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地名に見られる特殊濁位


奇妙な連濁

拙稿『上代人名構成要素等考察集』第二章にて、「牛(うし)」が「牛(うじ)」と濁る現象を紹介しました。例えば、乳牛を「乳牛(ちうじ)」、牝牛を「牝牛(めうじ)」、黄牛を「黄牛(あめうじ)」、牛鹿を「牛鹿(うじか)」と読んだ類です。上稿では鈴木喬氏の考察も参照しながら、堅牛も「堅牛(かたうし)」が母音脱落を起こした「堅牛(かつじ)」であると述べました。現代でも「牛(うじ)」のつく地名は存在し、以下7例が私の知るところです。
・青森県南津軽郡大鰐町唐牛(かろうじ)
・石川県金沢市三小牛(みつこうじ)町
・岐阜県揖斐郡池田町小牛(こうじ)
・静岡県下田市田牛(とうじ)
・京都府舞鶴市室牛(むろじ)
・鳥取県鳥取市青谷町早牛(はやうじ)
・鳥取県西伯郡南部町下中谷騂牛(あごうじ)

ところで、連濁と言えば「合成語の語頭の清音が濁音に変わる現象」(『大辞泉』より)であり、要するに「大(おお)」と「声(こえ)」が合わさって一つの言葉になった時、「大(おお)声(ごえ)」になるように、後ろの語の先頭が濁音になる現象を指します。なお「焼き」と「鳥」が合わさっても通常「焼き鳥(やきどり)」にはならないように、連濁は必ず生じるわけではありません。この法則に照らせば、「牛(うし)」が「牛(うじ)」になるのは連濁ではありません。濁っているのは語の先頭ではないですし、「牛鹿(うじか)」の例においてはそもそも「牛」が後ろではありません。

このように連濁で濁る可能性がある箇所以外が濁った、連濁とは言い難い奇妙な濁音化は存在し、それは地名にしばしば見受けられます。奈良県の「葛城」は今は「かつらぎ」と呼ばれていますが、古くは「かづらき」と呼ばれていました。「かづらき」から「かつらぎ」へまるで濁点のみが移動したような異様な様相を呈しているのです。また大阪府の「楠葉」(駅名は「樟葉」)は一見して「くすば」と読みたくなりますが、実際のところは「くずは」です。「くすは」の連濁形「くすば」「くずは」へと変化したように見えます。

こう述べてきますと、言語学に知見のある人は“音韻転倒”を思い浮かべるかもしれません。音韻転倒とは「山茶花(さんざか)」が「山茶花(さざんか)」「雰囲気(ふんいき)」が「雰囲気(ふいんき)」となるような、語順が入れ替わる現象です。辞書的に定着した言葉でなくとも「とうもろこし」を「とうもころし」と言うのも同様です。しかし、上記の「葛城(かつらぎ)」や「楠葉(くずは)」の例は語順が入れ替わっているのではなく、濁点の位置のみが移動しているのです。

葛城

まず奈良県の「葛城」の例を具体的に見ていきたいと思います。「葛城」は『日本書紀』神武天皇条や、『古事記』綏靖天皇段から見られる非常に古い地名です。地名およびそれに由来する姓名も合わせて『日本書紀』に42回、『古事記』に19回も現れる極めて重要な名称でもあります。皇極天皇三年(644)正月条に葛木稚犬養連網田という人名がありますが、「葛木」という表記も多く見られます。
音写(万葉仮名)で読みを表したものとしては、『日本書紀』仁徳天皇三十年九月条に「箇豆羅紀」、『古事記』仁徳天皇段に「迦豆良紀」が見えます。「豆」は清濁両方に用いられますが、「紀」は清音仮名であるため、「かつらき」あるいは「かづらき」であったと言えます。

