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2003年:パプアニューギニア(JICAシニア海外ボランティア)
"PNGへ行きませんか”
ある日、自宅に一通のファックスが届いた。東京のJICAからである。
“PNGへボランティアに行きませんか”と書いてある。
PNGとはパプアニューギニアのことだろうか。頭に浮かんだのは、極彩色に顔を塗り長い鳥の羽を身体に着けて、陽気に踊る人達の姿であった。
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TV番組の理科実験教育アドバイザー
二年間の任務は、TV番組の理科実験教育アドバイザーである。定年後のこれという具体的な計画のなかった私には、うってつけの話であった。30数年勤務した学校で、理科の授業に実験はいつも大切だと考えて来た私に、ふさわしい仕事である。また、パプアニューギニア(以下PNGと記す)は私の冒険心を誘う土地でもあった。太平洋戦争中、PNGで十数万人の日本兵が死んだ。大部分は餓死と病死である。戦後の日本との関係は希薄である。有吉佐和子『女二人ニューギニアを行く』、本多勝一『ニューギニア高地人』、西丸震也『さらば文明人ニューギニア食人種紀行』などを読むと、まだまだ未知の色濃く残る地域という印象を受ける。
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2人に1人が犯罪に会う
2003年1月、定年まで2ヶ月を残して退職した。東京で1ヶ月の研修を受け、そこではPNGへ向かう他の10名のボランティアと一緒になった。その任務は、稲作・淡水魚養殖・ラジオ番組制作・家畜飼料などと多彩である。
アジア・アフリカ・オセアニア・中南米と、各地へ派遣される中で、我々PNG組だけに課された条件があった。ボランティア参加は男性に限られること、治安が悪いため移動に自家用車を日本より持参すべしという二つである。さっそく、藤沢市の専門店に行き輸送料とも30万円の中古車を、船で首都のポートモレスビーへ送った(帰国時にこの車は31万円で売れた)。
治安対策の研修ではJICA関係者の犯罪被害率がスクリーンに写された。「PNG:年間100人当たり47人」。派遣国中ワースト1である。オーッというどよめきが上がった。それは、その数の多さと、自分の派遣国ではないという安堵感のオーッであった。シンとなったのは我々だけだった。PNGでは年間2人に1人が犯罪に会う。2年間いるならば、1回は棒に当たるということか。
予防接種は着任後接種したものを含めると、狂犬病・破傷風・B型肝炎・日本脳炎・腸チフス・黄熱病である。勿論、PNGはマラリア汚染地域である。マラリアにはまだ予防接種がない。大阪で予防接種を受けに行くと、医師は私が何をしにPNGなどへ行くのかと聞いてきた。彼が開いたページには、汚染地域を示す色が塗られていないPNGの白地図があった。彼はこう説明した。「PNGはまだこの病気の汚染データがないんですよ」
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ポートモレスビーへ
我々はオーストラリアのブリスベン空港で、機体に極楽鳥を描いた小型のニューギニア航空機に乗り換えた。湯気の立つように見える大海原を飛ぶ。右手に大環礁グレイトバリアリーフが続き、やがて緑に覆われたニューギニア島が見えて来ると、機は首都ポートモレスビーのジャクソン国際空港に着陸した。
第一印象は静かな田舎町というところである。
空港建物の中に大勢の人がいるのが見えるが、これはどうも飛行機の見物をしているようである。暇な風情の大人や子供が顔をぴたっとガラスに押し付けてこちらを見ている。
黒い顔。縮れた頭髪。眼だけがギラギラ光る。ひげずらの男。太い足に、ゆったりとムームーのようなものを着ている女性。射すような強い日射しに、日本的な情緒など吹き飛んでしまいそうな土地に来たことを感じた。
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海の見える家
JICA事務所はさっそく新しいボランティアに歓迎会をしてくれた。若いS氏が「僕が所長です」と言うのに驚いた。40代である。奥さんと小学生の娘さんを連れている。海外のJICA事務所長の中で僕が最年少だという。大いに頼もしい。若い職員達もきさくな人たちで、以後2年間家族ぐるみで付き合ってもらった。治安の悪さと、うまく行かないボランティア活動のストレスを抱えるわれわれに、この事務所は実に風通しの良いオアシスであった。
