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1990年のシルクロード.その1(パキスタン〜タキシラ〜フンザ渓谷〜クンジュラフ峠)
飛んでくれるな、パキスタン航空
東京駅を出た成田空港行きの電車は、千葉県の平野部をひたすら走りつづけていた。これからパキスタンへ向かうというのに、どうやら厄介なことになりそうな気配がする。このままだと飛行機の出発時間に遅れそうなのである。前夜東京で泊まったホテルで、成田まで1時間で行けると聞いて、のんきに電車の時間も調べずにいたのが悪かった。電車の本数は決して多くない。それに、成田空港は思ったよりも遠方にあるようだ。梅雨明けの青空だというのに、少しづつ暗雲が湧いて行く。イスラマバードへのパキスタン航空片道航空券は8万3千円した。払い戻し不可能な航空券である。もし飛行機に乗れなかったら、大阪へ戻って明日からどう過ごそうか。祈るような気持ちでひたすら電車の進む方向ばかりを見つめていた。電車よもっと走れ。やっとのこと、遠くに空港の建物が見え始めたとき、時間はもう遅かった。駅到着が11時5分。飛行機の出発は11時30分である。航空会社カウンターへと走る。人の姿が見える。そしてそこで告げられたのは、出発が14時に延期されたということだった。航空会社のくれた昼食券で1000円もするラーメンをゆっくりと食べた。
1990年夏。僕は47才。1987年夏は、フェリーで上海へ渡り、青海省からチベット、さらに国境を越えてネパールまでの旅をした。もう一度長い旅がしたい。次はシルクロードと決めていた。年齢的にも、仕事の上でも、これが最後のチャンスだろう。最終的にまとまった計画は、
パキスタンに飛び、フンザ渓谷からパミール高原をクンジュラフ峠へと越え中国新疆ウィグル自治区に抜ける。
クンジュラフ峠は一般旅行者に対し1986年に開放されていた。
その後、タクラマカン砂漠に沿って天山南路を敦煌へ、そして列車を使い北京経由で天津港へ。最後はフェリーで神戸に戻って来ようという約1ヶ月の計画である。
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旅行のために準備した装備は次のようなものであった。
この旅行をどのようにイメージしていたかがうかがえると思う。
・運動靴
・リュックサック
・サブザック
・貴重品袋
・パスポート
・現金
・航空券(東京―イスラマバード)
・日中フェリー乗船券(天津―神戸)
・顔写真
・英和/和英辞書
・ガイドブック
・中国地図
・岩波文庫『ブッダのことば』
・ノート
・筆記用具
・腕時計
・カメラ・カラーフィルム8本
・うちわ
・サングラス
・磁石
・折りたたみ傘
・ポリタンク(2リットル用)
・箸と箸箱
・果物ナイフ
・カップ
・100円ライター
・医薬品(近所の医院でもらう)
抗生物質、風邪薬、鎮痛剤、胃腸薬、化膿止め、バンドエイド
・日本茶ティーバッグ・コーヒーシュガー・牛肉かんづめ・乾パン
・ポリ袋
・輪ゴム
・ロープ
・裁縫用具
・懐中電灯
・予備電池・予備豆球
・目覚まし時計
・靴ひも予備
・アイゼンバンド・カラビナ
・洗面用具
・手ぬぐい(覆面にもなる。長距離バスは座席の下からホコリがまきあがる)
・爪切り
・トイレットペーパー2巻
・衣類(泥と埃にまみれる毎日になる。出来るだけ毎日の洗濯が望ましい)
ズボン、半ズボン、シャツ(長袖、短袖)、セーター、下着、靴下、帽子、ジャージーズボン、チベットで買った中国製防寒着
さて帰国して気が付いたものがある。洗濯バサミと蚊取線香を持って行くべきだった。
4月に入って、新疆ウィグル自治区で民族騒乱が起きているというニュースが伝わって来た。しかし旅行の可能性については何もわからない。
