感想:前田龍之祐 (麻枝龍)「山野浩一論 SF・文学・思想の観点から」(2020)
はしがき
以下は麻枝龍(前田龍之祐)さん宛にメールした、「山野浩一論 SF・文学・思想の観点から」への感想です。同論文は日本大学文芸学科芸術学部奨励賞を受賞したもので、大作です。メールでは、私なりに内容要約と特にどの点に触発されたかを書きました。note掲載に合わせ、元の文面に一部加筆修正をほどこしました。
※追記:同論文が公開されました。以下にリンクを付します。
感想:前田龍之祐「山野浩一論 SF・文学・思想の観点から」(2020)
麻枝様
筆を執るのが遅れ、すみませんでした。本当に重厚な卒論、ありがとうございます。勉強になります。
自分の理解度の限り、とはなってしまいますが、感想を申し上げます。
・全体の構成について+論文目次
山野浩一という人物の日本SF史的位置と日本文学史的位置を明らかにしながら、その思想的一貫性を示すという構成で、山野の伝記的事項と山野をめぐる文化史的事項がうまく整理されており、これまで山野浩一を知らなかった読者(私)にも筋が追いやすく、活動の意義が見えやすくなっていました。入門的な作家史的として非常に高い水準の記述ではないかと思いました。例えば『山野浩一批評集』のような企画があったら、ぜひ麻枝さんに携わってほしいと思うような内容でした。また、ただ通時的な活動を整理してその一貫性を示すだけではなく(とはいえ、このような作家像の構築自体がすでに十分に意義深いことだと思いますが)、今日の状況でこそ発揮される力を見出した点で、いっそうすぐれた作家史的記述になっていると思います。私の理解では、SFと純文学との読者共同体とが接近しつつあるように映る今日においてこそ、それに似た状況を生きたように映る山野浩一が何を問わんとし、何をしようとしていたのか、学ぶことに喫緊さが生じているように思えます。
前田龍之祐「山野浩一論 SF・文学・思想の観点から」目次
序章
第一章 山野浩一と「SF」
(本章は以下の四節からなる)
Ⅰ SF作家・山野浩一の出発 ――「全会一致」と“違和感”
Ⅱ 〈山野-荒巻論争〉再説 ――「日本SF作家」批判
Ⅲ 一九七〇年代の山野浩一 ――〈埋没・解放・終末〉
Ⅳ 「小説世界の小説」とサンリオSF文庫――「世界文学としてのSF」へ
第二章 山野浩一と「文学」
第三章 山野浩一の「思想」
終章
・第1章「山野浩一と「SF」」について
第1章は、第二次世界大戦後の日本SF共同体の形成過程、その初発の混沌の中で出発した山野浩一がSFに何を託そうとしていたかを、伝記的文化史的事項を整理しつつ、荒巻義雄という山野とは別の――だが反主流とも言える――作家とのSFをめぐる論争を中心にして、素描していくことだったと思います。いわば「科学」(主に工学、物理学)が進歩的幻想をまとった時代に適応していた主流SFの流れに対して、それぞれの仕方で異なるSF観(というか、己の思想)を持って創作した人物であったように両者は映りますが、用語の統一など、ある種の手続き主義的な態度に基づく分析を提案する荒巻と、まずもってビジョンを鮮明にしていこうとする山野との志向はすれちがい、ジャンル全体の問題(から生まれる作品群)を批判する山野に対して、荒巻が結果的には反動勢力(というか思想とか深く考えていない俗流の人々)のお先棒を担ぐ形になってしまった、とまとめられると思います。SFが「科学」の賑やかしや啓蒙の道具ではなく、「科学」のイメージを借用した願望充足用の道具でもないとすれば、何でありうるのかということを山野も荒巻も問うていたように思われました。そして両者は論争を通して、互いの姿勢やコンセプトを練り上げていくという意味で、相互に触発的な関係であり、山野の『季刊NW‐SF』創刊やサンリオSF文庫顧問就任などの活動が山野‐荒巻論争で提示された姿勢の延長上にあった、ということが記されていたように思われました。また、戦後の「逆コース」の中で社会的政治的運動から内面の探求を通して外部への回路を探る志向として山野の(特にニューウェーヴの)SFほかへの言及が位置づけられ、そこから後の体制順応的な進歩史観の意匠としての「科学」イメージと結びついた未来学への批判的姿勢や、公害問題の表面化などに伴い未来学に代わって破局を忌避する終末論が前景化していく潮流に対して山野が打ち出した、「解放」と表裏一体な「終末」ビジョンの肯定といった、著述家としての山野の活動の軌跡が通時的に記されていました。