現地研修が始まる。やはり治安対策が第一である。昼でも町でラスカル(アライグマ。名前は可愛いのだが)と呼ばれる武装集団に襲われるという。我々はさっそく携帯無線機を渡され、交信練習をした。無線機は常に腰のベルトに付ける。自宅でも常に受信状態である。通話内容は常時、市内のすべての日本人に聞こえている。何事かあれば直ちに対応できる体制。JICAのPNG(パプアニューギニア)事務所の治安対策は現実によく対応したものであることが、次第にわかるようになる。例えば、毎月の日本人関係者の被害内容の報告と、その対応策が全員に配布される。被害者本人にはその公表は不名誉なことであるが、全員がその事実を知ることは同じ類の被害を減らす。PNGの後2つの国に派遣されたが、PNGほどの対策を取る事務所はなかった。
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現地人のジェイムズ職員と家探しに市内をまわる。治安の悪いポートモレスビーに安全な住居は極く限られている。家賃も非常に高い。数日見てまわるうちに、運のいいことにタウン地区の「エラドリーナ」という外国人向けアパートが空いているという。一目見てここに入ることに決めた。小高い丘の上に東南を向く白い5階建アパートで、2階は海を見下ろして眺めがいい。環境は静かだし、事務所も職場も車で行ける。買い物も便利である。家賃の月17万円はJICAが払ってくれる。住人はオーストラリア人が多いが、JICAや日本大使館の人もいる。敷地へ入る門は常に数人の警備員が固め、大きならせん状の鉄条網が幾重にも敷地を囲む高い塀を覆っている。少年の頃から一度海の見える家に住んで見たかった。ベランダに出ると、いつもポートモレスビーの湾が見え、戦時中に沈没したまま放置された船が、その一部を見せている。
ピジン語の研修
現地語の語学研修が始まった。首都を中心に話されるピジン語である。先生は一人の青年でなかなか調子がよい。やる気満々の彼は、用意した紙に書いてきた会話文を覚えるように言う。しかし我々60代の頭脳は一向に動こうとしない。2,3日すると、親密になったピジン先生は、誰か金を貸してくれと言いだす。その内、貸した人が「返してくれない」とぼやきだす。研修最終日。やって来たピジン先生の様子がおかしい。誰かが「飲んでるぞ」と言う。やがて、先生は無言で静かに地面に横になる。研修の無くなった我々はそこを出て復活祭のミサをしている教会へと向かった。ピジン語の先生は、昨夜、復活祭の祝い酒を飲みすぎたにちがいない。
教育省カリキュラム開発局へ行く。東京千代田区永田町の官庁街を想像していただけに、野原にあることに驚いた。敷地は鉄条網に囲まれている。いかつい顔のカリキュラム開発局長のゴッドフレイ・ヤルワ。初印象はこわもてだが、次第に賢明で優しい人であることがわかって来る。
カウンターパートのジョン・カカス。初等教育理科担当の役人は彼一人しかいない。愛想がよい。私の常駐場所は日本政府の援助で建てられたメディアセンター。所長は女性のハッチ・ミロウ。ソロモン出身で肌は真黒である。10人ほどの現地人が勤務し、日本人の専門家Iさんがセンターの活動全体を指揮している。青年海外協力隊員のH君。一緒に来たラジオ番組指導のNさんと日本人は4名。
日本から送った荷物と車が到着した。港へ行き手続きをして車を受けとる。町中の移動はこれからはすべて自分の車である。日本での運転経験は浅いので毎日が運転練習のようなものだ。幸い日本と同じ、車は左側通行である。朝アパートを出て山を下り、海沿いを走って峠を越え、ワイガニ地区の職場を目指す。
私の任務
日本の南5000km。赤道を越えると、世界で2番目の面積をもつニューギニア島がある。PNGはその東側(西側はインドネシア領)と周辺の多くの島からなる。7~800の部族はそれぞれ異なる言語を話す。1930年代まで石器時代の延長にあり金属の時代を経験していない。内陸部は、密林に覆われた山岳や大河により孤立した社会が形成され、そこに多くの人が住んでいることは、20世紀になるまで外部に知られなかったのである。
