漫筆(好きな歌3つに寄せて)
私はよく動画サイトでMVを視聴するのですが、ふと自分の好きなものを振り返っておきたくなりました。そんな矢先、次のような匿名のブログ記事を見ました。
音楽の創作や製品化に関して、私は事情通ではなく、専門家や才人でもありません。ですが、それでも、何か記録に残すことに、意義はあるのではないかと感じました。思えば、去年も、主に東南アジアを中心にした、ラップ音楽MVの視聴体験を書いていたのでした。
この記事では、自分の好きな歌3つに寄せて、つらつらと思ったことを書こうと思います。自分の趣味、そしてまたオブセッション(執着)を振り返ることは、当の対象のみならず、対象をめぐるあれこれの勉強にもつながるし、何より省察するよい機会にもなります。この記事が、自分だけではなく、他人にとっても、何かよい意義のある文章になっていれば幸いです(注:書いてみたところ、当初の思惑と別の文章になってしまい、MVとして、音楽として、などなど、語ることができませんでした。歌詞に少し触れるほか、私のオブセッションが前面に出てしまいがちでした)。
各種の専門用語や、百科事典的な水準の知識に関し、理解に誤りありましたらすみません。故意に誤りを広めたいわけではありませんし、誰かの心を踏みにじりたいわけでもありません。私の感性に「いいね」を付けてもらいたいわけでもありません(付いたら私はうれしくなるでしょうが、それは主眼ではない)。何かご指摘等ありましたら、即応は確約できませんが、コメント等でご教示いただけましたら幸いです。
目次:
の子『大島宇宙人』2011年
槇原敬之『軒下のモンスター』2011年
米津玄師『MAD HEAD LOVE』2013年
・の子『大島宇宙人』2011年
声優の大亀あすかが歌ったアニソン、エリオをかまってちゃん『Os-宇宙人』(2011年)を、楽曲提供者(バンド「神聖かまってちゃん」の、の子(戸籍名は大島亮介))が歌いなおした曲です。『Os-宇宙人』ではなくて『大島宇宙人』の方を挙げるのは、私が(楽器として)身体に何ができるのかを考えがちだからだと思います。
『大島宇宙人』は、おそらく、の子の人声が、ピッチを高くして使用されています(サビに入る前後などでは操作していない声も使用されている?)。この曲と同年の前山田健一『ヒャダインのカカカタ☆カタオモイ-C』や『ヒャダインのじょーじょーゆーじょー』にもヒャダイン(前山田健一)の声をエフェクト処理した高い声(「ヒャダル子」とキャラクター化されている)が登場します。例えば、ボイスチェンジャーソフトウェア「恋声」が初公開されたのが2008年のことで、初音ミク登場がその前年なので、この前後の時期に、音声情報処理の知見が注目されるようになった(道具や技術が紹介され、普及した)と言えるのではないかと思います。
楽器の出す音を加工するように人体の出す声が加工でき、それを配信できる状況が整った。この事態に対しては様々な捉え方があると思います。私は、道具が身体に対して両義的に働く、という立場から捉えたいと思っています。ボイスチェンジャーは、「人体にはなしえない発声」という幻想を再編する道具となります。例えば、次のブログ記事は、「ゼロ年代から2010年ちょっとまで」は「人間が限りなく「機械っぽい」ことが愛された、面白い時代だった」とまとめています。
人々が「機械っぽい」振る舞いを探求するとき、それは人間/機械の間での力能の割り振りを再考する機会となっているはずです。つまり人間や機械に〈できると言われていること〉と〈実際にできること〉との差異を自覚させ、〈できないと言われてきたができること〉や〈できると言われてこなかったができること〉などを発見させる、その機会になるのです。
こうした観点は、人間/機械というカテゴリーのみならず、例えば男性/女性といったカテゴリーに対しても有効なはずです(女性と男性ではできること/できないことが異なるという話は、科学論文から俗説まで、信頼度は様々だと思いますが、溢れています)。思えば、の子の「の子」という名や、ボイスチェンジャー使用に関しても、こうした観点から解釈がなされていることもあったのでした(以下の2010年のインタビューの「「男の子」でも「女の子」でもないから「の子」」を参照のこと)。
ボイスチェンジャーと声の関係を、音楽を離れて考察した論考として、「ボイスチェンジャーを用いて女性のような声を装ったVTuber」(「バ美肉」と称される)を取り上げた黒嵜想「ボイス・トランスレーション」は啓発される内容でした。
とりわけ後編の次の一節は、鍛錬用具としてのボイスチェンジャーの意義をうまく取り上げています。
今日バ美肉によってボイスチェンジャーとして活用されている恋声が、MtF向けの指南書においては自分の声を聞き可視化するために活用されていた。本書にとってそれは、自分の発声訓練に「気長に付き合ってくれるだけの友人」の代わりであった。
