飲食物から01:モンスターエナジー

任意の飲食物から四方山話をするという趣旨の記事です。今日は、エナジードリンクないし炭酸飲料の一種である、モンスターエナジーの話。

炭酸飲料のなかでも、モンスターエナジーはよく飲んでいる。具体的には、モンスターエナジーM3という瓶入り150mlをよく購入している。私自身はこの種の飲み物はすべて嗜好品の一種のつもりで飲んでいる。もちろん栄養成分表に表示されている諸々が私の身体に生理的作用を引き起こすのだし、そのよしあしを深く考えるのであれば医学的または栄養学的な知見を要するであろうことも付言しておく。とはいえ私の限定された知能と知識では、私の生活上、いつ頃、どういうコンディションで、どんな仕方で摂取すると、いかなる変様を私が感受できるのか、といった経験的な事例を基に使用法を練り上げていく振る舞いばかりが蓄積されがちである。

例えば、口寂しく思う深夜にコンビニで買い、舌触りより喉ごしを意識しながら一気に飲むと、私の胃はその冷たさに驚くが首の凝りが、すう、と引くような爽快感を覚える。あるいは一気に飲み干そうと首を振り上げるとき瓶に触れる舌からの刺激がラムネ瓶をねぶるように飲んでいた幼年期の記憶を呼び覚まし、直近の境遇に由来するのとは別の気分が私の身体で蠢きだす。

さらに言えば、緑色の炭酸飲料を飲むという(それ自体は辞書的定義に準じた紋切型の)出来事の認識は、私が別の緑色の炭酸飲料を飲んでいた様々な時点、地点の記憶を呼び覚ましもする。――アイスクリームの乗ったメロンソーダ、冷蔵庫に入っていたマウンテンデュー(この炭酸飲料の名を改めて検索した私は、かつて密造ウイスキーを指していた口語に由来するらしいという情報を今になって知る)……。――私は様々な素材が加えられた炭酸水を飲み、液の温度や触感や香りなども瓶の重みや冷たさや舌触りなども「味わい」、記憶を賦活させられて、記号的な情報をも「摂取」して「消化」している(巻き戻して言うならば、キャップをつかんで捩じる体験や、炭酸水が噴出さないように身構える体験や、そもそも馴染みのコンビニでこの商品をつかんでレジに向かい購入手続をする体験に際しても私の推論システムは起動し、馴染みの観念連合が現行の私を駆動させている思考と出会って混線を引き起こし、たまには創発めいた何事かが起こっている、はずである)。

記号を「飲んで味わう」という点で言えば私はたまに355ml缶のモンスターエナジーの「キューバ・リブレ」味を飲んだりもする。この観点から言えばそれを飲むことは私にとって、ラム酒をベースとするカクテル「キューバ・リブレ」を飲むことやラップグループ、餓鬼レンジャーのMV「キューバ・リブレ」を視聴することと、そこはかとなく通じ合っている(私がそれぞれの摂取を好む理由はそれだけに留まらず、個々別々の要因がある、とは思いたいけれど)。少なくとも、触れるきっかけのひとつであったのは確かだ。

このような連想は理論的にどう語られるべきものなのか、私はときどき考え込む。「モンスター」という記号に触れた私の身体は、ボーカロイドの曲、KIRAの「MONSTER」を視聴した体験(の記憶に引き続く諸連想)にも、嵐の「Monster」を視聴した体験(の記憶に引き続く諸連想)にも連想の糸を延ばし、私の身体は数珠繋ぎというよりは絡まりあったスパゲッティのように延びたり切れたりする連想を駆動させて私は私だけのハイパーリンクの網を生きているような心持になることすらある(という言い回しは大袈裟かもしれなくて、ふだんの私は実際には与えられた役割や時宜に適った振る舞いを遂行する作業に集中していたり、疲労から概ね習慣や手癖に倣った反応、挙措を取って済ませていたりする場合も多い)。私が手掛かりとして真っ先に思い起こすのは精神分析学の諸知見だが(部分的に集団で共有されつつもパーソナライズされてもいる記号や観念や感情のネットワークを経巡りつつそのサイクルに介入していく技術として精神分析を捉えることはとても有益であるように私は感じている)、検索エンジンのように捉えるやり方も私は気になっている(あるいは、強迫観念を消しても再表示されるポップアップ広告のように捉えたり、フラッシュバックを不都合なサジェスト機能として捉えたりすることも)。――ときには「リゾーム」と口にしたくさえもなるけれど、いずれの語を用いるにせよ、不正確が過ぎるやり方かもしれない。

モンスター、モンスターエナジーの話だった。怪物の力。怪物になること。私は「怪物」にどこか馴染みを感じてしまう。それはある特定の時点、地点に発生した身体が辿りやすい道程なのかもしれない(現時点で任意の記号との接触で上述したような連想が発生する個体になる頻度のようなものすら、十分なデータがあれば計測可能なのかもしれないと私は疑う)。つまり世代の特徴だとか言えてしまうのかもしれない。世代という語は粗すぎるだろうから、しかるべき定義づけの施された「クラスター」がそこでは用いられるだろう、などと付言すべきかもしれない。――荒唐無稽な妄想かもしれないが、例えばいずれ監視社会化がさらに進展していけば、任意の年齢の個体が任意のフィクション――例えば浦沢直樹『MONSTER』など――に接触して影響を受ける――特定の語彙を含む発言が増えたり特定の振る舞いをする頻度が増えたりする――「リスク」のようなものを、いわば「疫学的」な手法で記述したり、予測できたりさえするのではないか。――などと私は考えてしまうが、これは、数理統計学やデータ収集の実情に関して、あるいは神経美学や神経意味論や概念ネットワークの分析などに関して、私の知識がごくわずかであるがゆえに、過大な期待をしているからかもしれない(実際には各々がその実存において、特異な何かを組織体に譲り渡さないための闘争、ないし逃走、駆け引きを止むことなく続けていくのだろう)。私は、怪物が野放しでいいとは思えないが(無理な気がする)、怪物を消し去るよりは、怪物と「うまくやっていく」夢を見る方が、そしてその夢を実現するために自分も怪物もよく変わる道を模索する方が、ずっと好きだし、望んでいる。

追記:モンスターと言えば、これですね。忘れていました。

I am not a human. I am a monster.

Posted by Zlazloj Zlizlek on Friday, December 9, 2016

[了]


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