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PNGのこれまでの学校制度は、1~6年生の初等学校、7~10年生の中等学校, 11,12年生の高等学校そして大学というものであった。現在、この制度の改革中である。幼稚園児と1,2年生をまとめた3年制の基礎学校を設け、ここで各部族語を使い伝統文化を学ぶ。3~8年生を初等学校、9~12年生を中等学校とする。現在、6年生まで就学する児童は、全体の6割である。政府は将来、基礎学校と初等学校の計9年間を国民全体の義務教育としたいようだ。新しい制度のために教員、教室、教材、教科書不足など解決すべき問題は多い。その一つに今まで6年生までを教えていた教員が、7、8年生の教科内容を教えなければならないことがある。特に算数・理科の分野は困難が予想され、教員研修は急務である。
しかし、具体的にどのように進めるのか。日本の1.25倍の広さを持つPNGは、急峻な山岳地帯(最高峰はウィルヘルム山4509m)と密林、湿地に覆われ鉄道はない。道路もない。道はあっても未整備で人の移動は困難である。部族間抗争が増えるからと道路をつけることに反対する人が多い。つまり部族間の交流が困難な閉じた国なのである。JICAのプロジェクトはこの問題を解決しようとする。それは人工衛星を使って、首都でTV授業番組を放映し、全国の教室で利用するという構想である。
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モデル校で授業を撮影し、TV局から定刻に週五日間(月~金)初等学校7年生の理科・社会、中等学校11年生の数学・地理の番組を放映する。現在、4つの州(セントラル州、ゴロカ州、ブーゲンビル州、ウェワック州)の各10校のパイロット校の教室では、教員は生徒と一緒に番組を見ながら指導をしている。私は7年生理科の授業の指導をする。特に実験を取り入れて生徒が活動する授業を期待されている。
モデルクラスのあるウォードストリップ初等学校へ、毎朝、メディアセンターから歩いて通った。途中、巨大な樹木に成長した熱帯のブーゲンビリアが溢れるばかりの花を付けている。教室には外国人の私を興味深げに見ている子ども達の視線があった。明るい教室の壁には、生徒の書いた表や絵が貼ってあり、天井からは太陽系の惑星の模型がぶら下がっている。40名ほどの生徒の前で若い女性教師エッサ・ゴドワが「磁石」の授業をしていた。パワーポイントを使い、授業の言語は英語である。生徒は熱心にノートを取っている。撮影カメラがまわり、時にハンドカメラが近づく。
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生徒たちは屈託なく楽しそうである。このクラスの生徒たちの出身地が多様であることに気がついたのは、数ヶ月後のことである。思わぬことがきっかけであった。「塩」の授業の後、私は生徒たちに、おじいさん・おばあさん・ひいおじいさん・ひいおばあさん達がどのようにして塩を手に入れていたかを調べて提出するように言った。その結果が集まるにつれ、私は興奮した。生徒たちの出身はPNGの全域であること。塩を手に入れる方法として、人類が太古以来、知り得たおそらくは、ほとんど全ての方法がそこに書かれていたのである。「海水をそのまま使う」「海水を乾燥する」「海藻を乾燥する」「岩塩」「塩湖の利用」「塩分を含む植物の利用」「交易」など。これだけ多様な文化的背景を持つ生徒たちが、同じ一つの教室で学んでいることに驚いてしまった。
オーストラリア人の番組批判
宗主国であったオーストラリアは、現在も、色々な分野でパプアニュ〜ニューギニア(PNG)への援助と助言を続けている。I専門家はカリキュラム開発局宛てに送られてきた2通の手紙のコピーをくれた。オーストラリア人で科学教育の助言をしているというラッセル・ジャクソン氏からのものである。
一通は、TV番組を始めたばかりの2001年のものである。内容は、“TVを使う発想は評価したいが、現在の番組の業には問題である。生徒は板書を写しているだけだ。このプロジェクトの理論的根拠は何なのか。放映前に、自分たちが内容チェックに関われないかというものである。PNG(パプアニューギニア)にはすばらしい教師たちがいる。彼らの仕事を放映してはどうか”と提案している。この手紙に対しどのような対応があったのかわからない。
もう一通は最近、5月に届いたもので、放映された授業「科学的であること」についての意見である。授業は「ブンゼンバーナーの安全な使用法」を扱っている。一体この授業のどこが「科学的であること」なのか“という批判である。