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成田を離陸したパキスタン航空753便は、北京空港でまたもや足止めを食らった。イスラマバード空港をVIPが利用するための待機だというのである。イスラマバード午前11時30分到着予定も、いまでは一体何時になるのやらわからない。楽しみにしていたチベットやカラコルム上空からの眺めもあきらめる。乗客のほとんど乗っていない飛行機は漆黒の闇の中を飛び続け、イスラマバード空港に到着したのは現地時間深夜0時半であった。何時間の遅れだろう。
男。男。男。ラワルピンディーの町
荷物のチェックを受けないまま空港の外へ出てしまう。むっとする熱気。暗闇の中にたくさんの人がいる。白い服を着ている。日本で予約したHotel Holidayを知らないかと尋ねるとHoliday Innと勘違いしている。俺のホテルはそんな高級じゃない。とにかくやっとのこと迎えに来ていた旅行代理店の男に会う。ジッダから戻った人たちで空港は溢れかえっていると言う。整理する警官もいない広場を我がちに出ようとする車で身動きができない。やがて車は深夜の町を走りだしHotel Holidayへ着く。しかし12時までに来ないので他の客を泊めたという。替わりのRawal Hotelというのに連れて行かれるが前払いした9600円にしては格が落ちる。最高で400ルピー(2800円)となっている。だまされたようだ。午前3時になる。とにかくベッドに転がる。
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ラワルピンディーは古くからの町である。喧騒の中に大いなる活気を感じる。驚いたことに、強い日差しの下、通りを占領しているのは男、男、男ばかりなのである。ゆったりしたズボンをはき、長い白衣に白い帽子を頭に乗せている。ほとんどひげを生やしている。歩行者も、オートリキシャに乗っているのも、台に座ってジュースを売ったり、何やら粉をこねているのも、とにかくみんな男である。その迫力に圧倒されてしまう。これがパキスタンか。気さくに話しかけてくる。「パキスタンをどう思うか?」「写真を撮ってくれ」。パキスタンの英語は巻き舌である。さかんにNo Problem と自信たっぷりである。
しかし、よくよく注意して観察すると買い物中の女もいることはいるのだ。しかしその存在感たるや薄い。バスの中の女たちは前方の座席にちょこっと座っている。乗客全体に占める割合から見ても、彼女たちの移動できる世界はそう広くはない。女は男の所有物のように見える。ベールから眼だけを出している若い女は誰もがみんな美人に見える。目はパッチリ(バッチリの方がふさわしいか)と大きく、眉毛は太くて濃く立派である。しかし結婚してしまうと、眉根にはしわが寄り悲しげな表情をするようになる。そして次第に太り始める。近くで見るとあごや鼻にひげが生えている女もいるし、何故かガニ股も多い。
ラワルピンディーに隣接するイスラマバードはこの国の首都で官庁が集まっている。ビザ申請に中国大使館へ行った。1ヶ月ビザが600ルピー(4200円)である。大使館も男たちで溢れかえっていた。庭ではビザ申請用の写真をパスポートからコピーしてくれる男が商売をしている。大きな箱型カメラを使い、写真が出来上がると見物人たちはしきりと「Strange 不思議だ」と驚いている。夏休みに中国へ商売に行くという大学生たちに出会う。煙草や布を中国で売り、陶磁器や自転車を買って帰る。かってのキャラバンによるシルクロード交易は今もトラックを使って続けられているのだ。
イランへ行ったというシンガポール人が言う。「イランは美しい。人間も立派だ。会う人ごとに家に呼んで御馳走をしてくれた。イラン人は最高だね。そこへ来るとパキスタン人は」。しかしパキスタン人も親切な人が多い。道を聞くと丁寧に教えてくれるし、ジュースまでおごってくれる(しかし睡眠薬強盗というのもありジュースを飲むと睡魔に襲われ、気がつくと身ぐるみはがされているというから御用心)。食堂に入る。チャパティーと骨付きマトンにサラダが出る。ラッシーもなかなかいける。For Ladiesと書かれた、暗幕で仕切った一画があり、女子供を連れた家族がその中でごそごそと食事をしている。
