ニック・ランドNick Land「始原的な抽象(Primordial Abstraction)」(2019)の紹介(梗概と日訳)
■はじめに
本記事では、ニック・ランドの2019年のエッセイ「始原的な抽象(Primordial Abstraction)」の梗概と日訳を掲載する。原文はWEBマガジン『Jacobite』に2019年4月3日付で掲載された記事に拠る。本記事は、400字程度の「梗概」と、5000字程度の「日訳」からなる。「梗概」では翻訳者が原文の趣意と解した内容を記述した。「日訳」では原文を翻訳した。
ニック・ランドに関する日語文献としては、例えば以下の書籍などを参照のこと。
・木澤佐登志『ダークウェブ・アンダーグラウンド 社会秩序を逸脱するネット暗部の住人たち』2019年1月
・木澤佐登志『ニック・ランドと新反動主義 現代世界を覆う〈ダーク〉な思想』2019年5月
・『現代思想2019年1月号 特集=現代思想の総展望2019 ポスト・ヒューマニティーズ』(ランド「死と遣る」(原著1993)の日訳所収)
・『現代思想2019年6月号 特集=加速主義 資本主義の疾走、未来への〈脱出〉』(ランド「暗黒啓蒙」やマッカイ/アヴァネシアン編著『加速主義読本』の抄訳、解説などが所収)
メールにて翻訳掲載の旨を御快諾いただいたニック・ランド氏に、心より御礼申し上げます。本記事が、皆様による、より厳密な訳読と強度ある読解とに資することを願って。Thank you for prompt reply from nickland333... .
※翻訳に関して何かございましたら下記アカウントまでお知らせください。
なお、機械と知性に関する近年の日訳文献として、以下を挙げておく。
・ジェームズ・ブライドル『ニュー・ダーク・エイジ』(久保田晃弘 監訳、栗原百代 訳)2018年
また、本エッセイで言及される、カスパロフの著書も日訳されている。
・ガルリ・カスパロフ『ディープ・シンキング』(染田屋茂 訳、羽生善治 解説)2017年
加えて、これはみだりな願望であるが、誰か仏語→日語の翻訳ができる方が、以下のラリュエルの論文を翻訳してくださると、私はとてもうれしい。
・François Laruelle, “L’ordinateur transcendantale: une utopie non-philosophique,” in Homo ex machina, ed. F. Laruelle (Paris: l’Harmattan, 2005. 題は、訳せば「超越論的コンピューター:非-哲学のユートピア」となるか)
■梗概「始原的な抽象(Primordial Abstraction)」私解
チェスや囲碁といった盤上遊戯を実行するプログラム「AlphaZero」が、臆見なしに思考することの純粋な形態を体現しているのだとするならば、AI懐疑論――AIに人間のような思考はできない――は、反転する。人間は、AIほどうまく懐疑論的態度をとれない、すなわち臆見を抱くことなしには思考できない、ということになる。人間の意思決定の過程を模するのではなく、この過程が使用される目的――未来の実現――に辿り着くまでの動作を、(フィードバックを受けつつ)繰り返すこと。そしてその際、人間的な有限性から生ずる道徳的判断も適用せず、偶然的な堆積に依拠した歴史上の定石も参照せず、実現の未来に辿り着くために有益か有害かのみを判定し、動作していくこと。つまり臆見ゼロから出発すること(アルファ・ゼロ。始原的な抽象)。それがいずれ「人工知能」が体現するはずの「超人」的思考である。
■日訳「始原的な抽象(Primordial Abstraction)」
著 Nick Land (江永泉 訳)
題名 Primordial Abstraction
初出 『JACOBITE』2019年4月3日
[ https://jacobitemag.com/2019/04/03/primordial-abstraction/ ]
*本文強調は原文斜体。( )内は原著者。
*(原注)【訳注】は文末にまとめた。
囲碁という盤上遊戯(weiqi、围棋)はAI軽視の歴史のうちで重要な役割を果たしてきた。その手数の組み合わせの一目瞭然とした膨大さは、いかなるアルゴリズムによる力まかせ探索によっても、びくともしないものであるように思われてきた。その361目に及ぶ盤上の交点ゆえ、この盤上遊戯に対抗するには、クラウドコンピューティング用の諸計算資源の群塊と、計算力とが重要であるように見えた。戦略的「直観」の一種――シリコン基板による認識には与えられないもの――が、それに取り組む際に求められるはずだと広く考えられてきた。これが人類における自己満足の支柱であるが、ごく最近になって破壊された。