“ガスのないPNGの学校で、なぜブンゼンバーナーを教えているのか。
授業では、灯油ランプ・アルコールランプ・ろうそくを扱うことになっているはずである。カリキュラム開発局はこのモデルティーチャーを指導していないのではないか。そして、この授業は決して、「科学的な」授業とは言えない。番組中、生徒が手にした教材は、ペンと教科書だけである。モデルティーチャーは、コンロのバーナーとろうそくを使ったが、生徒が触れる機会は全くなかった。コンロのバーナーに点火して「ブンゼンバーナーを使えば、焔の形は葉の形になる」と説明し、それを生徒にノートさせたり、セラミックを加熱しても赤くならなかったが、モデルティーチャーは「ブンゼンバーナーを使えば赤くなる」と説明していた”。
さっそく「科学的であること」のビデオを見ると指摘の通りである。これまでに放映した別のビデオも見る。あまりにも授業内容に誤りが多いことに驚いてしまう。たとえば、ピンホールカメラの授業では、生徒はピンホールカメラを作り、ろうそくの炎にカメラをむけている。「見えている像をノートに描きなさい」と言われた生徒たちの戸惑う様子がある。彼らは反対側のピンホールから中を覗こうとしている。モデルティーチャーは生徒たちの誤りに気がついていない。やがて授業は終わる。この先生は明らかに自分でピンホールカメラを作ったことがない。地球の自転と公転を混同したり、月の重力加速度が地球と同じ9.8であったりと、これではモデル授業といえない。
どうやら、このモデルティーチャーは内容を理解しないで授業をしている。そして彼女は誰の指導も受けていない。番組は内容チェックがないまま放映されている。JICA・カリキュラム開発局の書いた『報告書2003』によると、私のカウンターパートである初等理科教育担当カカスと、PNG教員研修校の理科担当オット―が、モデルティーチャーへ毎日指導と助言を与えて来たことになっている。しかし彼らは教室へは姿を見せないし、モデルティーチャーの指導もないようだ。放映される毎日のTV番組も見ていないだろう。I専門家はIT技術指導に関心があるが、理科教育の内容には目が向いていない。これまで放送してきた番組内容には問題がないと思って来たのだろうか。
事務所やI専門家は、プロジェクトはうまくいっていると言う。しかし現実にモデルクラスで展開されている授業と『報告書2003』と違いは大きすぎる。授業の方法については、教師による一方的な授業をやめて、世界的な流れである、生徒活動に重点を置く方法を取るという。社会科のモデルティーチャーの授業には確かにそれは感じ取れる。しかし理科は、黒板の代わりに、TV画面を生徒は写しているだけである。
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ウォードストリップ初等学校7年C組
7年生は日本の中学1年生に相当する。少年少女期をまだ抜けきっていない彼らのおおらかさ、朗らかさは日本の子どもたちと変わらない。
「あなたは学者なの?」「結婚している?」
「奥さんは何人いるの?」「子供は?」
「娘さんはどんな仕事をしている?」「奥さんを連れて来てほしい」
半年後、妻がPNGへやって来た。教室へ一緒に行くと、生徒たちは一斉に立ち上がって、私達を迎えてくれた。妻はうれしそうだった。
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ルネ・トモは、小柄でちゃめっけのある男子生徒である。英語もうまい。7年生の理科の試験で学年一番の成績を取った。彼の知的好奇心は広い。色々な質問をしてくる。
「ヒロシマに落ちた原爆はどんなものだった?」「何人が亡くなった?」
「その時、あなたは何歳だった?」
「日本は戦争をもうしないと決めたんだってね?」
この最後の質問は、一瞬、何のことかと思ったが、気が付いた。彼は日本国憲法のことを言っているのだ。部族間抗争が当たり前のPNG。日本について知る機会はほとんどなさそうな彼が日本国憲法について、いつどのように知ったのだろう。
私がこれまで当たり前に感じて生きてきた憲法が日本の誇れる財産の一つであることに気がついた。しかしこの2004年は日本国政府が自衛隊をイラクに派遣した年である。私はそのことをルネ・トモには言わなかった。あれから10年以上経つ。(注釈:2014年執筆)青年になった彼は今の日本についてどう考えているだろうか。