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【映画論】 劇場性理論

古代ギリシア人は、神々の物語を欲した。オリュンポスの神々の物語を、そしてその息子たちの物語を...
紀元前6世紀末から発展してきたギリシア演劇は、ソフォクレスやアイスキュロスの、それが2000年以上も前の劇作であるとはにわかに信じがたい傑作を次々と自らのものにしていったが、そこで上演されたもののほとんどが神々の物語 —つまり、ギリシア神話として人々に伝承されてきた物語の翻案なのである。直接的に神々のあれこれが描かれないとしても、それはオイディプスであったりアガメムノンであったりといったギリシア神話に登場する人間の英雄たちの物語である。古代ギリシア演劇の作家たちは、神々や英雄たち、あるいは戦争を描かずにはいられなかったのである。例えば、現代の作家たちをも嫉妬させてやまない、ソフォクレスの『オイディプス王』という傑作について言えば、主人公のオイディプスはギリシア神話の著名な英雄であり、彼を取り巻く全ての登場人物はデルフォイの神託によって自らと祖国の未来を占い、それを信じきっている。そしてその占いの結果によって、先王が自らの子を山間に捨てたり、オイディプス自身が王の息子といった名高い地位を放棄して放浪の旅に出たりする。古代ギリシアの民衆たちはこういった神話の英雄とその運命を司る神々との物語に、途方もなく熱狂したのである。
ヘレニズム期に入り、ギリシア演劇が「新喜劇」と呼ばれる一般庶民の物語を描くようになって、「神話の時代」は終わる。それではどうして、古代ギリシア人は神々の物語を欲したのだろうか。

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ジョン・フォードとギリシア悲劇

古代ギリシア人が他の時代の、他の地域の人間と異なる感性を持っていたとするなら話は簡単だ。古代ギリシア人だけは他の民族と違って特別な才能を持っていた、と結論付ければ議論は終わるからだ。しかし事態はそう単純ではないだろう。私はここで、一体どうして古のアッティカ地方の人々が神話を求めたのかという疑問について、1つの推測に過ぎないものしか提示することができない。だがそうだとしても古代人の感性という、状況証拠を介して記述するのが不可能であるに違いないこの主題に関しては、それが反論の余地のない推測である限り、私なりの仮説を提示することは、十分な学問的回答に足るはずだ。古代ギリシア人も人間であって、私たちと同じ感性を持っていると信じる時、私は —映画を好む1人の者として—   ジョン・フォードの名前を思い出さずにはいられない。尤も決してジョン・フォードの名前のみが特権的にここで浮上してくるわけではなく、それはハワード・ホークスでもいいし、ジャン・ルノワールでもいいし、溝口健二でもいいだろう。ただ私には、古代ギリシア悲劇を見るとジョン・フォードが想起されるというだけのことである。ジョン・フォードの映画について作家論をここで書き綴る余裕はないし、今回の目的もそれではない。フォードとギリシア悲劇との間にある類似性を指摘したいだけである。フォードの目が捉える世界とギリシア悲劇の描く神話の世界とがいかに似た構造を持っているかを証明したいだけである。
 フォードは決して、観客に寄り添おうとはしない。現代の映画の観客が求め、作家たちもそれに応じるように作り続ける、現代の「観客に寄り添う」映画では決してないのだ。フォードは観客に、共感を求めようとはしないし、問題提起もしない。まるでフォードの映画は、観客の前に立ちはだかる大きな動く壁画のようだ。映画はただ観客たちを見下ろし、観客は唖然としながら画面を見つめるしかない。フォードにとって観客は、『駅馬車』のルーク・プラマーのように決闘を申し込む相手であり、観客にとってフォードの映画は、「向かい立つ存在」なのである。

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(ジョン・フォード『アパッチ砦』,1948)

動く壁画であるフォードの映画には何が描かれているか。それは神々に他ならない。もちろんフォードはギリシア悲劇のように神話の英雄たちや神々を物語の中に登場させることはしていない。しかしフォードの登場人物たちは、まるでギリシア悲劇の登場人物のように堂々と、大胆な繊細さで振る舞い、劇的な物語の中に生きている。『捜索者』のジョン・ウェインの魅力的な尊大さはまさにオイディプス王のようだし、『周遊する蒸気船』のウィル・ロジャースはゼウスのような滑稽さと寛容さを併せ持っている。また『リオグランデの砦』のモーリーン・オハラの威厳はイオカステに似ている。フォードの映画とは、神話的な映画なのである。神話を題材にしたギリシア演劇と神話的な映画であるフォードとの類似点はここにある。2者が語る物語とは他ならぬ神々の物語である。それならなぜ古代ギリシア人とジョン・フォードは「神々の物語」にこだわるのか、この問題に回答するためにはまず、「神々の物語」が見るものに与える効果とは何か、という問いに答えなければならない。それは「この物語は、私たち観客とは違う世界のものである」という感覚だ。


