衝動について
この話は以前どこかでも記したが、余が書籍を読み漁るようになったのは高校二年次の夏に『ジキルとハイド』と出合ってからである。それだけ本作の影響力は大きいのである。頁を捲るごと胸の奥底で吹きまくった驚嘆の嵐に衝き動かされるままに夢中で筆を走らせていくうち、自ずと一篇の小説ができあがった。その小品は、『ジキルとハイド』が見つめた二重人格の葛藤を換骨奪胎して制作され、生理的衝動と世間体のあいだで矛盾を抱えて破滅する人物を描いた。締切前夜から描き始め、翌日未明に完遂するという慌ただしさゆえ、あちこち拙い文体だったことは否めない。しかし「唐揚げについて書きたい」と企む衝動と、「あくまで後輩に誇れる作品を提出しなきゃ」と焦る虚栄心のはざまで揺れ動きながら——つまり登場人物と似た葛藤の境地に身を置きながら——書き切ったその作品は、いま読み直してみても、我ながら驚かされる。終始一貫できた迫真性をおもえば、その年の高校生文芸コンクールで次席当選できたというのも合点がいく。
胸のうちに猛りたつ衝動に導かれるまま文字に起こすという一夜の経験、そしてそれと同時に覚えた個人的ならびに社会的な自信は、余をすこぶる奮い立たせ、文学部入学へ繋がる軌道をまっすぐに敷いた。あの夏の邂逅と制作が無かったらいまの余は存在しないと断言できる。それほどまでに、『ジキルとハイド』以前の余はめっきり自信を、衝動を、喪っていた。
保育園ではロボットの絵に、小学校では詩作にそれぞれ励んだ幼年期の余は、折々で賞賛を受けた。周囲の大人、とくに親類や教諭は、余が作品のなかでみせる「素直さ」について口を窮めて褒め称えた。それはとても嬉しく感ぜられ、爾来、さらなる讃辞を賜るべく熱量を傾けるようになった。語彙や知識を「大人」の水準を目指して蓄えたほか、心の奥から「素直」に湧いてくるイメージを容赦なく紙面に叩きつけはじめた。すると次第に、賞賛される機会が目にみえるほど減った。代わりに大人たちは、かつての表現を懐かしむように「お前は昔の作品のほうがよかったなあ」と余に笑いかける。「素直に」を「好きなように」と解釈して好奇心や創作意欲を迸らせた挙げ句、大人に認められる「素直」からみるみる乖離してしまい、余は己の成長を苦々しく考えるようになった。
そうは云っても人間は成長する。まして小中学生ともなれば日を逐うごとに変化するものである。語彙力も知識量もたやすく蓄積するし、身体的には第二次性徴期を迎える頃合いだ。「素直」だった当時に目を細める大人に感化されてしまったことで、日増しに複雑化してゆく自らの言葉づかいや、大人びていく体格に対しては嫌悪を覚えこそすれ、到底受け容れる余裕なぞは持てなかった。
募る苛立ちは、筆に乗せるといっそう倍化され、親しかった友人にも作品を怖がられるようになった。「そういう人なの?」と訝る視線を向けられたときは「そういう」が含む意味に想いを馳せ、狂者と見做されて「輪」から追い出される事態を深く憂慮した。それから詩作は早々と放棄し、好きだったはずの絵も模写か棒人間を描くだけに限ってしまった。日々成長ないし変化を遂げる自分を最早「素直」に戻せないならば、筆を折るか、他人の表現や形式に埋没するかの二択を採るしか考えられなかった。少しでも「自分らしさ」を見せると直ちに嫌悪や敬遠の的になることを理解した余は、ひたすら寡作・寡言に徹するようになった。中学では、未練があってか周囲に勧められてか美術部に3年間所属して部長を務めたが、習作を含めて制作した作品はおそらく十指にも満たず、いずれも誰かの拙劣なパクリに過ぎなかったために、ちっとも楽しさを覚えることなく卒業した。どうしても紙面に滲む個性にひたすら消しゴムをあてがい、誰かがつくった代替の個性に甘んじているんだから、面白くなくて当然である。気取ったように誰かの言葉で誰かの作品を云々したり、口喧嘩の勢いで友人の作品を汚したりと、惨憺たる歳月を送った。
中学を終える頃には、誰かの目につくような場所で創作に取り組むことは一切無くなった。できあがったものも十全に秘匿してしまい何人にも見せない。当時は画材店で買ったA4サイズの白紙ノートを持ち歩いていて、燻る煙草を灰皿に押しつけるかのように制作の衝動を密かにぶつけるのを習慣としていた。鎮火を済ませたあとは、テストのたび粛々と好成績を叩き出す優等生を演じるだけであった。模試や考査のたびに認められる「首位」の称号が、いまや「素直」に並ぶ権威を帯びるようになり、「素直」から遠く離れた余を憂う大人たちを捻じ伏せる唯一の道筋とまでおもわれた。
