視聴したMVの話06(ボーカロイド曲のセルフカバー、「ダンス」の理由)
最近視聴したMVの記録と雑感。前回は以下。
・ボカロ曲セルフカバー
syudou『うっせぇわ(selfcover)』2021
Adoへ2020年に提供された曲のセルフカバー版。映像を見ていたら、例えば「嗚呼よく似合うその可もなく不可もないメロディー」や「もう見飽きたわ二番煎じ言い換えのパロディ」というセリフが、「うっせぇわ」との叫びをあげるキャラクターから他人へ投げかける言葉ではなく、このキャラクター自身に投げかけられる言葉だと解釈できることに意識が向く(ここの読みは「私が俗にいう天才です」などの言葉を精一杯の虚勢と解するか思いあがりのイキりと解するかに関わる)。自分に向けられる言葉に「うっせぇわ」と言えることの、他方「うっせぇわ」としか言えないことの、魅力と苦みを感じる。映像はこの「うっせぇわ」と叫んできたキャラクターの額にレーザーポインタが当てられるところで終わる(画面が暗転した後の一音は、額を撃ちぬかれる光景を想像させもする)。この歌のわかりやすい稚気や粗さが、追い詰められた閉塞感に裏打ちされたもので、自分も凡庸と難じられて撃たれる側だというシニカルな自己認識と共にある(と解する余地がある)のは意識しておこうと思った。syudouが2012年からボカロPを始めており、この曲までにヒットした多くの諸々を眺めてきた身でもあることにも色々思う。
和田たけあき『チュルリラ・チュルリラ・ダッダッダ!(selfcover)』2021
2016年発表の曲で、2010年から活動してきた和田たけあき(くらげP)の初のミリオン(ニコニコ動画で100万再生を超えること)達成曲(最終的には300万再生を超えた)である、代表的な一曲のセルフカバー。個人的な思い出を語れば、うたたP「こちら、幸福安心委員会です。」(2012年)のようなレトロディストピア風のボカロ曲を連想しもする、相互監視デスゲームの雰囲気の(皮肉めいた)軽快な歌い上げには、力を感じてもきた。「そうよ、絶対に本心は隠しきる。蹴落とすの。 わたしひとりだけ生き残るため!」。この類の情念は当然公言も出来ないし(隠せなくなるから)、対人間では、共有も難しい(助け合いの輪から排除されるのは選民的な姿勢で孤立する者からという逆説)。ただ、歌のような距離を通してなら(実は隣人かもしれない)見ず知らずの誰かと気持ちを分かち合えることをひとは知る(そして、孤立感が薄らげば、ここまで利己的に荒ぶらなくてもよいのではないか、という気分にもなれる)。最後にデスゲームの運営に相当する「先生」にも戦いを挑む点で、ここで歌われる生き残り=成り上がりの夢は、陰惨で利己的小物的な紋切型に収まるのを必ずしもよしとしていない(と、解したい)。今回のセルカバー版の新映像(正確には、2018年のアルバム『わたしの未成年観測』に付属の漫画の映像)では、歌の後に教室外の何者かが更に現れる。勝ち残り的全能感が相対化されたとも言えるし、「教室」の外側には「学校」がある、という視野の拡大が刻まれたとも言える。構造の外にも構造がある。
てにをは『ヴィラン(selfcover)』2020
2010年からボカロ曲の投稿を始め、2018年発表の『古書屋敷殺人事件』で初のミリオン越え再生を達成した、てにをはの、3つ目となるミリオン越え曲のセルフカバー。この曲を人がどういう気持ちで聴くのか私はわからない。例えば私が知る曲のテイストなら、中村中も、いこちも、もしくは槇原敬之や平井堅の色調も「ヴィラン」には混ざっているように私には思える。私は神聖かまってちゃんや女王蜂の曲なども思い出す(このふたつの曲は、私が挙げたほかの曲より前向きな印象を受ける)。槇原敬之が提供したSMAPの曲『世界に一つだけの花』(2003年)を聴いてから、てにをはが『ヴィラン』の次に発表した曲『一角獣』(2020年)を視聴すると、時が流れたんだな、という思いになったりする。話を戻すと、『ヴィラン』の歌詞の「デュラン・デュラン」博士というのは1968年に映画化されたフランスのSFコミック、『バーバレラ』の悪役の名らしい。また「馬鹿げた競争(ラットレース)」はロバート・キヨサキ『金持ち父さん 貧乏父さん』(1997年)以降かなり流布した言葉だったりして、私が読んできたような本を読むひとだけではなく、私が読んでこなかったような本を読む人にも届く言葉を考えたかったりする私は、言葉選びの面でも、あれこれ思いめぐらされもする(MVだから音や絵の享受も、そこから思い巡らすことになるものも、当然あるのだが)。
・「ダンス」の理由
平手友梨奈 『ダンスの理由』2020