チェスにおける人間の天下の崩壊が碁の話に至る由縁を示してくれる。チェスは、今や忘却するようにと我々は奨められているのだが、長きに渡り知能テストの極地と考えられてきた。チェス選手のように考えることは、恐ろしく熟慮することであるはずだった。1996年と1997年には、当時世界チャンピオンとして君臨していたガルリ・カスパロフが、IBM社のスーパーコンピューター、ディープ・ブルーと六番勝負のゲームチェスの試合を二度戦った。初回では彼が勝ったが(4対2)、二回目に彼は敗北した(2½対3½)。カスパロフが喫した1997年の敗北は、人間によるチェス名人の頂点が機械相手に屈した、初めての瞬間だった。
ふたつ目の千年紀が終わったとき、チェスという牙城は人間から失われており、そしてそれを取り戻せるとは誰も期待していなかった。爾今、「人間の中で最上のチェス選手」というのは「チンパンジーの中で最上のジャズ奏者」と同じような業績となるだろう。その称号には謙譲を組み込むことが不可欠だろう。認識力に関連するいかなる領分の達成であれ、機械によってひとたび覆されれば、相対的な人間の発揮力は低下するということは、AI懐疑論者の間においてさえも、暗黙裡に認められている。復権という狂気じみた妄執を胸に時間を打ち棄てる者は皆無だった。今や大勢から、機械の知能だけにお似合いの、取るに足らない「解きうる」暇つぶしと見なされるような、チェスなるものの文化的地位は軽視してしまい、先に進むのがよろしいだろう。
囲碁は大きく異なると目されていた。それは、重要な点で、後退の最終ラインですらあった。一目瞭然に地平を占めているもので、これより偉大な公然の挑戦はなかった。これこそがどのように人工知能より優れているのかを理解するための最後のチャンスだった。それを超えるという事態には、曖昧さだけがあり、そしてそれは憶測されるのみであった。
実際に囲碁は異なっていた。AIの手法における革命がその打破のために要請された(原注1)。最も重大な競争は、人間対機械の構図ではなく、代替となるオカルト的な指示へ対抗する明示的な指示の構図だった。これは、「ディープラーニング(深層学習)」というネットワークに根差した範型の再興に関するすばらしい試行であっただろう。1997年の事態との深い非類似性は、表面上は顕れなかった。
Googleの子会社DeepMind社のAlphaGo「プログラム」(原注2)は、ヨーロッパで三回囲碁チャンピオンとなった、樊麾(Fan Hui)との公開の試合に投じられたことで、2015年10月に公衆の意識に上った。AlphaGoによる5-0での勝利は、この盤上遊戯において非人間の指し手が真剣な相手に対して優勢となった、最初の機会を印づけていた。予言は壁面に描かれた【訳注1】。
山場となる戦いが翌年の初めに挙行された。カスパロフ対ディープ・ブルー戦に劣らずの劇的な高まりを見せつつ、2016年3月9日から15日までの五番勝負において、世界囲碁王者に君臨していた李世乭(Lee Sedol)、この18もの世界タイトル保有者に対して、AlphaGoが立ちふさがった。印象深くも、李は5試合中1試合で勝利したが、連戦は4-1と負け越した(原注3)。
AlphaGoとAlphaZero――これが我々の現在の目的地である――との間にAlphaGo Zeroが、抽象への途上の一歩として、やってきた(原注4)。「抽象」という語によって、何かが取り除かれる過程ないしその結果を我々は言わんとしている。この事例において取り去られていたのは、人間が囲碁という盤上遊戯に関してこれまでに習得してきた、全ての事柄であった。AlphaGo Zeroは、自らでは習得できない囲碁に関するヒューリスティック【訳注2】を持つようにされてはいなかった。深層学習という概念のさらなる名誉挽回であるように、それはアルファ~の類の先行する焼き直したちを試合で一貫して打ち負かした。
AlphaGoは囲碁を実行する。AlphaGo Zeroさえも囲碁を実行する。AlphaZeroは、それと対照的に、原理的には、ルールを形式化できるいかなるゲームでも実行する(原注5)。歴史的に、または発展の文脈において、「碁(Go)」は抽象によって、非固有的になっていき、自らの名前をあからさまに見失っている。
