『恐怖分子』 ー残酷な聖域の開拓
あらゆる人間がそれぞれの事情をもって交錯し、それらによって混沌と化したある一つの都市を、エドワード・ヤンはいとも簡単に、”聖域”としてみせる。パトカーのサイレンが鳴り響く大通りの光景が、異様なまでの不穏さをもって捉えられているのもそのためだ。この映画の舞台となっている台北は、色彩と照明と時間においてエドワード・ヤンの手中にあるのである。
しかしながら彼が対峙しようとする主題は、秩序から程遠い、混沌を絵に描いたような時空間である。侯孝賢なら山間の田舎町を舞台に、密接な関係にある幾人かの人物を主題とすることで、時間的及び空間的な”聖域”を獲得したことだろう。しかし『恐怖分子』におけるエドワード・ヤンはそれとは逆に騒々しい都市部の、何ら関係のない5、6人を主人公とする主題を描こうとする。そしてそれらは、『牯嶺街少年殺人事件』の小明が、映画が先に進んでいくにつれて「映画女優の演じるヒロイン」に変貌していったように、時間が進むにつれて”聖域”と化していくのである。
エドワード・ヤンはこの台北という複雑な都市を手中に収むるべく、色彩をコントロールし、レンズに気を遣う。病院の研究室の緑、男が自らの昇進を期待して見つめる会議室の黄色、夜中に”Smoke gets in your eyes”が流れる寝室の青、若者たちが集まるディスコの赤。この映画の色彩は、ミュージカル映画の、あるいは後期のゴダール映画のそれのように氾濫している。
また、カメラマン志望のボンクラ青年に体を許した朝、何も告げずにバイクで去っていく少女を捉えたショットの艶かしさはどうだろう。望遠で捉えられたバイクの姿は、どこまでも遠くに去って行き、もう二度と会えないという残酷さを一瞬露わにする。この映画の空間は、50年代のハリウッドカラーのように理想主義的であり、60年代のイタリアメロドラマのような麗しい叙情性をも孕んでいるのだ。
そして時間においてもまた、楊徳昌という本名を持つこの台湾の天才的な作家は巧妙な手段を用いて自らの支配下に置こうとする。現実において、特に台北のような都市化された現実において、出来事と出来事の間に因果関係は少ない。それらの間に因果関係のある出来事群のことを人は”物語”と呼ぶ。この映画におけるいくつもの出来事は、多くの無関係同士の人間が交錯する台北を舞台としながら、”物語”なのである。関係あるはずのない複数の事件が因果関係によって結ばれていき、”現実”が”物語”へと変わっていく様に、我々は『ダンサー・イン・ザ・ダーク』さながらの”映画”を感受する。しかもこの作品は、一般的なそれよりも格段に登場人物の数が多く、出来事同士の無関係さが大きい分、因果関係が形作られたときの感動もより大きいものとなる。エドワード・ヤンはこうして、時間をも手中に収めたのである。
空間を、そして時間を自由に操る権力とは、映画監督における才能と同義語だ。しかしエドワード・ヤンにおいてそれは、当たり前の権力でしかない。なぜなら彼にはこの映画を、ほとんど完璧なミステリーのそれと同じ水準の驚きをもったエンディングで終わらせることができるだけの体力が残っていたし、5年後に作り上げた一つの伝説的な作品によって、『恐怖分子』が彼にとってウォームアップのようなものに過ぎなかったことを証明してしまったからである。それでもヤンには、現実というものの不動性への敗北感がある。この映画で直接語られることはないが、フィルムに真摯に耳を傾ければきっと聞こえてくるはずだ。「私を変える気?この世界と同じ、何も変わらないの。」と。
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