植物としての「葛(かづら)」は『万葉集』3507番歌「多尓世婆美 弥年尓波比多流 多麻可豆良 多延武能己許呂 和我母波奈久尓(谷狭み 嶺に延ひたる 玉葛 絶えむの心 わが思はなくに)」に「可豆良」、『新撰字鏡』に「葛 加豆良」とありますが、ここでも清濁両用の「豆」字が使用されており、「つ」が清音か濁音かの断定ができません。
ところで「かづら」という日本語には「葛」の他に「鬘(縵、蘰)」があります。「鬘」は現在では「かつら」と発音され、疑似の頭髪を指すことが多いですが、古代では植物を結ったり編み込んだりした髪飾りの意として使われていました。先掲の『万葉集』3507番歌にも見える「玉葛(たまかづら)」は多くの歌に詠まれていますが、以下の歌ではこれが「玉蘰」と表記されています。
・149番 人者縦 念息登母 玉蘰 影尓所見乍 不所忘鴨(人はよし 思ひ止むとも 玉葛 影に見えつつ 忘らえぬかも)
・2994番 玉蘰 不懸時無 恋友 何如妹尓 相時毛名寸(玉かづら 懸けぬ時無く 恋ふれども 何しか妹に 逢ふ時も無き)

加えて、藤原朝臣真葛という人物の名が『続日本紀』宝亀十年(779)二月条では「真縵」と表記されていることも、「葛」と「縵」が同音を示す証拠となります。「葛」と「鬘」は上代において同じ音であったと強く考えられます。そして「鬘」は『万葉集』の以下の歌にある「可豆良」の表記にて、読みを知ることができます。
・817番 烏梅能波奈 佐吉多留僧能々 阿遠也疑波 可豆良尓須倍久 奈利尓家良受夜(梅の花 咲きたる園の 青柳は 蘰にすべく 成りにけらずや)
・840番 波流楊那宜 可豆良尓乎利志 烏梅能波奈 多礼可有可倍志 佐加豆岐能倍尓(春柳 かづらに折りし 梅の花 誰れか浮かべし 酒坏の上に)

しかしやはりすべてが「豆」字であり、ここからも清濁を判断できません。濁音であると確信を持って言えるのは、1603年の『日葡辞書』の「Cazzura」まで下るかもしれません。ともあれ、万葉仮名の「豆」が濁音に多く充てられていることも事実であり、「葛」および「鬘」が濁音を含む「かづら」であった蓋然性もそれなりに高いと思われます。

ところで植物で「かつら」と言えば「桂」もあります。「葛」が古くは「かづら」であったと言われ、ウツボカズラやスイカズラにその音を残す一方、「桂」は昔から清音の「かつら」であったとされます。『古事記』海幸山幸の段に「到其神御門者、傍之井上、有湯津香木。故坐其木上者、其海神之女、見相議者也。(その神の宮の御門に行くと、井戸の傍らに神聖な香木がある。その木の上に居れば、海神の娘が見て相談に乗ってくれる)」とあり、直後の割注に「訓香木云加都良。(「香木」は「加都良」と訓ずる)」とあります。また二十巻本『和名類聚抄』では阿波国勝浦郡の読みを「桂」で示しています。上代では「かつら」の木を表すのに「楓」字も用いられ、このことは『万葉集』632番歌「目二破見而 手二破不所取 月内之 楓如 妹乎奈何責(目には見て 手には取らえぬ 月の内の 桂のごとき 妹をいかにせむ)」や、『新撰字鏡』「楓 香樹 加豆良」に見えます。十巻本『和名類聚抄』では「桂」を「めかつら(=女かつら)」、「楓」を「をかつら(=男かつら)」としています。「葛」も「桂」も共に植物ではありますが、「葛」が蔓草の総称であるのに対し、「桂」が蔓を持たない樹木であることから、そもそも別の言葉であり、どちらかがどちらかの語源という訳ではないと思われます。なお、香木であるであることから「桂」の「か」は「香」の義とする説が多いですが、「葛」の「か」は「髪」、「掛」、「絡」などとされ、「香」とする説は見当たりませんでした。
また「桂」の万葉仮名例「加都良」について、「都」字は濁音仮名として使われることもありますが、清音の例が圧倒的に多く存在します。「豆」字は清濁が決し難いと前に述べましたが、濁音の例が圧倒的に多いことは事実です。
植芝宏「万葉仮名一覧」(http://www1.kcn.ne.jp/~uehiro08/contents/kana/1ran.htm)というサイトによれば、清音「都(つ)」は『古事記』に229字、『日本書紀』に115字、『万葉集』に1065字あるのに対し、濁音「都(づ)」は『古事記』になく、『日本書紀』に8字、『万葉集』に52字しかありません。一方、清音「豆(つ)」は『古事記』に1字、『日本書紀』に17字、『万葉集』に9字程度ですが、濁音「豆(づ)」は『古事記』に93字、『日本書紀』に41字、『万葉集』に193字あります。可能性・蓋然性の話で言えば、「都」は清音「つ」、「豆」は濁音「づ」と考えるのがより自然であり、中近世の例を待たずとも、「葛」は「かづら」であったというのが自然になるのではないでしょうか。