SF史的には(私の素人目ではありますが)論集『北の想像力』がまとめるような、反主流派SFのプレイヤーとしての荒巻との論争を通して山野の別の反主流性が指摘されている点で重要だと感じましたし、小松・星・筒井をSF御三家とする通俗的な史観を見直す上で必要なポイントが随所にちりばめられているように映りました。そのうちの幾つかは第2章の(第二次世界大戦後の)日本文学史からの観点とも関連していたと思います。ここではいま少し別の点からコメントします。私は架空戦記ものとライトノベルやネット小説の合流に関心があったのですが(特に『幼女戦記』のカルロ・ゼンや、それ以前だと佐藤大輔=豪屋大介など)、これらが荒巻義雄や小松左京の歴史改変ものSFの延長にあるとみなしうることを、この論文を読みあらためて意識させられました。20世紀初めのSFは冒険小説(植民地主義を胚胎している)と相性が良く(実作としてはE・R・バロウズ『火星のプリンセス』や押川春浪『海底軍艦』が念頭にあり、論評としては横田順彌や長山靖生の史観が念頭にあります)、例えばナーロッパなどと揶揄もされる近年のネット小説のある種植民地主義的な雰囲気はこのあたりのSFなどと比較すべきでないかと考えていたので、その系譜を考えていくに際して、架空戦記とSFの関係は考えていきたいと思っていたことでした。また山野のユートピアやゴシックへの着目の仕方には、それこそ国際政治学でいう「新しい中世」観の延長にあると思われる、暗黒啓蒙などの思潮における見方とも重なるところがあり、その意味でも(私にとって)山野がいかに注目すべき作家・批評家であるか実感しました。個人的にはサンリオ文庫や『季刊NW‐SF』(川上弘美が参加していたのですね!)の運営にどう携わっていたのかも、もっと知りたくなりました。また私事ですが2月に稲葉振一郎の著作(『銀河帝国は必要か?』『増補版ナウシカ解読』など)を読んだりと、SF批評と社会思想のことを考える時間が増えてきたので、これから読み進め学んでいくための、案内をいただいたようにも感じていました。
・第2章「山野浩一と「文学」」について
第2章では山野浩一が例外的に評価した同時代の日本の文学者、三島由紀夫と安部公房のSFとの関係、また両者のSF観などに着目しながら、山野の置かれていた状況を日本近代文学史的な文脈において素描していたとまとめられると思います。それぞれ日本文学史の中で必ず名が挙がり、かつ主流とも傍流とも言いがたい独特の位置づけを与えられがちな安部と三島ですが、前者は(戦後日本)SFの先駆としても評価されており、後者もまた、実作(『美しい星』)でも評論でもまた活動面でも、SFに関心を持っていた作家なのでした。また自身を出発期に支持した文学者として山野自身がこの二人の作家を意識していたのでした。両者の文学観をめぐる対談を、SF観をめぐるそれと読み換えながら、この卒論では両者そして山野、それぞれがそれぞれの仕方で状況に対峙をする、その姿に通じ合うスタイルが示されていました。つまり、知としての「科学」に従属した(科学者共同体に是認される限りでの)物語でも、意匠としての「科学」に従属した(科学の口実で妄想する)物語でもなく、安部が「仮説の精神」と呼ぶようなものです。それはおそらく山野が「Speculative Fiction」の語で言わんとしたところのものでもあり、たぶん三島が「伝統」――というか、「空飛ぶ円盤」や「天皇」――をめぐって書く姿勢で体現しようとしていたところのものでもあるのでしょう。ある水準では対立しているようにも映る三島と安部は、その実、日本近代文学史の中で主流と目されるような、自然主義的私小説的なモードの覇権に批判的であったという点で通じ合っており、それゆえに両者は山野のようなプレイヤーの参入を歓迎していたと考えられるのでした。
第1章で示された山野のSF観が、第二次世界大戦後の日本文学という文脈の中で、いわば文学と政治の問題とどう結びついていたかを素描するとても興味深い章でした。
私は、やはり山野安部三島の三者が批判したものをいかにして明確に析出できるのかが、ここからさらに議論を進めていく上で重要そうだと感じたのでした。実は、大塚英志を参照した東浩紀による〈自然主義リアリズム、まんが・アニメ的リアリズム、ゲーム的リアリズム〉という区分を、いかにして従来の文学史観や文学理論に即して解釈しなおし、両者を接続するのかということが、私の年来の関心でもあったのですが、近年のネット小説の動向を見るにむしろ、柄谷行人のいう「近代文学の終り」を真に受けることから始めなければならない、と思い始めていました。少なくとも、読解と執筆という営為のモデルを修身的なそれとは異なる仕方で構築しなければならないと思っていました(逆に言えば、修身のコアを徹底して分析することで、わるいセカイ系というか、安易な社会問題や政治経済学的な観念の援用に支えられた擬似成長物語や家族もの、友情譚や恋愛譚を批判していく作業の必要性を感じていました)。