大きな拡声器からコーランの祈りが町中一杯に響き渡る。厳かであるが、どこかのんびりと聞こえてくる。その節まわしは「南部牛追い歌」を思わせる。仕事をやめて皆一斉にひれ伏すのかと思ったら、そんな気配はなかった。
仏教遺跡があるタキシラへ行ってみようと考える。駅で切符を買うと4ルピー(28円)である。改札の男に尋ねる。
「タキシラへ行く列車はどれか」「わからん。中央口で聞け」
中央口がどこにあるのかわからないので、別の改札で聞いてみる。
「知らん。インフォメーションへ行け」
インフォメーションなんてどこにあるんだ。
駅長室があるので入ると、駅長はただいま電話中。隣に座る男に聞く。
自分のノートを開いて調べていたが「ウーン・・・困った・・・駅長!」と言う。
駅長はまだ電話中である。「行きましょう。5番ホーム。一緒に行こう。あれだ」
何だ。ホームはすぐそばにある。
電車はホームに停まったままで出る様子は一向にない。車掌がいる。
「いつ出発するのか?」「わからない」
「なぜ?」「もう出発時間を過ぎているんだ」
どうも要領を得ない国だ。
タキシラの町
タキシラはガンダーラの時代から古代文明が往き来してきた町である。広大な土地に多くの遺跡が散らばっている。スズキ(手を上げると停まる「乗合い」の車をいう)やバスに乗ったり、歩いたりと汗をたっぷりかいて、ジョーリアン、モクラーモラドゥ、ダルマラージカ遺跡を巡った。
ジョーリアンの案内人はディルシャッドと名乗った。
「日本人を2人知っている」 アントニオ猪木と梅棹忠夫
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10ルピーを渡すとここは撮影禁止だけれど、写真は撮ってもいいよという。彼はここへ来た二人の日本人の名前を覚えていると言った。一人の名前はアントニオ猪木氏である。「背が高い。腹が出ていない」「ひとつひとつの仏像の前で手を合わせていた」という。印象に残る人であったようだ。「ウメサオの眼がよくなるよう祈っている。そう伝えてほしい」。もう一人は梅棹忠夫氏のことであろう。タキシラ博物館に入った。居並ぶ仏像の顔は見なれた東アジアのものと違う。ヨーロッパ系の顔である。仏の顔のイメージは土地によりこれだけ違うものか。
タキシラのセドラちゃん
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宿に取ったタキシラモーテルは博物館の向かいにある。ここのセドラちゃんという小学2年生と友達になる。おかっぱの女の子である。「せっせっせ。セドラちゃん」と言うとうれしそうな顔になってニコッと笑う。
彼女はまず、挨拶を教えてくれた。「アッサラーム アライクム」。これに対しては「ワーライク マッサラーム」である。学校の授業は英語であるらしい。彼女は英会話練習の相手に最適だ。
セドラちゃん「Your eyes are beautiful」
僕「Your eyes are very big」
セドラちゃん「Your eyes are small」
学校の団体が博物館にやって来た。女子学生である。見学を終えた連中は中庭に集まりこちらを見ながらしきりに話している。どの学生も色鮮やかな服装である。上流階級の子ども達なのだろう。写真を一枚撮ろうとするといきなり、若い男が現れてダメだという。
「お前は○○を知らないのか」「○○?」
「お前は英語がわからんか」と馬鹿にしてくる。
郷に於いては郷に従えか。
あきらめて行こうとすると、一人の学生が「How do you do ?」と声をかけてきた。別の学生が「Come back here again」と言う。そうかそうか。では、とそちらへ行こうとすると、例の男がまたやって来るとあわてて何事かを学生達に命令した。そしてこちらへ向かい「You can not come here」と叫んだ。これは教師かガードマンか。何やらわからないが、この男の罪はアラーの神もきっと許されないであろう。