さて、葛城は様々な資料に「古くは『かづらき』、今は『かつらぎ』」と記されており、確かにそうなのでしょうが、なぜ、そしていつ変化したかは示されてはいません。しかし想像逞しくするに、「葛(かづら)」と「桂(かつら)」が雑交して「葛城(かづらき)」「葛城(かつらき)」となった後、もしくは同時期に連濁を起こして「葛城(かつらぎ)」となったのではないでしょうか。変化の時期については、史料を精査すればより確実なことが言えるかもしれません。ただ、四つ仮名(「じ」と「ぢ」、「ず」と「づ」)の混同が進んでダ行の「かづら」がザ行の「かずら」になってからでは、「からぎ」という形にはならないため、江戸時代よりは前だったのではないかと思われます。すなわち、「葛城(かづらき→かつらぎ)」という変化は、単純に濁点だけが移動したのではなく、「かづら→かつら」の清音化と「らき→らぎ」の連濁がそれぞれ独立して起こった結果と考えられるのではないでしょうか。

楠葉

続いては大阪府の「楠葉(くずは)」です。表意表記では『日本書紀』崇神天皇十年九月条の「樟葉」や、継体天皇元年正月条の「楠葉宮」の例が古い、伝統的な地名です。これらに続いて『続日本紀』和銅四年(711)正月条に「河内国交野郡楠葉駅」が見えます。音写表記は『古事記』崇神天皇段の「久須婆之度」があり、「婆」は一応清音の例も認められるものの濁音仮名としての用例が多く、古くは「くすば」という発音であった蓋然性が高いと思われます。記紀ともに、日子国夫玖(彦国葺)が建波爾安(武埴安)を討伐した際、建波爾安の軍勢が褌(はかま)から屎(くそ)を漏らしながら怯え逃げたのでそこを「屎褌」と言い、それが訛って「樟葉」になったという地名起源譚を挙げています。「屎」は「くそ」であって「くぞ」ではないため、元から「くずは」であったならば、訛ったと主張しても説得力に欠けます。やはり記紀編纂時点で、この地名は素直に連濁を起こした「楠葉(くすば)」であったと考えられます。

ところで二十巻本『和名類聚抄』には、この楠葉と同地と思しき葛葉郷の記載があり、訓は「久須波」とあります。いずれの漢字も清濁どちらにも使用されるため、先頭の「く」が清音であることは分かっても、「くすは」、「くずは」、「くすば」、「くずば」のどれであるかは決定しかねます。しかし「かづら」や「ふぢ」と読まれない「葛」については、『日本書紀』天智天皇十年(671)条の歌謡「阿箇悟馬能 以喩企波々箇屢 麻矩儒播羅 奈爾能都底挙騰 多拕尼之曳鶏武(赤駒の い行き憚る 真葛原 何の伝言 直にし良けむ)」の他、『万葉集』の以下の歌に万葉仮名の例が認められます。
・3072番 大埼之 有礒乃渡 延久受乃 往方無哉 恋度南(大崎の 荒礒の渡り 延ふ葛の ゆくへもなくや 恋ひわたりなむ)
・3364番歌 波布久受能 比可波与利己祢 思多奈保那保尓(延ふ葛の 引かば寄り来ね 下なほなほに)
・3412番歌 賀美都家野 久路保乃祢呂乃 久受葉我多 可奈師家児良尓 伊夜射可里久母(上つ毛野 久路保の嶺ろの 葛葉がた 愛しけ子らに いや離り来も)
・4508番歌 多可麻刀能 努敝波布久受乃 須恵都比尓 知与尓和須礼牟 和我於保伎美加母(高円の 野辺延ふ葛の 末つひに 千代に忘れむ 我が大君かも)
・4509番歌 波布久受能 多要受之努波牟 於保吉美乃 売之思野辺尓波 之米由布倍之母(延ふ葛の 絶えず偲はむ 大君の 見しし野辺には 標結ふべしも)