この論考では、一方では既にある理想の「女性の声」を実現するための道具が、他方では「女性」に対する理想自体をつくりなおすための「友人」の「代わり」になりうること、そして「ボイスチェンジャーを用いて女性のような声を装ったVtuber」の配信が、配信者と視聴者双方の側で、「女性」というカテゴリーに託される幻想自体をつくりなおす探求となりうることが指摘されていました。
紹介した論考では事例の都合上、主に「女声」が念頭に置かれていましたが、より一般的に言って、ボイスチェンジャーは、これまでのカテゴリーと力能の割り振りを引き写すのではなく、それを再構成する道具にもなると言えるでしょう(こうした装置と人体との関係という点で、岡崎乾二郎『芸術の設計』(2007年)の「音楽の設計」の特に結びの辺りは参考になった記憶があります)。
話題がすっかり遠くに来てしまいましたが、の子『大島宇宙人』に戻ります。エイリアン(alien)が(在留)外国人を意味するように、地球人ならざる宇宙人呼びは、人間ならざる人間呼びのような排斥の雰囲気を帯びがちです。包摂されているはずの(局所的な)社会から排除されている、つまり社会人外として社会に包摂されているという体験の記憶は、たいていの人が持っているのではないかと思います。「地球で宇宙人なんてあだ名でも/宇宙の待ち合わせ室には/もっと変なあなたがいたの」。私にはこの歌詞が染み入ってくるような心持になるときがあります。もちろんここにも地球/宇宙のカテゴリーや「変」に振る舞うという力能の割り振りが入り込んではいるのですが、しかし、私が別様でありうると身で示してくれる相手、分身のような相手に出会いたいと思うような孤独が生きられるとき、この歌は、きっと、寄り添ってくれるはずです。
・槇原敬之『軒下のモンスター』2011年
以前、私は〈田舎〉と〈都会〉で言えば〈都会〉側の人間だと述べたことがありました。
加速主義と「都会」性に関して。私個人に限って申し上げれば、なるほど振り返ると私は「都会」的な場で「都会」的な心性を培ってきたのかもしれないと感じます(具体的な地勢や居住地域の区分はともかく、「地方」と「都会」という幻想の対があるとすれば、「都会」的な風物や気風に触れがちでした)。
— 江永泉 (@nema_to_morph_a) December 24, 2019
ひとにご指摘を受けてから思い返してみたのですが、どうも、私の中で〈田舎〉や〈都会〉という幻想はこの歌に喚起されるイメージと強く結びついていました。
この曲は次のように始まります。「突然田んぼの真ん中に/現れたUFOのように/揺れる稲穂があまりにも/似合わない君が立っていた」。この「君」は「あまりに都会的すぎる/雰囲気が邪魔してか/彼女もできずに結局/夏祭りに僕を誘った」とあるので、「君」が〈都会〉であるとすれば「僕」は〈田舎〉の側にいます。書きながら思いましたが私はこの『軒下のモンスター』の提起するイメージ群と、の子『大島宇宙人』の提起する(「地球」と「宇宙の待合室」の区分のような)イメージ群を重ねてしまっている気がします。ともあれ、この『軒下のモンスター』はこう続きます。「その時ずっと解けずにいた/謎の答えが分かった/好きになる相手がみんなと/僕は違うんだと」。この「僕」は、おそらく〈田舎〉の「みんな」と同じように生きられないことが「謎」だったようですが、恋をすることで〈田舎〉の「みんな」と「僕」は「違う」のだという意識を抱きます。ここでの〈田舎〉は「僕」にとって抑圧的な場として捉えられています。「普通に結婚して/子供を何人か授かって/それ以外は幸せとは/誰も信じないようなこんな街で」。「僕」にとって、この〈田舎〉は「こんな街」なのです。
この歌は、まずもっては、ある種の〈ゲイ・アンセム〉なのかもしれません。けれどこの歌は、正しい「好き」が認められるべきで、抑圧的な「こんな街」や「みんな」は間違っている、と訴えることに力点があるようには感じられません。というより、むしろ、それでも「こんな街」や「みんな」とともにある「僕」、それらを切り捨てられない「僕」の自己抑圧を歌いあげているように感じられます。自己抑圧、その体験の切実を共有するのはとても難しいことです。――例えば、苦労をするとひとは優しくなれる、という物言いはありますが、優しくなるためにひとに苦労するよう強いる物言いには何か受け入れがたいものがあります。――この歌は、その困難に向き合い、自己抑圧を肯定するために、――それが言い過ぎなら、自己抑圧の体験に伴う情動を、孤独な沈黙からすくいあげるために、――試みられた歌であるようにさえ、私には思えてきます。「親を泣かせることも/心に嘘をつくのも嫌なんだ/いっそ妖怪にでもなって君を/軒下からただ見ていたい」。これに引き続くサビは本当に心うたれるものですが、どうにも文章が歌詞の引き写しめいてきたので止めます。