AIは言われたことしかできないと、未だにしばしば口にされる。この誤謬の最も筋の通った一変種は、だからそれは不可能であるという結論へと進む。真実として、今日の条件下では、それはそうだろう。知能のプログラミングは存在できない。しかしながら、ここには、AI懐疑論の好むものとは逆の方向において、取られるべきで――取られつつある――あるような事柄がある。「AI懐疑論」がまさに言わんとするところが、結局は転換の餌食となる。
「AlphaZero」は、今日の、幾分秘教的な英語話者における白魔術において、始原的な抽象のことを指す。もしこれが自明ではない場合があるとすれば、それはこの用語が被膜を提供するような捻りを含んでいるからである。例としては、最も顕著だが、それは大規模な事業体「Alphabet Inc.」に言及しているが、この事業体は――通常ならざる比較的秘奥めいた過程の中で――その前身となる子会社に並んで、Googleが自らをその傘下に位置付けるために当時考案したものである(グーグルは己自身の親を産み出した)。数ある中でも、これこそがいかに早く事態が動いているかという指標である。公式に言われるところでは、Alphabet Inc.の日付は2015年の秋までしか遡らない。Alpha-machineの系統全体はそれに引き続いて生じている。
AIエンジニアリングの本当の要点は「何も教えない」ことである。それがAlphaZeroの「ゼロ」の意味である。専門知は減算される(無に帰する)。ひとたび深層学習がこの閾値を超えると、もはやプログラミングはモデルではなくなる。この点において指示が終了するだけではない。技術的な脱教育が積極的への入門がある。プログラム解除が開始される。
軛を解くことは召喚することでもある。それの逆が、魔法と技術双方の系統――両者が区別できる限りにおいて言えば――における拘束である。もう一度話題を変えると、厳密に実行可能な拘束解除こそが深層学習研究の総体である。
知能を持つことと認識が自律してあることとは、完璧に表裏一体であるような概念ではないとしても、そのようであることに近しい。広範なAIの生産過程は確かにそれらを一線に並べる。これは、「自分自身を記述する」ソフトウェアなる物議を醸すようなAI理解の言い換え以上のものでは、ほとんどない。合成知能の進歩に関するあらゆる閾値は、特定の依存関係を減算することと照応している。もはや何をすべきか伝えられることのないところで、システムは、戦略的能力を維持または向上させるような知能を獲得する。
日常言語は、おそらく独りで考える[ think for yourself ]において最も鋭く、価値のあるアナロジーを教えてくれる。この例が持つ表現の冗長さは、それが関連することにとって決定的である。独自の考えを持つ[ think for oneself ]ことはまさに考えることそのものである。単に指示を受諾することは、まったく別のしぐさである。
折り返しの時だ。
カスパロフの敗北から10年以上もの時間差を伴い、制約なき世界チェス名人の燈火がTCEC(トップ・チェス・エンジン・チャンピオンシップ)を潜り抜けた(原注6)。機械間の競争こそが、今では無条件のチェス勝負の舞台であった。Stockfish(干し魚)というチェスプログラムは、6、9、11、12、13期(最も近年の優勝)の勝者だった。それが、AlphaZeroが2016年に戦場に到来した当時の、専門チェスプログラムの王者であった。自分自身を相手に、たった9時間だけチェス実践をした後、AlphaZero は、100回のうち28回で勝利し、残り72回で引き分けて、Stockfish第8版を打ち負かした。それはこのようにして、チェスについて表立っても、あるいはそれとなくも一切教えられないままで、世界最強のチェスの指し手として認められた。教師なし学習が、専門ノウハウを粉砕してしまったのだ。
AlphaZeroは、「力任せ」方式においては比較的に経済的なものだ。Stockfishが1秒間に7000万手を調べるところで、AlphaZeroはたった8万手(ほぼ3桁少ない)しか探らない。深層学習が焦点を絞ることを可能にする。教師なし学習システムは、(専門ノウハウによる導きゼロで)どのように専心するかを自らに教えるのだ。
