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祈りのテロリズム――『猫に時間の流れる』をめぐって

※これは、批評再生塾の課題として2019年に書かれた文章を再掲したものです。

 結論を言います。

 保坂和志とはテロリストである、と。

 もちろんこの2つの言葉は、その小説の表層を読むだけではつながりを持てません。それどころか、保坂和志と共に1990年代を代表する作家の1人である阿部和重が露骨にテロを取り扱ったのに比べれば、保坂はむしろそうした暴力的な表現からは程遠く、対極にいる作家であると認識されることが多いのではないでしょうか。
 というのも保坂の作品においてはそもそも――しばしばそれが非難の対象になるように――物語らしい物語が起きないのです。では、そのような静謐な作家がなぜテロリストになり得るのでしょうか?
本稿を読み進めるにあたっては、この疑問を頭の片隅に置いてくれれば良いと思います。では早速、「テロ文学としての保坂和志」を紐解いていくことにしましょう。

1、

最初から「保坂和志とはテロリストである」、という大風呂敷を広げてしまったわけですが、ここでは彼の全作品に言及することは出来ません。そこで本稿では彼が1994年に書いた『猫に時間の流れる』を批評対象にしようと思います。というのもこの作品は保坂の初期の作品の中でも特に猫に焦点が当たった作品で、猫をしばしばその作品に描く保坂作品にとって典型的な小説になっていると思うからです。
この作品では、(保坂自身と思しき)主人公とその隣人たち、そして彼らの飼い猫が織りなす日常が描かれています。全体的に私小説の様相を帯びているのですが、あくまでも保坂と主人公は一致しません。物語自体は、そうした日常生活にクロシロという野良猫が侵入することから始まります。
保坂の文章の特徴は、一文が非常に長いことです。読点で文章が引き伸ばされ、延々と主人公の思考が述べられます。それは物事をじっと観察するプロセスから生まれる文章なのですが、保坂自身の言葉によれば、そうした観察によって小説は「能産性」を帯びるのだといいます。

 「産む=能う」=「(イメージ・情景・出来事……etcを)産出する能力」というのはじつに小説にふさわしい。
 能産性がない限り小説では「東京」という言葉を書いても硬直するだけだが、能産性を持っていれば小説で「東京」と書かれたらその東京は現実の東京と同一である保証はなくなる。(中略)能産性があればいずれその東京の方が現実の東京に関するイメージや常識を書き換えるだろう。事実、世界に関するイメージや常識はそのようにして小説に書かれた、能産性ある言葉によって出来上がっているのではないか。

(保坂和志『小説の自由』、2010年、中央公論新社、13頁)

保坂の文体は、世界をじっくりと観察し、記述することによって、世界に対する新しいイメージを作り出します。まるで、世界を覆うあらゆるヴェールを1枚ずつはがしていくかのように。私たちが知っている世界は、保坂の文章によって、私たちが知っている世界ではなくなっていくのです。

では、保坂和志の小説はどのようにしてテロ的であるのでしょうか。そのことを考える前に、まずはテロという言葉について再考しなければなりません。テロとは何でしょうか。
それは自明である世界の境界が崩されていくプロセスのことです。
ここで私は鈴村和成が『テロの文学史』で用いた「テロのスパイラル」という概念を取り上げてみたいと思います。鈴村はフランスの小説家ミシェル・ウェルベックの『プラットフォーム』という小説を取り上げながら、この概念について次のように語ります。

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