 劇場性

重要なのは、物語が観客とは違う世界のものである、という点だ。フォードの映画と、その他の映画黄金期の映画を神話的な領域までに高めているのは、このこと以外にないのである。私は上で、ギリシア悲劇やフォードの映画を、「観客に向かい立つもの」と言った。そしてそれらと比較して、現代の映画を「観客に寄り添うもの」と形容した。観客に対して向かい合っている物語と、観客と同じ方向を見ている物語というこの2つの構図の感覚は非常に重要である。現代の映画が失ったこの「観客と向かい合っている」という感覚こそが、芸術に劇的な要素を与えるからである。そして私は、ギリシア悲劇とフォード映画に通底するこの感覚、作品と観客とが向かい合っているような感覚のことを、「劇場性」と名付けたい。劇場性は、事物を劇的にせしめ、物事を芸術の領域にまで高める。事物を劇的にして芸術的領域まで高めるということは、環境を「観客」と「作品」とに分断するということである。劇場性において、「作品」は「観客」を迎合しないばかりか拒絶しさえする。そうすることで、つまり「作品」の世界が「観客」の世界と全く異質なものとして存在することで、「作品」は神話的な様相を帯びることができ、それはギリシア悲劇のように劇的で滑稽でかつ感動的なものとなるのである。フォードの映画がギリシア悲劇と似た感覚を観客に与えるのもこのためだ。

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(G・W・パブスト『パンドラの箱』,1929)


思えば私たちがサイレント映画の傑作を見る時、その「遠さ」に感動するのは、今日よりもカメラの性能が悪く被写体がよく見えないことや、音がないことが原因なのではなく、それらの世界が私たちとは明確に異なるところにあるからである。例えばパブストの『パンドラの箱』におけるルイーズ・ブルックスのクロースアップやグリフィスの『散り行く花』のリリアン・ギッシュのクロースアップが、その対象へのカメラの近さとは反対に、私たちから途方もなく遠く見えるのは時代の乖離によるものでも、技術の不備によるものでもなく、劇場性によるものなのである。だから、サイレント映画と同じだけの「遠さ」を、近年の映画、例を挙げるならゴダールの『マリア』におけるミリアム・ルーセルやコスタの『溶岩の家』におけるイネス・デ・メディロスのクロースアップに見出すことができるのである。
劇場性を持って初めて「作品」は「芸術」と言えるようになるのだと私は言いたい。すなわち観客に寄り添うような、神話性から離れた作品を私は芸術とは呼びたくない。観客の世界から離れることを恐れ、彼らを迎合することしか考えていないような作品には、「芸術作品」という名は相応しくなく、「馴れ合い作品」くらいの呼称がちょうどいいだろう。第1にそれらは、観客と馴れ合いをしているのだ。劇場性を持った作品は、その環境 —見るものと見られるものとがいるその場のこと—  を2つに断絶し、秩序立てる(この「秩序」という概念こそ芸術的本質であるが、そのことについては別の論文で語ることにする)。作品と観賞者とが、互いに見つめ合う環境を作り出すのである。それに対し劇場性の薄い「馴れ合いの作品」は、作品と観賞者との境界が曖昧である。その環境に秩序はなく、混沌としていて私たちが生きる現実と大差ない世界である。芸術の愛好者が求めるのはこの混沌とした世界ではない。彼らが求めるのは現実とは異なる、全てが秩序と調和と合理性の下にある神話的な世界だ。

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(ペドロ・コスタ『溶岩の家』,1994)