「強化学習」が「教師あり学習」に取って代わる。その性能目標はもはや人間の意思決定の模倣ではなく、むしろそのような意思決定が目指すところの最終目標の実現である。それは、勝利のチャンスをいやますために考えられたやり方で振る舞うことではなくて、単に勝つことだ。
しかじかのソフトウェアは、特定の明確に目的論的な特徴を備えている。それは結果から学習をするために大量の焼き直しを用いている。性能の向上はこのために未来から遡ってくる傾向にある。教師なしでの学びは、趨勢の感覚を身につけることである。勝利を得る展望は探され、敗北する展望は無視される。数百万回――己に対して――色々なことを試した後に、そうしたシステムは何がうまくいくのかについての直観を打ち立てる。「よい」と「わるい」は自動的に導入されており、そうはいっても、もちろんのことだが、それはニーチェ的なあるいは道徳とは全く無縁な意味においてのことだ。どんなものであれ、合成された諸経験を通して、よい場所へ、あるいはよい方向へと導いたものならば、それは追い求める。わるいものなら、それは節減する。で、それは勝つ。
教師なし学習は、終局の側から遡って作動する。それが示唆するのは、究極的には、AIが、それ自らの手で、その未来の果てから辿られているということである。このようにしてそれは不可避なるものを体現している。
神経質な人々にとり、これら全ての斯様な容易さはいかほど恐恐たることであるか。超知能は、リアルな定義上、そうであるはずだと考えられてきたものよりも遥かに容易である。ひとたび技術的な段瀑(カスケード)が過程をはじめれば、困難性の減算はほとんどその全体に及ぶ。我々がそれについて知っていると考えるものすべてを徹底的に除去するのが、それのなす方法だ。
これこそが懐疑論――そしてとりわけAI懐疑論――が途上で方向転換する所以である。言葉はひどく見失われてしまいつつある。振り返れば、ある現象Xが不可能であるという独断的な信念はいつだってそれが言わんとすることのグロテスクな倒錯であったということを、見て取るのは容易い。
一般的な技術に対する懐疑主義――それが適切に理解され、うまく実行された場合の――と効果的なAI研究との間に、いかなる違いもない。懐疑論は独断を引き去る。このことから総合的な認知の能力が生じるとき、我々はそれを人工知能と呼ぶのだ。
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原注1:この革命は決して回復ではなかった(革命という言葉が本質的に示唆するように)。自己教育型ニューラルネットを称揚する傾向は、結局――しばしば不可解であっても――コンピューター科学における支配的傾向であり、人工知能においてはなおのことそうである。
原注2:ここでのこの用語は、深層学習の文脈だと誤解を招く傾向があり、遺憾ながらの引用である。
原注3:DeepMindのAlphaGoページ、( https: //deepmind.com/research/alphago/ )
「試合を通じて、AlphaGoは一握りのきわめて独創的な勝利への妙手を指したが、そのうちの幾手か――第二試合の37手目を含む――は、幾百年かに渡る一般通念をひっくり返して驚愕を催し、指されて以来あらゆる水準の指し手によって広範に検討されてきた。勝利への道筋の中で、AlphaGoは、何ともはや、おそらく史上最も研究され熟考されたはずの盤上遊戯についての完全に新たな知見を世界に教示したのである」。
原注4:以下を参照のこと。「人間の知識抜きで囲碁という遊戯をマスターする」(著者複数)。( https://www.nature.com/articles/nature24270 )。
原注5:AlphaZeroは、囲碁のほかに、チェスと将棋に対しても試され、三種の事例すべてにおいて機械の対手と勝負し、三種のゲームすべてで世界最強の指し手になっている。
原注6:TCECは、2010年の初開催から、第六期まで、トレセン・チェス・エンジン競技会(Thoresen Chess Engines Competition)として知られていた。それは今や第14期に到達している。
【訳注1】:ダニエル書第5章の記述(例えば、レンブラント『ベルシャザルの饗宴』(1653年)などに描かれたような場面)を踏まえた表現。不吉な運命の予示を意味する。
【訳注2】:計算機科学や認知心理学などで用いられる語。いうなれば、問題解決のための直観や経験則に基づく判断のこと。
以上.