余生という影
離婚してから3ヶ月間、ずっと逃れられずにいる感覚がある。
これはもはや余生なのだ、という冷めた感覚だ。
暴力を振るう夫から逃れて新しい人生を始められたのだから、もっともっと希望をもてるものだと思っていた。しかし、必死に駆け抜けた離婚協議でエネルギーを燃やし尽くしてしまったのかもしれない。実際のところ、私は余生を一コマずつ塗りつぶしていくような気分で毎日を過ごしている。
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いや、私の毎日を客観的に見れば、それは「余生」と呼ぶにはあまりにも豊かな色に満ちたものだということは分かっている。
平日は変わらずにハードに仕事をしている。この頃は雪国に出張することが続き、毎週のように新幹線で飛び回っている。秘密裏に転職活動もしている。時には仕事の合間をぬって終業後に面接を受けに行ったりもする。たぶん充実している。
週末には相変わらずの旧い友人と会ったり、一人で落語や映画を見に出かけたりする。ハンモックに宙づりになるシュールなヨガ教室に行ったりもする。村上春樹の新刊小説を読まなくてはいけないし、小沢健二の新譜だって聴かなくては。たぶん充実している。
こうして忙しく日々を過ごしながらも、背後には薄暗い影がさしている。そして感じる。「これは余生なのだ」と。
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私が思う「余生」と「余生でない」の違いの一つは、どれだけ遠くの日を直視できるかというところにある。
「余生でない」日々を生きているときは、とても遠くのことを直視して思い描くことができる。10年先、20年先を楽しみにすることができる。結婚したばかりの頃の私は家族をもって長い時を過ごしていくことを本当に楽しみにしていた。あるいは、就職したばかりの頃の私は上司や先輩の姿を見ながら自分がどのようにキャリアを重ねていくかを期待に満ちて考えることができた。
「余生」を生きていると感じるようになってから、希望をもって遠くを見ることがとても難しくなった。1ヶ月先、2ヶ月先のことは楽しみにすることができる。しかし10年先、20年先のことを思う時、私は薄闇の中で立ちすくむことになる。子どもを産むことはできないのだろうか。誰かと暮らすことはもう二度とできないのだろうか。どうやって年齢を重ねていくのだろうか。苦しくなってぶんぶんと頭を振って考えを追い払う。そして遠くを直視しないように、ただ近くにあるきらきらしたものだけを見て、日々をやり過ごす。
こんな風に例えてみても良いかもしれない。
「余生でない」日々は旅行の道中のようだ。
「ねえねえ、途中の駅で駅弁買おうよ」
「風景が東京とは違ってきたね」
道中には楽しいことがいっぱいあって、そしてこれからたどり着く目的地のことを思って心が躍る。
「着いたらまず温泉に入ろうね。お土産は何にしようか」
楽しみがまだまだ遠くに待っている。
「余生」の日々は近所をあてもなく散歩しているようだ。
「ああ、菜の花が咲き始めたね」
「少し本屋に寄ろうかな」
ぶらぶら散歩するのは楽しいけれど、やがて夕方になると思うのだ。
「そろそろ家に帰らないと」
特に目的地などないのだ。楽しみは短い時間でぷっつりと途切れる。
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どうにかして、もう一度どこかへ旅行に出発するためのチケットを手に入れたい。どうすればいいのかはよく分からない。いまはゆっくりと散歩を楽しみながら、時間が解決してくれるのを待つしかないのかもしれない。
もう少しだけ元気をだすことができたなら、以前よりももっともっと遠く、魅力的な旅先を見つけたい。そしてもう一度力強く旅を始めたい。
旅に出たいという気持ちが失われない限りはきっとサバイブできるはずだと自分に言い聞かせている。