日本テーマパーク史研究ノート7〜富士ガリバー王国について7:原武史『地形の思想史』を読む2&「テーマパーク」の「テーマ」とはなにか
はじめに(この記事を書こうと思った理由が書いてあるよ!読みたくなければ飛ばしてね!!)
日本にはかつて数多くのテーマパークがあった。
それらはバブル期を中心として全国に作られたが、多くはバブル崩壊といった経済的な危機や他の娯楽に押され、閉園に追い込まれる。一方で一部のパークは現在でも営業を続け、日本における代表的な観光地として知られている場所もある。
その数の多さにも関わらず、日本においてこれらのテーマパークを「1つの文化」として包括的かつ通史的に扱った言葉は、今のところ、まだ、ない。
このNoteでは日本のテーマパーク史について、研究ノートのように書く。あらかじめ断っておくと、筆者は専門でテーマパーク史を研究しているわけではない。いくつかのサイトで記事を書くライターでしかない。
ただ、ライターとしてデイリーポータルZやLOCUST+などで書く機会があり、今後そうした媒体でテーマパークについて書くと思うから、そのための研究ノートだ。取材ノートでもいい。したがって小さな事実誤認や、思い違い、調査不足などは多めに見て欲しい(というよりそもそも、日本のテーマパーク、特に閉園してしまったテーマパークについては資料そのものが残っていないことも多いのだが)。ここに書き記すのはあくまでも調査の過程だと思って欲しい。もちろん修正点が見て使った場合は適宜修正していくが、それも含めて一つの調査の過程だと思って欲しい。
タイトルは「日本テーマパーク史」。ちょっと範囲が大きすぎるのではないかとも思ったが、とりあえず全体のテーマはこうした。大きく構えていても、一つのテーマパークについて、少しずつ回数を分けて書いていくことになる。いきなり日本のテーマパークについてその見取り図を書くことなどできないし、そもそも「テーマパークとはなにか」という定義さえ、私の中でも決まっていない。
おそらく、少しずつ個別のテーマパークについて書きながら、徐々にその全貌が見えてくるのだと思う。
したがって、その調査の過程を楽しんでくれれば、と思う。
幻の富士ガリバー王国を求めて7
さて、3日ぶりの更新である。
富士ガリバー王国について考えている。
前回は原武史『地形の思想史』を紐解きながら「富士山麓」という磁場について考えてみた。今回はその続きである。
富士山麓には宗教施設が多い。麻原彰晃・オウム真理教のサティアンしかり、白光真宏会しかり、である。しかしこの2つの宗教施設にとっての富士山観は驚くほど違う。
五井昌久の富士山観〜イメージとしての富士
麻原彰晃にとって、富士山とは1つの機能ーー世界最終戦争が発生したときに逃げ込むというシェルターーーに過ぎないことは前回述べた通りである。
では、また異なる宗教施設である白光真宏会にとって富士山とはどのような物だろうか。
これが、麻原とは真逆なのである。
白光真宏会の創始者である五井昌久は富士山を崇拝していた。
▲五井昌久(出典:https://byakko.or.jp/founder/goi/)
原は五井が書いた詩を引きながら、彼の富士山への信仰を語る。
富士山 神富士
富士山こそ世界平和の中心のひびきを
ひびきわたらせている霊山
私たちの平和の祈りは
富士山の大調和したひびきを背後に
地球世界の平和をつくり出そうと
一歩二歩と歩を進めているのである
(五井昌久「富士山」)
さらに五井のこの富士山信仰はその後、五井の跡を継いで同教団の理事長に就任した瀬木庸介によって教義へと置き換えられる。
白光真宏会にとっては富士山というのが他には代替不可能な、一つの重要な意味として存在していたのである。実際に白光真宏会にとって富士山は「富士聖地」となり教義上、きわめて重要な意味を持っている。
サティアンが富士山の近くにありながらそれを見ないで済むように密閉された室内で活動していたのに対して、白光真宏会の本部には大きな野外会場があり、両者の富士山に対する姿勢は建築にも顕著に現れている。
▲白光真宏会の富士聖地にある「祈りの丘」。
富士山の眺望が良い(出典:https://byakko.or.jp/fuji/7stations_prayer_hill/)
意味として富士山を用いる白光真宏会と、機能として富士山を用いるオウム真理教。
もちろんこの区分けは非常に雑な区分けかもしれないが、富士山麓に集まる施設を考えるにあたって、つまり富士山に対する姿勢の類型として特筆すべきものではないだろうか。
富士ガリバー王国にとって富士山とはなんなのか、あるいは「テーマパーク」の「テーマ」とは何か
さて、問題はここからである。現在、2つの宗教施設と富士山の関係性を通して富士山に対するある施設の姿勢について見てきた。
では、富士ガリバー王国にとっての富士山とは一体なんなのだろうか。
果たしてそこでは富士山という存在はいかなる意味を果たしていたのだろうか。
ここで富士ガリバー王国のテーマを確認してみよう。
私はこの「日本テーマパーク史研究ノート」を始める前から、テーマパークにとって「テーマ」という目に見えない概念は非常に大事なのではないかと考えてきた。テーマパークとは目に見えない「テーマ」という概念を具現化するプロセスのことであり、その具現化の際には、それを建設する土地の性質や周辺住民からの反応、あるいは法律、そして財政的な問題など様々な外的要因が合わさってその「テーマ」が変化してそこに現出する。そのプロセスを「テーマパーク」と呼びたいのだ。
これを、富士ガリバー王国に当てはめてみると、富士ガリバー王国にもなんらかの「テーマ」がある。そしてその「テーマ」を具現化するときに富士ガリバー王国において最も大きな外的要因が、その背後に控える「富士山」なのではないか、と思うのだ。
だから富士ガリバー王国におけるテーマと「富士山」を合わせて考えなければ富士ガリバー王国についてはその詳細が見えてこないのではないかと思っている(まだ、思っているだけだから考えはまとまりきっていないのだけれども)。
では、富士ガリバー王国における「テーマ」とは一体なんなのか?
それは、また次回、話すことにしよう。