欅坂46(現・櫻坂46)に所属していた平手友梨奈のMV。「誰かがいてくれたら普通でいられた/誰もいなかったから仕方なく/踊るしかなかったんだ」との一節は印象に残る。不信と孤独の中にある「いつかの自分」の姿を投影した「誰か」を宛先とするように映る歌詞を念頭に置けば、ここでの「ダンス」は「一番辛かった頃の私」のような「誰か」が「普通でいられ」るようにと踊られるのだということになろう。「普通」の私たちをレペゼンし、私たちとして結集させ、私たちを鼓舞する。そのパフォーマンスとしてのダンス、その担い手。それが「私」で、この踊るアーティストだということになる。
悪目立ちする欠点を目覚ましい長所に転換すること。いわばアンデルセンの童話『みにくいアヒルの子』が寓意として示すようなこの生き延びの方策は注意を集めると力を得る構造と相性がよい(この構造をデモクラティックと呼ぶか、ポピュリスティックと呼ぶかは、迷う)。衆目を動かす力があるのがよいことであるならば、どんな性質でも弱みでなく強みにできるだろう。重要なのは自身がレペゼンできるコミュニティの形成と維持だということになる。レペゼンし、応援され、道が切り開かれていく。突出を個性に、個性を属性に変換し、集団の旗印とするために「ダンス」があることになろう。
もちろん、このストーリーを可能ならしめる諸力の働きに意識を向ければ、「ダンス」の理想に耽溺しているわけにもいかなくなる。『ダンスの理由』のTV番組でのサプライズ披露が、櫻坂46の初のシングル『Nobody's fault』の発売と同じ2020年12月9日であったこと、同シングルの表題曲の歌詞が、「誰かのせいにしても/一つが残る椅子取りゲーム/それならいっそ/孤独を選びな!」と「孤独」を促す内容であったこと、それらのいずれもが秋元康の作詞であること。例えばそんな(この作品の)外部を思いあわせると、このレペゼンの力学の複雑さと厄介さに筆も止まる。だがここで作詞家の影響力を必要以上に強調するのも不適切かもしれない。当前MVの制作には複数名が携わっている。このあたりの解釈には、作詞や作曲や歌唱や演舞のうち、何に優先的に注目するかという享受側の裁量も関わってくる。単層的な享受より重層的な享受の方がよいとも言い切りがたい。構造の外にも内にも構造がある。それら諸構造の連動と、各々の自律的な作動があり、それをどんな枠で捉えどんなふうに伝えるのか、という選択の余地が「ダンス」の観客には残される。――私は「ダンス」を比喩的に濫用しているかもしれない。私は作品の享受と私情の吐露を混在させすぎている。分析を逸しすぎている。いっそ端的に逸してみる。以下、私情(だが作品享受の体験が混在する)。
私は幼年期に走り方がおかしいと言われる側で、まっすぐ走っても鬼ごっこで誰にも追いつけないから、変な走り方で不意うちをしようとしたりして、たぶんその動きが面白いから逃げていた周りが盛り上がったりして、自分も気分がよくなったりしていた。鬼から抜け出す競争には勝てなくても、鬼を楽しむ競争には勝った気になった。実際、全てのごっこ遊びは、「ごっこ」である限りは、ロールプレイなのだ。ゲーム東方projectの「弾幕ごっこ」という発想が、私の回想する過去にこんな解釈を与えた。「仲よく喧嘩」するという共同幻想。もちろん、実際にはその幻想が共有されていなかったり、共有されていようがいまいが現に起こるのが破滅だったりすると、悲惨だ。
ある異世界転生物語の中で、幽閉された暴君が、出会った奴隷にこう語る。この世は舞踏会で、自分が踊るか、他人が踊るのを見るか、ふたつにひとつだ。踊れそうな曲が流れ始めたら、踊らないとつまらない。どんな目に合うとしても、踊りを続ける糧にはできる。いま踊れない理由を探すより、踊る機会を探す方が楽しい。まずは、下手でも踊るとよい。踊りの始め方は教えよう。偶然にも踊り続けられてきた自分は、教えた以上の踊りを人が見せる瞬間を、とても待ち望んでいるのだ、と(ちなみに暴君は思いがけない形で獣に食われて死ぬが、とても驚いて面白がりながら死ぬ)。――ここには、レペゼンとしての「ダンス」の理想とは、また別の理想がある、気がする。「仕方なく」ではない、誰もが(一時でも)「普通」を止め、自分の踊りを踊るための手引きとなる。そうした「ダンス」。もちろんこの別の理想にも耽溺はできないだろう(そもそも暴君も奴隷もいない世界の方が望ましいのは、確かだ)。けれどレペゼンの力学と別のことを考えようとするとき、私の手元にあるのはこんな御伽話であったりする。――ここで私は「ダンス」をロールプレイと安易に同一している? 私は何かを書くことを「ダンス」やロールプレイと安易に同一視している? もっと言葉の厳密を私は探らねばならない。別の辞書を持つ人にも伝わるというような意味での、厳密を。
[了]