「儒」も「受」も濁音仮名「ず」としてしか用いられないので、「葛葉郷」の読み方は「くずは」であると確定できます。すなわち『和名類聚抄』が編纂された平安時代中期の時点、遅くとも二十巻本倭名抄国郡部が現存する室町時代初期の時点で、響きが「くずは」になっていたことは確かと思われます。本居宣長『古事記伝』に「今も楠葉村ありて、須を濁、波を清て呼なり」とあることから、「楠葉」が平安時代中期~江戸時代~現在に渡って「くずは」という響きで呼ばれていたことが分かるのです。
しかし、ではなぜ本来「楠葉(くすば)」であったはずの地名が「楠葉(くずは)」へと変化したのかという理由については、現時点で未詳であり、追究が必要と感じます。

屋就

奈良県橿原市には屋就神命神社という神社があり、これは「屋就(やつぎ)」と読みます。素直に連濁して読めば「屋就(やづき)」と読むところでしょうが、上記のように読みます。屋就神命神社は平安時代の『延喜式』神名帳に記載された歴史ある式内社ですが、とにかく資料の乏しい謎の多き神社です。まず祭神が屋就神命という、おそらくここにしかいない神です。周囲には屋就街道や屋就川など、この神社に由来すると思しき地名がありますが、これらについての情報も中々見つかりませんでした。

屋就神社の所在地は橿原市大垣町矢就といい、ここに「矢就」の表記が見らます。また、屋就街道は矢継街道とも書かれるようで、これが「やつぎ」という濁訓であることを確かにしています。『日本歴史地名大系30 奈良県の地名』には「もと八剣(やつるぎ)神社と称し」たとあり、これに従えば「やつるぎ→やつぎ」と変化したところに、無理に「屋就」の漢字を充てたことになり、「やづき」「やつぎ」へと変化したのではないことになります。とは言え、元々は八剣神社であったという根拠も見当たらず、そもそもの名称からして非常に謎めいた存在です。

矢掛

矢掛駅前(ちなみサムネイル画像は矢掛本陣通り)

類似と思しき例を私の地元・岡山県でも見つけました。一つは小田郡矢掛町です。「矢掛」と書いて「やかげ」と読みます。素直に連濁を起こせば「矢掛(やがけ)」となるところでありましょうが、現実には「矢掛(やかげ)」と連濁となるべき箇所が清音に、本来濁らない末尾が濁音になっています。この地名について『角川日本地名大辞典33 岡山県』には「地名の由来は、古代清流に家屋の影が美しく映っているのを見て屋影(のち屋蔭)と呼んだのがはじまりといわれ、戦国期~織豊期には矢尻生産で有名になり、矢を掛るの意で矢掛と書くようになったと推定される」と書かれています。起源の真偽は定かではありませんが、記録の残る最古の例が今川貞世『道ゆきふり』の応安四年(1371)五月条の「屋蔭」であることから、本来から「やかげ」という響きであり「矢掛」表記は当て字とする目途が立ちます。

つまりこの場合、濁点が移動したのではなく、「やかげ」という音に無理やり「矢掛」の字を当てたため、表記と読みの間に齟齬が生じたというのが真相のようです。この点、上段の「八剣(やつるぎ)→やつぎ→屋就(やつぎ)」説に似ていますが、文献上の証拠がある分、こちらはかなり確からしいと言えるでしょう。

虫明

虫明裳掛地区

もう一つ地元の例として挙げたいのが、瀬戸内市邑久町虫明です。「虫明」と書いて「むしあげ」と読みます。「虫明」はすべて清音で「むしあけ」と読まれることもあり、こういった名字もありますが、公式な地名としては「むしあげ」です。一応牡蠣などで有名ではありますが、市町村ではなく大字の名なので比較的マイナーと思われます。