この歌の宛先は第一に、何らかの環境でマイノリティとなっている(マイノリティとして生きている)ひと、自己抑圧し、「みんな」に(少なくとも、うわべでは)埋没しつつ生きようとしている(生きざるをえない、生きたい)ひと、なのだと思います。この歌の宛先には、広がりがあります。「普通に結婚して/子供を何人か授かって/それ以外は幸せとは/誰も信じないような」状況で「みんな」とは「違う」自分を生きてしまう(生きざるをえない、生きたい)。そのような事態は、ゲイのみが体験するものではないし、ゲイであれば体験するという類のものでもない、と思います(それこそ、私が『軒下のモンスター』と、『大島宇宙人』とを、ダブらせて視聴するとき、この歌の宛先を限定する枠組みを、私はぼやかそうとしているのではないかと思います)。
地球より宇宙、〈田舎〉より〈都会〉を選ぼうとする私の傾向(偏見でしょうか?)には、ある程度は、こうしたMVに触発されて形成されてもいる、私の内なる諸イメージ群が関わっているのではないかと思います(とはいえ、私の宇宙人へのオブセッションは幼少の頃に遡りますし、私のオブセッション(偏見?)に関して、何かに責任を帰したいわけではない、という心づもりです)。ともあれ、これは私にとって忘れがたく、よい歌でした。以下にMVへのリンクを付します。
私見では、この『軒下のモンスター』と対になる歌があります。それは『Fall』(2014年)です。これは「君」との出会い、そして「恋」を通した、抑圧からの解放を歌っています。「心の叫ぶ声に耳を/塞ぐ手をどければ/IT'S TIME TO FALL!」。合わせてご視聴いただければ幸いです。
・米津玄師『MAD HEAD LOVE』2013年
私にとってハチ/米津玄師は、相対的に思い入れのある曲の作家の一人です。ただこのMVの話を始めようと思ったのは、アニメ映画シリーズ「トムとジェリー」(1940年-)に関する以下のようなツイートを見たからだったはずです。
あまりに自分の中で当たり前で意識してなかったけど、本当に人生で好きなアニメひとつ選べって言われたら『トムとジェリー』になってしまうんじゃないか?
— 朽木孤島 (@kuchikikotoh) December 26, 2019
生殖を感じさせない愛、憎しみ、BL、果てしない暴力と破壊、美しく楽しい曲、ヴァリエーション豊かな話。全アニメの中で一番好きな面白すぎるトムの叫び声。底抜けの無意味さ。人の賢しさが介在しない。いきいきした作画。ほとんど不死身。
— 朽木孤島 (@kuchikikotoh) December 26, 2019
私も、梅木マリ『トムとジェリー』(1964年)の一節「トムとジェリー なかよくけんかしな[……]猫にネズミが かみついた/あべこべだ 猫たたき」という歌声が記憶に残り続けています。また、「トムとジェリー」に限らず、ある種のスラップスティックな作品が表現する、「ほとんど不死身」の身体、あるいはいつでも回復可能であるようなフレキシブルな身体、つまりは(取り返しがつかなくなる傷を決して持たないという意味での)「傷つかない身体」のイメージに、私は魅せられてきました。
だから『MAD HEAD LOVE』の一節「修羅の庭にて君と二人きりで/殴り殴られ乱闘中!」や、サビの、「今は痣だらけの宇宙で/愛とも言うその暴力で/君と二人で喧嘩したい」は、私にとって「トムとジェリー」のような、「傷つかない身体」のイメージと共にあります。またこのMV(監督は鎌谷聡次郎)には性的な隠喩と解せるイメージが列挙されていますが、そこには同時に自動的に躍動する機械のイメージが重ねられているように感じられます。その点で私は昔観たエイゼンシュテインの映画『戦艦ポチョムキン』(1925年)の躍動感をここに重ねてみたくなります。
『MAD HEAD LOVE』のMVを視聴するとき、それ以前に視聴していたハチ『マトリョシカ』(2010年)の記憶にどうしてもひきずられてしまいます。ボーカロイドを使用した曲を発表していたハチが、米津玄師名義でも曲を出す端緒となったのは、『ゴーゴー幽霊船』(2012年)だったと思います。ハチの曲、というか、ボーカロイドというコンセプト自体に私は「傷つかない身体」のイメージを感じるところがありました。「キャラクター・ボーカル・シリーズ」第1弾である初音ミクが登場(2007年)した頃の雰囲気を私はよく知りませんが、何か人間(自前の身体)では出しがたい歌声の熱望、そして、いまここにある身体ではない身体像(例えば「傷つかない身体」)の熱望が、少なくとも、幾つかのボカロ曲には、託されているように感じます。
だから『MAD HEAD LOVE』に登場する(米津本人を除いて)二人の人間の姿に、私は、『マトリョシカ』のMVに登場した、都市を背負うないし都市に輪郭を囲繞された、または都市を頭部にジョイントした、GUMIとミクの面影を、重ねてしまいます。と、書いた文章を読み返しているとき頭の中で歌が。「カニバリズムと言葉だけ/歌うアンドロイドと遊んでる」(『パンダヒーロー』2011年)。ああ、ポチョムキン、アンドロイド、トムとジェリー、MIKUとグミ、なかよくカニバリズム機械けんかしな二人きりの宇宙の庭。
以上.