 劇的存在者

現実から遠く離れた世界についての議論を、もう少し私たちの身近なところで行おうではないか。劇場性という概念について、また劇場性という概念の魅力について、理解が得られないのは仕方のないことだと思う。なぜなら神話は現実的でなく、大袈裟で荒唐無稽でご都合主義的でバカバカしいものであるからだ。神話から離れ、私たちが今生きている「現実」に近い世界の物語を、人が好むのも無理はない。だからこそ私はここで「神話」の復権を試みたいのであるし、人に、ジョン・フォードや古代ギリシアの劇作家たちがなぜ「神話」を繰り返し物語ったのか説明しなければならない。そのためにはこの議論をもう少し私たちの身近なところで行わなければならないのである。人間が他者と関係する時、その関係の仕方は大きく分けて3つある。1つは「私」と他者とが互いを認知せず見向きもしない状態であり「無関係」である。2つ目は「私」とある他者が互いをまるで自分のことのように考えている、家族や恋人同士のような状態である。それを私は「共感関係」と呼んでいる。そして3つ目は、「無関係」と「共感関係」の中間、あるいは「無関係」から「共感関係」へと至るまでの過程の関係である。これはとある「私」がとある他者を、全くの赤の他人から家族や恋人のような存在にまで変化させる過程であり、「私」を取り巻く世界に大きな摩擦を与える。「無関係」が「共感関係」へと変貌する過程の関係、このことを「対面関係」と呼びたい。この関係を「対面」としたのは、レヴィナスの文章からの引用である。

「ハイデッガーにおける間主観性は、<自我>および<他人>に先行する一個のわれわれ、中立的間主観性としての共実存にすぎない。これに対して対面は社会性を告知すると同時に、分離された<自我>の維持をも可能にする。」レヴィナス『全体性と無限』

ハイデッガーの他者との関係に関する哲学における他者とは私たちのうちの一つに過ぎず、それは他者とは言えない。「私」と対面する他者について考えることで初めて、社会性を獲得することができると同時に「私」というものをも認識することができるのだ、とレヴィナスはハイデッガーを批判する。
関係についてサン=テグジュペリは「愛するとは見つめ合うことではなく同じ方向を見ることだ」と言ったが、「愛する関係」が共感関係でありそれが複数人で同じ方向を見ることだとするなら、対面関係は文字通り「見つめ合うこと」になるだろう。この事実からレヴィナスの関係感覚の決定的な正しさが明らかになる。他者同士が見つめ合うことによって無関係から共感関係へと変化していく。そこに大きな摩擦が生じるのは免れず、当事者にとっては世界が変容するほどの出来事になる。つまり対面関係とは、ある1つの世界観を変貌せしめてしまうほど挑発的で官能的な、最も劇的な関係の一種なのである。「見つめ合うこと」が、最も劇的な行動の一種なら、劇場性が、言い換えれば観客と作品とが向かい合っている状態が最も劇的な環境を作り出すという先の仮説も合点がいくだろう。劇場性とは観客と作品という他者同士の関係における対面関係の発露に他ならないのである。

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(ジョン・フォード『静かなる男』,1952)

しかし、作品というのは総じてそれよりも小さな個体の集合体かつ溶解体であって、その作品そのものを一つの事物として評価することはほとんど不可能であると言っていい。私たちは大体、作品の個々の細部を認識し感応するものであり、その結果の総合得点のようなものが作品の評価といったものだ。もちろん私たちは1枚の絵を見て、その細部も見ずに感動してしまうことがあるが、それは一つには「全体」という細部を見ていると言うこともできるし、あるいはその作品に現前している光や事物という諸細部に感動していると言うことができる。だから、作品について私たちが語るとき、私たちは諸細部についても語ることができる。作品を構成する諸細部と観客との関係は、作品と観客との関係に等しい。しかしその中でも、人間という細部については、別段に注釈をつける必要があるだろう。
これは私がかつての小論文、『寓話的空間論』の冒頭で論じたことであるのだが、映画や写真、小説などの、人間を扱った芸術において、その中に登場する人間のうち最も魅力的な人間とは「主観的存在者」である。主観的存在者とは「世界を自らの眼のみをもって認識している存在者」であり、つまり世界と対峙するにあたって客観的な視点を持たずに行動を起こす存在者のことである。「主観的存在者」は「主観的感情」の赴くままに行動を起こし、他者の視線を認識することを拒絶する。それはまるで子供のような行動の様式であり、それを捉えることは途方もなく美しい芸術の結果となり得る。主観的存在者は美しい。これが私の先行論文における結論である。だが事態はそう単純ではなかった。主観的存在者よりも美しい存在者、 —あるいはそのような言い方ではなく主観的存在者の存在性をさらに洗練させたような、言わば主観的存在者が進化したような存在者と言った方がいいだろうか— が世界には存在しているのである。
世界には、人と向かい合って立つためだけに生まれ落ちたかのように思える人間が確かに存在する。他者と劇場性を結ぶために誕生したような存在者、まさに生まれつき芸術の傑作のような人間がいるのである。例えば松本人志。彼がテレビのその画面に映る時のその官能性や緊張感は、松本人志という人間の劇場的な存在性を簡潔に示している。また彼が —お笑い芸人として— 作品を提示する時、彼は自らの存在性を神々や英雄と等しくする。彼の体内から発せられるあらゆる才能とその表象は、見る者を寄せ付けず私たちにただ呆然と立ち尽くすことを強要する。彼が発声する一つ一つの単語がどれもこれも私たちの予想の選択肢の中には無い未知の回答に他ならないからである。松本人志の思考と発想は、そのまま神話的な様相を帯びているのだ。また彼のその表現も同時に劇場的だ。松本はとあるテレビ番組で、信号が黄色の時に彼が運転する車で交差点を通過した際に違反切符を切られたことに対して、「黄色が止まれなんやったら黄色の前にもう一つ色いるやろ!ほなピンクかなんか作れ!」と言ったが、このフリートークにおける松本人志の姿は、思考、表現、表象のどれもが劇場的であった。松本は自らの感性や発想を観客と共有しようとなど考えてはいない。彼は彼自身としてその場に生きようとする。また見る者も松本に共感しようとはしない。それでも私たちは松本人志で笑う。その様はまさにギリシア悲劇やフォードの映画に対する観客たちの態度に似ている。松本人志は劇場的な存在者であって、主観的存在者である。私はこの、主観的存在者のさらに上を行く存在者を、「劇的存在者」と名付けたい。私たちはテレビ番組において、凡庸なタレントや芸人に対する仕方とは別の仕方で、松本人志に接する。松本とテレビの画面を介して向かい合うという仕方である。だから松本の狂信的ファンが松本の自宅に押しかけて、「私のことテレビでいつも見てますよね」と迫ったという恐ろしい逸話にも辻褄が合う。思うに少なくとも日本のタレントの歴史の中で、松本ほどの劇場性を持ち劇的存在者たり得た人間はビートたけしを除いてほとんど存在しないはずだ。ビートたけしの劇場性はここで論じずとも理解できるように思う。彼の出演する彼自身の映画を見れば、ビートたけしという1つの存在者の劇場性が手に取るように分かるからである。第1に彼は、『その男、凶暴につき』を撮って映画作家として名を挙げる以前にも、多くの映画作品に出演していて、その作品の出来の良し悪しに関わらず彼自身の存在的劇場性を画面に惜しげもなく定着させているのだ。

