やよき解釈、そしてよきジャンルと、よくない作品やよくない解釈、よくないジャンルとを、選別する。それが批評である。こんな風にまとめるのは、それほど困難なことではない。
しかし、他の語り、他の考え、他の価値転換のやり方は、ないのだろうか。
私は本稿で、「なんJ民」や「なんJ語」の是非を主張したかったのではない。誰が何者(の友や敵)であるかを、指定したかったのではない。そしてまた私は、SSというジャンルやスレッドという枠組みが及ぼす影響力を称賛したり非難したりしたかったのでもない。確かに私は、SSまとめサイトは闘争の場であり、スレッドはイデオロギー装置であると断案してみたくはなるが、そのような見解への同意や不同意の反応を私は欲しているのではない。私が望むのは、スレッドの上の文芸から――例えば「なんJ民」のSSから――私に到来した(と信じている)、自由と平等のイメージをかたちにすることである。私が読者に望むことがあるとすればそれは、賛否いずれであれ、読者に、自前で、自由と平等をイメージしてもらうことであった。
(了)