私は、この卒論や「「内宇宙」が「セカイ」と出逢う」を通して見出される山野浩一の姿に、北村透谷の姿を重ねたくなります(「恋愛は人世の秘鑰なり」や「詩人哲学者の高上なる事業は、実に此の内部の生命を語るより外に、出づること能わざるなり」などの透谷の言は多分に「セカイ系」的であるし、山野が政治運動の挫折の時期を背景とするように透谷もまた同時代の自由民権運動からの離脱を背景に文学へと進んでいたのでした)。明治期の探偵小説(ドストエフスキ『罪と罰』抄訳も含まれます)やSF(ヴェルヌの翻訳や鴎外が批判したようなある種の政治小説も含まれます)を再評価したり、そこから「自然主義的リアリズム」と一括されるような潮流がいかにして形成されたのかを活写することは私の夢です。――すみません、話が私語りに脱線し過ぎました。いずれにせよ、この章は私の問題意識といっそう関わるもので、とても知的な興奮を得ました。なお、この章での荒正人はこの論文のストーリー上、現在で言うならば、第三次AIブームに煽られてシンギュラリティとか口にする割に『AI崩壊』を真に受けて論評している体たらく、みたいな冴えない加速主義者(自覚のない加速主義者)の役としてキャスティングされているように映りましたが、そのような所作に陥らないように、私自身も気を付けなければと思いました。
・第3章「山野浩一の「思想」」について
第3章では、山野が影響関係を公言する理論家の中でも「騒音」や「アトム化」といった用語の由来であると推定されるマックス・ピカートの諸著作を参照しながら、ピカート(と山野)が、サルトルに代表されるような同時代の無神論的実存主義とはどのように異なっていたのかということを論じていたと思います。主意主義や利己主義と化す「アトム化」を斥け、かつ、効率(を保証するルール)への盲従や全能者の幻想への同一化なども拒み、要/不要や友/敵の区分を超え、いわば孤独の分有ゆえに各々がつながるような境地、つまり「沈黙」の確信を獲得する方法を語ろうとしたピカートの思想が、山野の思想の「通奏低音」であるということが論じられていました。
この章で興味深かったのは、まずマックス・ピカートという人物のことで、おそらくはレヴィナスの「顔」の概念を理解するために必須の思想家なのではないかと思うのですが、私はそれをこの論文によって初めて教えられました。これは時々思うことですが、哲学者の概説書は哲学者が影響を受けたはずの同時代(あるいは少し前)の概念をあまり紹介してくれない場合があります。例えばドゥルーズ+ガタリの「機械」概念を理解する上ではミシェル・カルージュ『独身者機械』が欠かせないはずですが(もちろんタウスクの「影響機械」やルーブ・ゴールドバーグ・マシンの話なども重要に思えますが)、そうしたことは、それほど注目されていないように感じてきました。そういう意味で、ピカートの「顔」や「観相学」(これが入っているおかげで観相学を批判したヘーゲルとかとのつながりも見えるような気がしてきて、私としてはとてもありがたかったです)の紹介と解読は重要なものに思えました。
ピカートの議論は私に、レオ・ベルサーニの議論を想起させるものでした。ざっくりというとピカートのような「沈黙」へのアクセスを、神や(異性愛中心主義的な)家族愛のイメージを用いずに構想するために、精神分析と文学を用いているのがベルサーニの議論で、研究者によってはベルサーニの思想を「Homomonadology」と形容したりもしています。「universal homo-ness[普遍的同じさ、あるいは宇宙的同じさ]」など、宇宙ないし自然との照応が問題になる点で、ベルサーニの観点はプルーストのような文学を通してSF的な想像力(山野‐ピカートが持つような意味での)に通じているのではないかと私には感じられました。
他方で、「ナチス政権によって完成されたという〈効用価値=有用性〉の世界」と要約されるような、ピカートの見立てには、ノれないところもありました。功利主義・資本主義・商業主義・ポピュリズムなどが、未分化のまま一緒くたに敵視されている感触があり、私はそれぞれのよしあしをもう少し見て見たいとも思ってしまうし、敵対するにせよ、もっと姿を見極めてからでないと闘うこともできないのではないかと感じもしてしまいます。とはいえこれは、外野からする気楽な難癖に過ぎないかもしれません(ピカートの生きたリアルにおいて、そのような仕方で思考し闘うことが必然であったのだとも解せるだろうから)。
思想史的にも、文学史的にもよい刺激を受ける章でした(この章のみならず、この論文全体がそうでした)。
終わりに
・私語りの混じった、拙い感想ではありますが、私はほんとうにこの論文に触発されました。今後、個々の山野作品の論や、他の論もなさっていくこと、ほんとうにたのしみにしております。読ませていただき、ありがとうございました!
(了)