【時評】「映画の呼吸」によって作られた映画 ー『ジオラマボーイ・パノラマガール』
人間
この映画における山田杏奈=渋谷ハルコが、近年で最も映画的な人間であることは間違いない。それは彼女が世界を自分の眼でしか見ていないこと、客観的に自らを見つめる視点というものを、すっかり欠いてしまっていることに由来している。渋谷ハルコにあるのは全く主観のみであり、妹と母親に頼まれたお使いの品をほとんど一目惚れをした相手=神奈川ケンイチに渡してしまって、そのことをお使いの依頼主に咎められても一切意に介さなかったように、どんな状況においてもその固有のパーソナリティーを変化させることがない。彼女は絶対的に主観的存在者であり、ただ存在しているだけで人の心を動かしてしまう劇的な存在者に他ならないのである。しかし彼女が極めて映画的な登場人物であるということは、この映画においては必然的なことである。なぜならこの映画は元来極めて映画的な世界観によって形成されており、この世界の住人なら誰でも映画的な人間たらざるを得ないからだ。そのことは冒頭で寝坊したハルコとその家族達が織りなす『気狂いピエロ』的な身振りや、ケンイチとその姉・サカエによる小津のパロディを含んだ魅力的な会話によって証明される。現実ではあり得ないような魅力的な仕方で振る舞うこの映画の登場人物達は、同時に自分は普通の人間であるかのように装っている。しかし彼らは普通であるにはあまりに魅力的すぎる。それはちょうど井口奈己監督作品における人間と同様であり、瀬田なつきという映画作家が井口奈己と同じで「魅力的な世界」を創造することのできる稀有な作家であることを意味する。この魅力的で「映画的」な世界において、だからハルコがケンイチの家の周りを観察していた際に、彼女を変質者と空目したサカエによってバケツ一杯の水を浴びせられるのも、決して大袈裟なことではないのである。
ショット
人間が登場しない段階から、この映画の世界はあくまで「映画的」であった。山田杏奈のナレーションをバックにした、様々な東京の景観を捉えたパンショットの連なりが既に「映画的」に他ならない環境を描き得ていたからである。
黒沢清は『CURE』を撮り終えたあとに、こんなことを言っている。
カメラで形容詞を撮るのは難しい。例えば海に行ったとする。広い海に感動したとする。それをビデオで撮ったとする。ところが家でビデオを再生してみると、確かに海は映っているが「広い」はどこにも映っていない。だからいくら画面を見つめても、ひとつも感動しない。(中略)映画作りとはこれとの戦いになる。どうやれば形容詞が撮れるのか。(『東京新聞』1999年9月7日)
瀬田なつきが捉えた東京は明らかに形容詞を撮り得ていた。それがなんという形容詞かは分からないが、しかし確実にカメラが映す物理的なもの以上の何かを、この冒頭数ショットは捉えているのである。ただシーンを唐突ではなく緩やかに始めるための単なるピローショットとしてではなく、明らかに映画的なショットとしてそれらのショットはこの映画の始まりに存在している。そしてその「映画的」なショットの連なりはとどまることを知らずに映画のエンディングまで続いていくのだが、そこで生じる疑問は、なぜこの映画のショットは、決して全てが完璧なカメラ位置から撮影された審美的なショットであるとは言えないのにも拘らず、あらゆるショットが「これしかない」という完璧なショットとして存在しているように見えるのかということである。この映画は小津安二郎や後期のマノエル・ド・オリヴェイラ、侯孝賢の映画のように、美しい撮影によって彩られた審美的なショットに溢れているわけではない。確かに渋谷のライブ会場でケンイチとマユミとのキスを目撃してしまった際のハルコの横顔のクロースアップや、「秘密基地」と称した建築中の高層マンションの廊下にたたずむハルコのロングショットはいくらか審美的なものと言えるかもしれないが、それもこの映画においてはごくわずかである。ではなぜ『ジオラマボーイ・パノラマガール』は、これほどまでに「映画的」なのだろうか。
リズム
瀬田なつきの映画は「リズム」によって作られている。それは「映画の呼吸」とも言い換えられる要素だ。先に挙げたハルコが寝坊して急いで学校へ行く準備をする冒頭のシーンや、ケンイチとサカエの会話は言わずもがな、ハルコが学校の友人たちとミュージカル映画宛らに身体をくるくる回しながら会話したり、日本にあるPARCOを全部HARCOにしたいという野望を行きずりの男に語ったりする様は、論理よりもリズムを先行して発想されたシーンに他ならない。アンナ・カリーナがゴダールの演出について「彼は私たちにリズムを付けたんです。たとえばワンシーン・ワンショットを撮るとき、リズムが必要なんです。」と語ったのと同じように、瀬田なつきは映画の俳優たちにリズムを付けた。この映画は何よりも先に「リズム」が湧き立つ映画なのである。
瀬田なつきの映画にはリズムがある。だからそれは必然的に音楽的なものとなり、同時に鈴木清順の、増村保造の、またヌーヴェルバーグの、そして古典的なあらゆる傑作と同じだけの熱量を帯びることになる。そのとき我々は、「黄金期」と呼ばれる時代に作られた傑作映画が、決まって音楽的な映画であったことを思い出す。それらの映画は人間とショットとのリズムによって動きがつけられており、人を本能的な水準で感動させてやまなかった。だから黒澤明が北野武との対談で語った「映画にはリズムがある。」という言葉は決定的な発言であるし、『勝手にしやがれ』の編集技師として名高いアニエス・ギュモが「ゴダールは映画の呼吸を知っている」と言ったのも極めて示唆的なのである。
ゴダールはつなぎ間違いの名人じゃありません。映画を正しく呼吸させる名人なのです。(中略)編集は偶然を運命の必然へと変貌させる。(アニエス・ギュモ『カイエ・デュ・シネマ・ジャポン』1991年7月15日)