虫明の地は『狭衣物語』(1070前後成立)に「むしあけのせと」とあるのが初見のようです。『角川日本地名大辞典』では地名由来について「古来風光明媚な海岸で夏の夜の浜辺は海中の夜光虫が光り、その明りが美しいことによるともいわれる」とありますが、ここから「け」の清濁を測ることはできません。資料上次に古いのが『山槐記』治承三年(1179)六月二十二日条「十一日未明出御船、巳剋過室、申剋至于虫上□□□頭着牛間戸」の「虫上」とされます。「牛間戸」は現在の牛窓(うしまど)のことでしょうから、「虫上」は虫明のことと捉えて差し支えないでしょう。とすればこの時すでに「むしあげ」という音であったことになります。「上」は「あげ」とは言っても「あけ」とは言いません。
マイナーな地名であるとは述べましたが、『新勅撰集』(1235)雑四1324番歌、藤原良経の「なみたかき むしあけのせとに ゆく舟の よるべしらせよ おきつしほ風」など、和歌には好んで詠われた様子が窺えます。矢掛のケースと異なり、元の音が「むしあげ」であったところにあえて「虫明」という漢字を充てたというわけではなさそうです。さらに「あ」に濁音がない以上、「むし」と「あけ」が前後要素の間で連濁を起こしたと考えることはできません。

ところで少々話が変わりますが、古代日本では「虫名」という人名が比較的多く認められます。「虫奈」、「虫那」とも表記され、「虫」が万葉仮名としては用いられないことから、「むしな」と読むと思われますが、「虫」の「名」とはどういう意味なのか定めるのは難しくあります。よってこれを「虫名(むじな)」と読み「貉(むじな)」の意であるという説があります。表意表記、あるいはすべて万葉仮名で「むじな」と書いた名が現状見当たらないため、この説の正当性が高いとは言いにくいかもしれません。しかし、もしそうであれば「虫」が「むじ」と濁る可能性を示唆していることにもなります。「牛(うじ)」と同じように「虫(むし)」が「虫(むじ)」と濁り得るのであれば、まず「虫明(むしあけ)」「虫明(むじあけ)」となり、その後より発音の楽な「虫明(むしあげ)」へ至ることも十分にあると言えるでしょう。
「牛(うじ)」については、普通名詞と固有名詞の両方に見られ、それぞれ文献や地名に残存しているのに対し、「虫(むじ)」は「虫名」を「むじな」と読むならばという仮定に基づき、現実に「虫(むじ)」の形を取っている例を拾えないことが、「牛」と「虫」の違いです。

宍甘

宍甘交差点

岡山市東区には「宍甘(しじかい)」という大字が存在します。難読であるためか、東区と中区の境目にある宍甘交差点の標識には「しじかい」わざわざとルビが振ってあります。「宍」は宍戸などの名字で知られるように本来は「宍(しし)」と読まれ、また「甘(かい)」は「飼」と同義であるため、素直に連濁を起こせば「宍甘(ししがい)」となるべきところです。しかし実際は「し」が濁り、「か」は濁っていません。

『角川日本地名大辞典』には「地名の由来は、古代猪鹿を飼養する部民、猪飼部がいたことによる」とありますが、拙書『上代人名構成要素等考察集』第二巻第三章で扱っているように、「猪飼部」の読みは「ゐかひべ」であり「ししかひべ」ではありません。とは言え「獣(しし)の飼(か)い場・飼い人」に端を発した地名である蓋然性は高いでしょう。この地名にはあまり古い記録がなく、安土桃山時代の備前の武将・宍甘太郎兵衛の名が最も古い部類と見えます。『日本歴史地名大系34 岡山県の地名』によれば、「慶長一〇年(一六〇五)備前国高物成帳(備陽記)の居都(こづ)庄に村名があり、寛永備前国絵図では高一千一四一石余。正保郷帳に「しじかい」と振仮名があり、草山小・松林少とある」らしく、記録が残る初めの方から「宍甘(しじかい)」と「し」の方が濁っていた様子が看取できます。ただ、その理由については資料上の制約もあり、知るのが難しいところではあります。

