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侯孝賢と回転する世界

侯孝賢の初期の傑作において、カメラはほとんど動きません。カメラはそのショットにおける主対象を捉えるにあたって、その事物たちから決まってかなり遠い所に置かれ、主対象がフォーカスの外れた背景から浮き上がるような形で画面に収まっており、カメラがレールの上を前後左右に動くことはほとんどありません。『戀戀風塵』や『悲情城市』におけるカメラの動きといえば、ゆっくりとした上下左右のパンの動きのみです。しかしそんなカメラワークの静性に相反するように、初期の侯孝賢の作品は ーそれが傑作であればあるほどー 大きくかつもの凄い速さで動いているように見えます。この侯孝賢映画における根本的な矛盾は一体何なのでしょうか。芸術には、特に素晴らしい芸術には、こういった矛盾はつきものです。なぜならあらゆる傑作は、大胆さと繊細さ、秩序と混沌、単純さと複雑さ、合理性と不条理性、そして静かさと騒々しさと言った互いに相反する2つの要素を併せ持っているものだからです。侯孝賢の映画が持つ動かない画面と動き回る時間との二律背反は、侯孝賢作品の本質に迫る性質です。なぜ『童年往事』や『戀戀風塵』、『悲情城市』といった作品は、動かないカメラを使って絶え間なく動くような映像を獲得できているのでしょうか。
映画を作る人たちの中には、好んで職業俳優ではない素人の役者を使って映画を作る人たちがいます。ロベール・ブレッソンやペドロ・コスタ、宮崎駿などがその代表的な映画作家といえるでしょう。そしてこの侯孝賢という台湾の映画監督も、素人を好んで使う演出家と言われがちです。それは、『戀戀風塵』や『悲情城市』で主演を務めた他、多くの侯作品に出演している元女優、辛樹芬(シン・シューフェン)が町中で侯孝賢本人にスカウトされたという有名な逸話や、『戀戀風塵』で寡黙な主人公を演じた王晶文が素人であったという事実に端を発した言説でありましょう。確かに侯孝賢は、初期の作品で主役や準主役に素人の役者を使った事実があります。しかしここで侯孝賢とロベール・ブレッソンとを分けるのは、侯孝賢が主役級の登場人物のみに素人を使ったということです。つまり、『戀戀風塵』の主人公であるあの若く美しい男女は確かに素人の役者が演じていましたが、他の脇役はプロの俳優が演じているという事実があるのです。特に初期の侯孝賢作品に多く出演し、どの作品でも素晴らしい存在感を放ってやまないあの老俳優、李天祿(リー・ティエンルー)は、台湾の伝統的な演劇の俳優であったため非常に大袈裟な演技をしてさえいます。この、主役に素人を使い脇役に大袈裟な演技をする俳優を使うという一見倒錯したキャスティング方法にこそ、侯孝賢の映画が持つとてつもない速さの所以があるのです。
『童年往事』の中に、少年時代の主人公が近所の友達と一緒に独楽で遊んでいるシーンがあります。独楽を紐に巻き付けそれを地面に勢いよく叩きつける少年たちの姿が、まるでドキュメンタリー映画のような瑞々しさをもって画面に定着した素晴らしいシーンです。しかしこのシーンは子供たちが無邪気に遊ぶ姿を捉えただけの場面では決してありません。なぜなら侯孝賢の映画はこの独楽のように、絶えず一本の棒を芯に回転し続ける映像の体系に他ならないからです。『戀戀風塵』の田舎町の酒屋で若者たちが別れを惜しむ場面を思い出してみましょう。四角いテーブルを、主人公であるアワンとアフンを含めた10人弱の若者たちが囲んでいます。カメラは向かい合う形になったアフンとアワン(この時すでに若者たちや観客はこの2人がただならぬ関係であることに気づいています。)を、お互いの正面からかなりの望遠で捉えます。このシーンはアワンとアフンのそれぞれを捉えた2つのショットからなっています。そしてこの時、喋っているのはフォーカスの外れた2人の友人たちなのです。主人公であるアワンとアフンは必要最低限のことしか話さず、周りの友人たちのように大声で騒いだり大笑いすることはありません。彼らがすることといえば、友人たちに酒を飲むよう強要され(紛れもないアルハラの瞬間がそこにはあります。)、コップ一杯の酒を飲み干し苦しそうに顔を赤らめることくらいです。この淡々としたシーンに、私達はいたく心を動かされてしまいます。そこにあるのはたった2つのアングルから捉えられた、一見劇的には見えない光景に過ぎません。カメラはもちろん全く動きませんし、カットも多くはありません。しかしこのシーンは確かにもの凄い速さで動いているのです。この映画の中心にはもちろんアワンとアフンがいます。彼らは感情をあまり表に出さず、常に冷静なように見えます。逆に彼らの友人や親族はとても元気で騒々しくさえあります。この人々は映画の周縁にいます。動かない中心と動き回る周縁、その時事物はちょうど独楽のように回転し始めます。そして一度回り始めてしまった独楽は減速することを知らず、どんどん速くなっていくのです。『悲情城市』でも、この独楽のような回転性は顕著です。
『悲情城市』は誰が主人公であるとも言えない群像劇です。しかしながら精神的には寛美と文清(トニー・レオン)こそが主人公であると言えましょう。この作品で最も美しいシーンの一つである、文清の部屋で青年たちが政治についての議論をしている中、部屋の端で寛美と文清が筆談で話す(文清は耳が聞こえません)場面を思い出してください。このシーンのはじめ、カメラは部屋の隅から若者たちを捉える長いワンショットが続きます。そのうち、彼らの政治議論についていけなくなった寛美と文清が部屋の端へ行き、2人で沈黙の会話に花を咲かせます。彼らは先の『戀戀風塵』の場面の男女よりもさらに話すことをしません。口を開くのは彼らの友人である青年たちばかりです。カメラが部屋の端で筆談する2人をクロースアップで捉え始めたところで、空間に響き渡る音は周りの男たちの熱い政治論だけでしょう。ここでも、動かない中心と動き回る周縁という主題があります。この作品の全編を通して、のちに夫婦となる文清と寛美は感情をあらわにすることはありません。唯一2人が感情的になるシーンといえば、文清が寛美の兄である寛栄に、自分も彼らと共に山中に住みたいと申し出るものの、障害者である文清はここにいるべきではないと断られ激しく怒る場面と、それを聞いて兄の決して明るくない未来を悟った寛美が泣く場面くらいでありましょう(この寛美が泣くシーンの音楽の始まり方は、映画史上最高のものであるといって間違いありません)。『悲情城市』において動き回るのは、文清の兄である文雄や文良、一家の父である李天祿や、台湾の未来のために奔走する寛栄であり、また今にも革命が起きてしまいそうな台湾と中国の社会そのものであって、寛美や文清ではないのです。このことが、作品を独楽のように回転させる理由なのです。そしてカメラも、彼らに対して遠いところから動かない視線を投げかけるばかりで、光景に介入しようとはしません。侯孝賢の映画にあるのは、ただ永遠のように回り続ける独楽の激しい速さだけなのです。やがて映画たちは、独楽が少しずつ回転を弱めて止まりゆくように、動き回ることをやめて映画に終わりを告げます。『戀戀風塵』は回転の中心であった男女の1人であるアフンがアワンとは違う男と結婚して、アワンの元から去っていくことによって、『悲情城市』は文清が当局に逮捕されそのことが寛美の美しいナレーションによって語られることによって終わりを迎えます。中心を失った独楽は、少しずつ減速し、やがて止まる運命にあるのです。

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