しばらくして学生達の一行は博物館の前に停めたマイクロバスに乗り、帰る準備を始めた。今度はセドラちゃんと二人で手を振ってやる。勿論、女子学生たちも全員手を振り、めでたくバスは動き出したのである。
追い抜き合戦、17時間半のバス旅。
7月20日午前9時。NATCOのバスはピール・ワダイのバスターミナルを出発した。屋根の上には乗客の荷物を大量に乗せている。動き始めてしばらくは道路の巾に余裕があり、バスはゲームのように隣を走るバスと追いぬき合戦を始めた。数人の乗客は運転手の傍で声援を上げる。隣のバスを抜くと大喜びである。しかしその内、運転手の顔は緊張感で青ざめ、真剣な表情でハンドルを握っている。
道はそのうち山間部に入りインダス川沿いのカラコルムハイウェイを行くようになった。カラコルムハイウェイは中国とパキスタンを結ぶ高速道路だ。パキスタンと仲の悪いインドがアメリカと親交を結ぶのに対抗して、パキスタンと中国の間に建設された。中国にとってはインド洋へ出る重要なルート確保でもある。1978年に開通したがその建設に2000人が亡くなっている。
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バスは、人影の少ない不毛な土地を延々と走っている。ここからは、快適といえない、むしろ過酷な旅が始まった。ハイウェイとは名ばかりの悪路である。バスは激しく揺れる。やがて、夜に入ると光の無い暗闇の中を走りつづけた。景色も見えない。これでインダス河に転落でもしたらおしまいだ。ひたすら時間の過ぎることを待つだけだ。そしてバスはインダス河を離れ、支流のギルギット川沿いを走るようになった。インダス河はここからは、東側のインド領を流れるようになる。ギルギット到着は深夜の午前2時半であった。17時間半のバスの旅には体力も気力も消耗した。忍の一文字であった。しかしここはもうラワルピンディーの熱気と喧騒を離れた異界の土地である。
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ギルギッドの町
ギルギットはパキスタン北部最大の町だが、ざっと歩いてみるだけで取り立てて何があるわけでもない。外国人がよく来るためだろうか、人々の視線は冷めているように感じる。標高1500m。長袖を出して着る。年間雨量は少なく空気も土地も乾燥している。岩だらけの山岳に生息する植物は少なく、ガラガラに崩壊した姿のままで、泥流の両側にそそりたっている。河沿いのわずかに緑の生えた部分が人の生きる場所である。河は濁っているが流れは天然の水であり清流である。決して汚れているわけではない。美しい砂州がみられる。
ギルギットという地名は、今まで読んだ探検や登山の記録に何度も登場した。(例えばティルマン『カラコルムからパミールへ』今西錦司『山と探検』本多勝一『憧憬のヒマラヤ』)。ここはカラコラムやヒンズークシュといった氷河と高峰の世界へと向かう玄関口で有名である。カラコラムには世界第二の高峰、8611mのK2をはじめ8000m級の山が4座ある。もしも数ヶ月間を自由にここで過ごせたら。しかし今は先を急がなければならない。中国のビザは一カ月しか有効ではないのだ。
二日間をギルギットで過ごし体力の回復に努めた。幸いこの二日間は良く眠ったお陰で、精神的ストレスも無くなり体調も良くなった。やはり僕には暑さよりも寒さの方が合うようだ。
桃源郷のフンザ渓谷
フンザ渓谷に入った。相変わらずの青空と泥流と崩壊山地だが、緑の寮が増える。ここは住みやすい豊かな土地のようだ。垂直に伸びたポプラの樹もその存在を主張している。バスを降りてみると女性の衣装は赤や青や緑色と色彩豊かだ。人々の顔はヨーロッパ人に近い。青い眼をした人や金髪の人もいる。古来色々な民族の往き来があった証拠だろう。フンザは昔から桃源郷と呼ばれ人々の憧れの土地であったという。ここの春はあんずの花に埋もれるという。ゲストハウスでのんびりと足を伸ばして本を読んでいる旅行者が見える。きっと旅人も長期の滞在をする土地なのだろう。
ススト到着