麻布

以上までの例とは趣が異なりますが、首都中心部に存在し、よく知られた地名である「麻布(あざぶ)」を無視してはならないでしょう。「麻布(あさふ)」が純粋に連濁で濁るならば「麻布(あさぶ)」となるところが、「布」の濁音化はそのままに、「麻布(あざぶ)」と二ヶ所も濁っているのが特殊中の特殊と言えます。もう一つ今までの地名と異なるのは「布(ふ)」が音読みである点です。この地名の歴史的な登場は比較的新しく、宍甘とあまり変わりません。『日本歴史地名大系13 東京都の地名』に「初見は永禄年間の「役帳」で、小田原北条氏の家臣御馬廻衆の狩野大膳亮の所領「五拾三貫弐百文 江戸阿佐布」と見え」るとあります。また同書に「阿佐布(役帳)・安座部(江戸名所記)・浅府(江戸雀)・浅生・麻生(再校砂子)とも書く」ともあります。「「麻布」の初出は元禄3年の「江戸図鑑綱目」であるが、「書上」は正徳3年頃麻布と書きかえた」らしく、江戸時代の村名としては「阿佐布」表記だった様子です。

「阿佐布」や「浅府」といった表記から清濁は判断できませんが、寛文二年(1662)の『江戸名所記』に「安座部」と書かれていることから、この地の記録が見られるようになったかなり早い時点で「あざぶ」の音であったことが窺えます。天明二年(1782)山下珍作の洒落本に「ここらのやつらはあざぶのまつりをほん所で見るはなしよ」とあるようで、「あざぶ」で安定していたように映ります。『東京都の地名』には「由来は麻が生えていたから麻生、麻布を生産したため、浅茅生が浅生となったという説などがある(砂子・新編江戸志・温故名跡志など)」と書かれていますが、どの説を採用しても「ざ」と濁った理由は判然としません。「麻生」にせよ「浅生」にせよ、本来の語(麻、浅、生)はすべて清音だからです。

複合語の前要素の末が濁音だと連濁を起こしにくい日本語の法則を思えば、「あさふ」がまず「あさぶ」になり、それから「あざぶ」に変化したと考えるのが順当でしょう。また、植物名+「生(ふ)」という語は、非常に「生」が音変化を起こしやすく、多くの場合「生(う)」になり、さらに前の要素と結合・変化することも多く見られます。例えば「桐生(きりふ)→桐生(きりう)→桐生(きりゅう)」、「蒲生(がまふ)→蒲生(がまう)→蒲生(がもう)」、「藤生(ふじふ)→藤生(ふじう)→藤生(ふじゅう)」と言った具合です。一般名詞の「芝生(しばふ)」のように「ふ」のまま残るのは稀有であり、宇陀市や小松島市の地名に見えるのは「芝生(しぼう)」です。また「ぶ」と濁音化することもあり、青森県には「苫生(とまぶ)」、山口県には「篠生(しのぶ)」という地名があります。植物名でない場合、「土生(はぶ)」、「丹生(にぶ)」なども存在します。「麻生」と書けば「麻生(あさふ)→麻生(あさう)」から変化した「麻生(あそう)」として広く知られますが、「麻生(あさぶ)」と変化することも十分にあり得ます。想像するに、元は「麻生(あさふ)」に由来する地名がまず「麻生(あさぶ)」となり、その後に何らかの理由で「麻生(あざぶ)」と濁り、後に「麻布」の表記で確定されたのだと思われます。「ざ」が濁った理由は今のところ資料中に手掛かりを見出せず、もやもやが残ります。江戸地域の訛りが関係するのでしょうか。あるいは近江の「浅井」を「あざい」と呼ぶことと関連があるのでしょうか。

おわりに

以上、理由はよく分からないという結論の方が多くなってしまいましたが、上記の考察を手掛かりに新たな知見が生まれるのであれば、本記事を書いた意義もあると感じます。同様・類似の地名、あるいは本稿で挙げた地名の音に関する資料があれば是非とも教えていただきたく存じます。

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