「編集は偶然を運命の必然へと変貌させる」、だから厳密な意味では全く無関係に違いないショット群が瀬田なつきの下では「これしかない」必然的なショット群に変貌してしまうのである。
この映画には、近年の日本映画では決して珍しいものではなくなったナレーションの多用がある。たとえば冒頭では「今年の残暑は厳しくなりそうです、とニュースで言ってた。地球は何億回も夏やってるんだろうけど、私にとっては16回目の夏だった。」というナレーションが入るし、ハルコとケンイチが映画の中で初めてすれ違う瞬間にも「僕、神奈川ケンイチと、私、渋谷ハルコが、この一瞬、こんな風にすれ違った。彼は見下ろさなかったし、彼女は見上げることはなかった。」と詩的に語られる。こういった「よくある」ナレーションが、この映画において決してつまらないものには聞こえないのも、それがリズムによって発想された「これしかない」というナレーションとして映画の中に収まっているからだ。
しかしこの映画の持つリズム性が、古典的な映画を想起させそれらと肩を並べるだけのものでは決してないのは、これがあくまで現代的な感覚によって作られており、今日の東京をまじまじと見つめているためである。濱口竜介が『ハッピーアワー』や『寝ても覚めても』で極めて現代的な ー高速道路や高層ビルが立ち並ぶー 環境を映画的な舞台装置へと変貌させたように、瀬田なつきはお台場や豊洲の人工的な光景をあたかも寓話的な世界であるかのように撮り上げてしまっている。それは両作家が横浜市営地下鉄ブルーラインの馬車道駅を最寄りに持つ東京芸術大学映像研究科出身であって、日本の大都会の風景が持つ寓話性に敏感であったからなのかは分からない。しかし一般的に映画的な風土になり得るとは考えづらい人工的な環境を、今後の日本映画界を背負って立つことの間違いないかの二人の映画作家が、むしろより映画的な環境であるというふうに捉えていることだけは確かだ。
ミッション
あらゆる物語は登場人物に課せられたミッションによって推進していく。映画が始まった瞬間から既にあるミッションか、あるいは映画が始まってから登場人物に与えられるミッションを達成するために、主人公らは行動を起こしていく。長編映画においては一つ目のミッションは映画の中盤に達成され、二つ目、三つ目のミッションが新たに課せられていく。そこに一般的に「サブプロット」と呼ばれる副次的なミッションも存在したりする。たとえば黒沢清の『CURE』でいえば、ミッション1は主人公が連続殺人事件の犯人を逮捕することである。中盤で萩原聖人を逮捕した役所広司には、ミッション2が与えられる。萩原聖人は一体何者かということを明らかにすることである。そこからこの映画は典型的な物語映画の枠を逸脱していくために、何がミッションであるかを言語化するのは難しくなっていくのだが、この映画には分かりやすいサブプロットがある。主人公とその妻との関係についてである。夫婦間のすれ違いによって精神を病んだ妻との関係が、主人公の事件への関わり方に大きな影響を与えていくのだ。
では『ジオラマボーイ・パノラマガール』におけるミッションとは何か。まず一つ目のミッションとして、ハルコには神奈川ケンイチという男と再会するという課題が与えられる。そのために彼女は東京第一高校の校門で待ち伏せしたり、ケンイチの家の前でサカエに水を浴びせられるという試練を乗り越えなければならなくなる。またケンイチには、唐突に学校を辞めたあとマユミという女と出会い、彼女を手に入れるというミッションが課せられる。そう考えるとき、この映画において本当の主人公はハルコであって、ケンイチは準主役であり彼のミッションはサブプロットに過ぎないことが明らかになる。エモーションの持続を支えるのがハルコの挿話であることは間違い無いからだ。この映画は紛れもなくハルコの物語である。ではハルコがケンイチに彼女がいると知り(勘違いではあるが)、ハルコに与えられたあらゆるミッションが崩壊したあと、映画はどのような道筋を辿っていくのか。「人間」の項で述べたように、ハルコは絶対的に主観的な存在者である。他者から自分がどのように見られているかなど、てんで考えないような人間であり、そしてその性質はケンイチと出会うことでより増大していく。彼女はこの世界を主観によってでしか、しかも恋をしたことによって非常にロマンチックな形容詞を持った見方でしか見ることができなくなってしまうのだ。このとき彼女にとって世界は、自分が好きな人と結ばれる世界か結ばれない世界かの二種類しかない。ケンイチが言うように「好きな女の子(男の子)さえいれば、世界がどうなろうと知ったこっちゃない」のである。だから厳密に言えば、渋谷のライブ会場でケンイチに会うために精一杯のお洒落をするのも全く自分のためである。そしてその恋は無残にもやぶれ、港で大の字に寝転んでいたところをカエデに発見される。その鈴木清順的な遊び心溢れるシーンのあと、二人は盗んだ自転車を二人乗りで疾走し警察に捕まる。
終盤、「秘密基地」でハルコの誕生日パーティーをするとき、カエデらはサプライズでケンイチを連れて来る。しかしケンイチはハルコのことを覚えていない。そのときハルコは自らが世界をロマンチックな主観でしか見ていなかったと言うことにようやく気づく。彼女はケンイチが自分のことを好きか好きでないかという尺度でしか捉えておらず、彼が自分のことを覚えていないという可能性などつゆも想定していなかったのである。主観をしか知らなかったハルコは、映画の最後に客観を知りそれを受容していく。そして非常に現実的で非=ロマンチックな形で二人は結ばれるのである。このとき我々は、この映画の本当のミッションは、主観しか知らなかったハルコが他者を知り客観を受容することだったというのにようやく気が付くのである。