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 劇薬という名の薬

改めて「劇」という言葉の意味を考えてみたい。日本語において「劇」という1文字が表す意味は多様だ。まず単純に芝居の意味がある。演じるということだ。そして次にそれが転じて、ドラマチックな、という意味が追加される。芝居のようにドラマチックな様を、この論文で数え切れないほど用いてきた「劇的」という言葉で形容する。さらにはそこから、激しい、という意味が加算された。「劇烈」や「劇甚」、さらには「劇薬」というふうに。
英語では strong poison とされる、服薬者に死をもたらす薬のことを日本語で「劇薬」と言う事実は象徴的である。つまり、日本語において「劇」という語には「激しく強く、対象に甚大な影響を与える」という意味があって、それは結果の良し悪しは関係がない。「劇」とは、人間が手に負えないほど強く、良い方にも悪い方にも転じるということなのだ。だから私たちは「劇場性」という概念を弄んでただ喜んでいるだけではいられないのである。劇場性は確かに物を美しくする効果を持つ。しかし同時にある事柄を誤った方向に導きもするのである。それはどんな風にか。劇場性とは、場を2つの集合に断絶しその環境を秩序立てる性質であった。しかしだからこそ、その環境は作家の恣意のあらわれに他ならず、非現実的で荒唐無稽でもある。これは芸術以外の分野で使用されればあまりにも危険な概念だ。なぜならこのことによって、本来なら虚構に他ならない二分法が、何者かによってあたかも真実であるかのように語られてしまうかもしれないからである。それが芸術とは違う分野の、「真実の分野」で用いられた場合、それは虚構をもって真実を語るという自家中毒に陥ってしまう。この危険性の具体的な在り方については次の論文、『断絶への思考』で考えることにする。しかしここでも、劇場性が持つある種の危険を私は強調しておきたい。劇場性とは、再構成されたもう一つの現実に他ならず、あまりにも恣意的で非現実的な概念である。だからこそ芸術においてのみこの劇場性は称賛されるのであり、現実における問題にこの劇場性を導入した瞬間に、その議論は虚構に変貌するのである。
それでもあえて私は言いたい。映画は「劇」でなくてはならない。どんなに美しい映像も、どんなに素晴らしい演技も、それが「劇」の上に成り立っていなければ全くもって無意味なのである。

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(侯孝賢『悲情城市』,1989、同監督の最高傑作である『悲情城市』は、まさに「劇場性」にあふれた映画である。)

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