ススト到着午後3時。標高2700m。青空を背景に白い峰には夕日が当っている。河の対岸に見える鋭い高鋒はカテドラル・ピークである。TOURIST LODGE という一番高いホテルに泊まる。200R(1400円)。寒くなる。ウールを着る。散歩に出てみる。段丘の上に人家が建ちその近くにポプラが生えわずかな麦畑が広がる。あたりを取り巻くのは荒涼とした世界であり、路傍の植物も貧相である。花の中にまで鋭いとげが生えている。過酷な土地。
道路脇に警告が大く書いてある。「NO SERVICES ARE AVAILABLE BEYOND THIS POINT」(ここから先へ行こうとする者、何があっても助けは来ないと思うべし)。
湯が出るホテルで久しぶりにシャワーを浴びて洗濯をする。夜空にはさそり座に北斗七星。白鳥が低いのは緯度のせいか。
宿泊客はほとんどいない。おまえは4,5日ぶりの客だと主人が言う。今年は特にここへ来る人が少ないらしい。パキスタンから中国への国境越えは7月1日に許可されたと言う。
レストランへ行ってパキスタン最後の夕食を取る。ナン4枚。トウモロコシカレー。ジャガイモとマトンのフライ。ジャガイモと青菜の煮もの。パキスタン人にとって料理とは男の大切な仕事である。「まったく。中国人ときたら。あの国では女に料理をさせているそうだ。日本人はどうかね?」
クンジュラフ峠越え
静かな国境の町の夜が明け、朝5時カテドラル・ピークの先端に陽光があたる。朝からよく晴れて気温もどんどん上がる。今日、中国へクンジュラフ峠を越えるのは1人の日本人と約30人のパキスタン商人である。広場を囲んで待つほどに、やがて時間になり、出国審査の役人がやって来た。助手が大きな部厚いノートを抱えている。役人は椅子に座ると、最初に「日本人」を呼んだ。
「ここから先へ行くと、二度と引きかえすことは出来ない。それでよいか?」。
審査はそれだけで終わった。
全員の審査が終わり10時半、3台の10人乗りホンダに分乗した我々はスストを出発した。舗装のない狭い悪路をホンダは時速80kmで飛ばす。標高はぐんぐん高くなり川の流れは穏やかになる。今まで見なれてきた泥流は雪解けの春を思わせる青いせせらぎに変わっていった。氷河末端の押し出しが道路を塞いでいる。除雪作業が終わるまで車は停まる。反対の中国側からやって来たフランス人の女性がいた。「えーっ。あなた日本人?」という。どう見ても中国人に見えるそうだ。
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クンジュラフ峠4693mを通過する。高度障害はない。バスは峠には停車せずに通過した。青空に白雲が飛び、雪を被った山々に囲まれ車は走る。
ピラリの中国側チェックポストに2時(北京時間6時)到着した。中国国旗「五星紅旗」の色が鮮やかだ。カーキ色の制服姿の中国軍人が登場した。灰色の建物には大きな漢字で「便所」「男」「女」と書いてある。久しぶりに見る漢字がなつかしい。
日本人はパスポートを見るだけで荷物検査はなかった。しかし女性係官はパスポートの写真をしきりに見ては不安そうに隣にいる男の係官と話している。彼女はついにこう尋ねてきた。「Are you really Japanese?」
パキスタン人は中国人と同じで、列を作って並ぶことが出来ない。一人が「出口」と書かれた方へ向かうと、どどどっと皆が後を追って走って行く。字が書けない人が多い。中国人の係官は彼らを馬鹿にしている。商人達の荷物を乱暴に中を開けられ徹底的に難くせをつけている。中国人もパキスタン人も自分の方がエライと思っている。
中国領に入る。
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これで念願のクンジュラフ峠を越えることが出来た。何もかも見る物が美しい。パキスタン人達の荷物チェックはまだまだ終わりそうにもない。
全員のチェックが終わったのが午後7時半であった。全員が中国側のバスに乗り換える。新疆ウィグル地区のカシュガルまではここから1泊2日である。パキスタン側と違い、中国側は道巾が広くなり舗装されている。