学科成績を基準に偉ぶる試みが成功を重ねる裏で、それでも隠しきれない制作の衝動をこっそり白紙ノートに描き出す日々を、高校に進んでなお余は続けたが、あるとき破綻した。誰にも見せないようにしていたノートが暴かれたのである。よりによって級友によってである。うっかり教室の机の上にそれを置いたまま席を立ち、戻ってきたらすでに級友の目が紙面を走っていた。彼は、余と視線がぶつかるなり気まずそうに引き攣った笑みを浮かべ、「闇が深いね(笑)」と軽口を叩いた。頭に血がのぼった余は相手の腕の損壊など意にも介さず、ノートを奪った。一切口もきかず、それからすぐ始まった授業も辛うじて優等生として過ごした帰路、泣いた。
思いの丈を籠めて書き連ねた断章だけでなく、直線や円をあれこれ組み合わせて何らかの効果を狙ったイラストや鉤鼻の横顔の落書きなど、じつにあれこれの衝動を吸い込んで黒ずんだノートは、その晩、屑籠に葬り去った。
かくして衝動の捌け口を喪った余は、はなから権威を受け取るだけの勉学に縋るよりも、スマートフォンが導いてくれるインスタントな官能の世界に埋没することによって、ありあまる衝動を「消火」した。制作に繋げていく「昇華」とは違い、胸に燃え盛る衝動を愚にもつかないものとして侮蔑し、無きものにしてしまおうとする行動である。悲しいことにこの取り組みは成功を重ねる。大人や友人からの承認ではなく異性との恋愛だけが余を満たす要因となった。
あれほど守っていた首位の座にも翳りが見え始め、いっそう性への期待が募った。希望も絶望も素直も欲望も無垢も叡智も生も死も、なにもかも忘我できる終着点としての恋愛に。いまや余にとって衝動は、ゆめゆめ意識してはならない禁忌でさえあった。発生次第、迅速に忘れ去る必要があった。
高校二年次、読書感想文を書くため仕方なく手に取った『ジキルとハイド』は、余を震撼させた。いま本書を振り返って何か評価したいのだが、巧く言葉が出てこないのはどうしたことか。人生にインパクトを与えた重大事について語るのは容易でないに決まっているから、口籠もるのもあるいは仕方ないのかもしれない。まずは紋切型に「これすごいんだよ……」と切り出しておいて、ゆっくり分析することとしよう。
震えたのは無論、驚いたからである。なにに驚いたかと云うと、衝動に揺れる姿を赤裸々に描く筆致ではなかろうか。「素直」の形容詞から乖離していく自分に腹を立てたり、「優等生」に甘んじるなかで自分を誤魔化したり、「闇が深い」というシンプルな枠組みを受け容れたり、「恋愛」に身を滅ぼそうとしたりといった途方もなく長い歳月を送った結果、衝動から目を逸らし、敬遠し、忌避し、無化することに慣れてしまっていた。だから、社会的に成功を収めたはずのジキルが醜怪で俗悪なハイドに変容する物語が、一枚の鏡として余の心理のまえに聳え立ち、余を震え上がらせたのだとおもう。必ず誰しもあるはず、少なくともかつて各々にあったはずの衝動について、自由に考えていいし、書いてもいいし、描いてもいいことを、作者スティーブンスンは教えてくれた。あの日ノートを破棄して以来、すっかり疎遠になっていた創作活動に、ようやく余は回帰できた。美術部でついに覚えられなかった絵画の楽しみの源泉も、いまは点描に見出した。虚栄心を満足させるだけだった学問も、倫理教科や文化人類学との出合いに伴って、余の人生にとり切実なものになった。欲望の捌け口でしかなかった恋愛への考え方も、いくらか変わったようにおもう。友人と生真面目を取り繕って表面的に付き合うだけじゃなく好奇心に絆されるまま言葉を交わせるようになった。衝動はいま、見つめるべき、愛すべき対象になった。
つくづく、言葉の及ぼすインパクトを思い知らされる。
簡単に発した言葉が誰かを拘束してしまうという、負の効用を持つ発言。
そういう言動は慎みたいが、波風を立てないための消極的な沈黙も考えものだ。
葛藤に終始悶えながらもあくまで彼我の衝動に目を配ることに尽きるかしらん。
I.M.O.の蔵書から書物を1冊、ご紹介。 📚 かくれた次元/エドワード・ホール(日高敏隆・佐藤信行訳)