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字音の字訓化について

字音(じおん、音読み)とは、漢字の発祥地・中国での発音が元になった読み方です。字音の中にも、呉音(ごおん)漢音(かんおん)唐宋音(とうそうおん)という種別があり、たとえば「行」という字では、「行事」の行(ぎょう)が呉音、「行為」の行(こう)が漢音、「行脚」の行(あん)が唐宋音です。

ざっくり言って、呉音が古期、漢音が中期、唐宋音が新期の発音であり、漢字が断続的に日本に伝わった事情により、違う読み方が混在しています。

古代~中世の日本で、行政文書や儒学の書と共に広まった漢音が現代でも最も広く使われており、それより前に仏典と共に入ってきた呉音は仏教用語などに多く残っています。唐宋音は今日では特定の漢字の特定の熟語にしか用いられませんが、杏子(あんず)、繻子(しゅす)、様子(ようす)などの子(す)は比較的よく見受けられます。

ちなみに「行政」は「行(ぎょう)」が呉音、「政(せい)」が漢音です。こういった呉漢混交の言葉も、一般語・固有名詞ともにそれなりに存在します。「東京都」を呉音統一すると「とうきょうつ」、漢音統一すると「とうけいと」になります。

上記のように最大で三つの種類がありますが、逆に言えばこれら以外に読み方はなく、ある漢字に対する字音は厳密に定まっており、増えたり変わったりはしません。

一方で字訓(じくん、訓読み)とは、古来日本独自の言葉に、それと意味が同じ漢字を充当させたものです。「行」には「ゆく」、「おこなう」、「つらなる」などの字訓があります。

和(かず)、重(しげ)、俊(とし)といった、主に人名でしか見られない特殊な読み方が“人名訓”と称されるように、言葉の意味が漢字の意味と通じていれば、字訓は比較的自由に与えられます。

こういった事情により、字音と違って字訓には非常に多くのレパートリーがあります。例えば、「和」の字音は呉音「ワ」、漢音「カ」、唐宋音「オ」の三種類に限られるのに対し、字訓では「なごむ」、「やわらぐ」、「あえる」、「こたえる」、「ととのう」、「かえる」、「のどか」、「やまと」などと読まれ、人名訓も含めれば「かず」、「たか」、「ちか」、「とも」、「まさ」、「やす」、「よし」……と、無限にも思えるバリエーションが存在します。
(あえて字音・字訓に触れる際には、字音をカタカナ、字訓をひらがなで表記することが一般的です)

繰り返しになりますが、字音は文字ごとにあらかじめはっきりと決まっていて、意味がつながるからといって新たに創出されたりはしません。文脈によっては「和」に「たす」、「やる」という字訓を与えることはあり得ますが、どうあっても「和」を「シン」とか「レイ」とか読ませることはできません。

さて、このように本来、字音と字訓はまったく別の存在なのですが、漢字によっては字音をまるで字訓であるかのように扱っているものが存在します。
田中草大という研究者がTwitterで、廿(にじゅう)僧(ほうし)尉(じょう)を字音を字訓化した例として挙げました。「廿」の字音は「ジュウ」ですが、「廿」字の「20」という意味から「二十(ニジュウ)」という別字(しかも二文字)の字音を、字訓のように「廿」の読みとして採用しています。

「僧」の字音は「ソウ」であり、「ほうし」というのは法師(ホウシ)のことです。僧とはすなわち法師のことですから、こういった当て読みが起こったのでしょう。ちなみにこれに近い発生をしたものに儒(はかせ)があります。この読みの元になった言葉は博士(ハカセ)です。昔の日本における「博士」は現代で言う「博士」よりももっと狭い意味であり、特定の分野のトップ職の名称でした。その職には儒学に通じた人が就いたので、「儒」字と「博士」の間には密接な関係があったのです。

尉(じょう)とは江戸時代以前の日本の官僚における等級の第三、いわゆる四等官の判官のことです。判官職の漢字に何を当てているかは部局によって異なりますが、どう書いても大抵「じょう」と読まれます。その内、中務省や大蔵省などの“省”の判官が「丞」であり、この漢字の字音が丞(ジョウ)です。この読みを他の判官にも適用していったため、字音「ジョウ」が字訓化されたものがいくつも生まれました。「尉」と書くのは、兵衛府または衛門府の判官です。他に、内匠寮や馬寮など“寮”の允(じょう)、掃部司や造酒司など“司”の佑(じょう)、中宮職や修理職など“職”の進(じょう)、国司の掾(じょう)などがありますが、これらはすべて丞(ジョウ)の字訓化です。

これに関係して言えば、四等官の第四・主典である「さかん」も字音の字訓化と言えるでしょう。「さかん」の語源は佐官(サカン)とも史官(シカン)とも言われますが、ともかく「さかん」という響きは日本古来の和語らしくなく、何らかの漢語に由来することは確かです。“省”では録(さかん)、“寮”と“職”では属(さかん)、“司”では令史(さかん)、兵衛府と衛門府では志(さかん)、国司では目(さかん)ですが、すべてそれぞれの漢字の字音ではないため、これらも字音の字訓化の一種となります。

上記田中氏のツイートのリプに笏(しゃく)というのも挙げられていました。「笏」の本来の字音は「コツ」であり、固有名詞ですが支笏湖(しこつこ)や飯田蛇笏(だこつ)などに見られます。この「コツ」という音が骨(コツ)と同じで縁起が悪いと考えられ、笏の長さが約一尺だったところから、尺(シャク)の字音を借りて笏(しゃく)と呼ぶようになったと言われています。

これら字音が字訓化した例の中には、意味上同格であるために生じたものと、連想やこじつけから生じたものの二種類があります。
前者は、
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僧(ソウ)= 法師(ホウシ)→ 僧(ほうし)
儒(ジュ)= 博士(ハカセ)→ 儒(はかせ)
瘋(フウ)= 頭痛(ズツウ)→ 瘋(ずつう)
龕(ガン)= 厨子(ズシ)→ 龕(ずし)[仏像や経典を収める入れ物・場所]
羅(ラ)= 紗(サ)→ 羅(さ)[薄い絹織物]
鷩(ヘツ)= 金鶏鳥(キンケイチョウ)→ 鷩(きんけいちょう)[キジ科の鳥]
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など。後者は、
--------------------------------------------------------------------------------------笏(コツ)→ 一尺(シャク)の長さだから → 笏(しゃく)
橙(トウ)→ 実が落ちず代々(ダイダイ)残るから → 橙(だいだい)
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などが該当します。

ぶ厚い漢字辞典には、上記の鷩(きんけいちょう)のような妙に長い字訓が紹介されていることがしばしばあるので、字音の字訓化したものは探してみると意外とたくさんあるかもしれません。



最後に。

字音の字訓化の中で現在最も使われているものは、「穴」という漢字の字音に由来する尻(けつ)だと思います。

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