「おじさん」の完成

お気持ちに普遍的正義のフレーバーを添えて、いつも人々が殴り罵り合う事でお馴染みのTwitter。どうもそこでの議論を見ていると、おじさんは救いようのない階層で兎に角どのように口汚く罵倒しようが良いらしい。

何故おじさんを叩くことが正当化されるのか。

至極単純化していえば「おじさん」という存在は「気持ちが悪い」からだ。この「気持ちが悪い」を分解すると、「おじさん」以下の世代に対して一定の権力を持つ存在として立ち現れ、潜在的な(そして時に顕在的な)パワハラの行使者たる事に対する嫌悪。女性に対して(時には若年男性に対して)セクハラする主体としての潜在的な(そして時に顕在的な)対象としての嫌悪。そして両方のハラスメントを包括するが、旧時代的な規範を引きずった存在という事に対する嫌悪といったところだろう。

そんなろくでもない「おじさん」ではあるがこの概念の恐ろしいところは、おじさんの定義が明確でないことなのだ。あることない事を交えつつ「おじさん」という絶対悪を口汚く罵る人々に質問してみるとどうだろう。星野源は「おじさん」か?嵐(良く知らないが)のメンツはおじさんなのか?福山雅治は「おじさん」なのか?

きっと答えは否だ。

星野源や福山雅治的言動を取る容姿が残念で社会的な地位を持たない中年は完全にセクハラモンスターとして糾弾された挙句まるめてポイだポイ。

このように「おじさん」は年齢、行動ですら定義されるものではなく、容姿と社会的地位「おじさん」に対する非おじさん属性とその界隈の人々を取り囲む関係性によって左右される。例えば容姿がダメ、社会的な地位が確立されていない「おじさん」であろうともある特定の一芸に秀でていればその一芸界隈では「おじさん」的振る舞いが糾弾される閾値に達せず、星野源や福山雅治的な行動が許容される場もあり得る。

ただ、そのような類の中年男性は当然例外中の例外。大概30代中盤にもなれば立派な「おじさん」としての自己認識を持って然るべきというのが感覚値。自己認識がおじさんという界隈(何か嫌な界隈だ)がそのラインから始まるのでそう理解しよう。そう30代中盤となったら、「おじさん」という自己認識を持ち、「おじさん」として周囲に「気持ち悪い」思いをさせないよう、自重しなければならない。権力構造に無自覚に振る舞い、性的な欲望を言動に醸し出した上、旧来の規範を引きずった行動というのは害悪でしかないからだ。

さて、ここであなたが「おじさん」の立場になったとして考えてみよう。「おじさん」は自重した所で良いことはあるのだろうか。と。正直自重をしたところで「おじさん」は「おじさん」以上の何者でもなく、「おじさん」属性として糾弾される属性にしか過ぎない。

それでは何故自重しなければいけないのだ?社会的生活を円滑に過ごすため?

それで気を使って気を使って疲弊しつくした所で、異なった規範意識を持つ層との差は埋められるのだろうか?「おじさん」は「おじさん」を自覚した自重した言動を取り、服装をし、趣味を持つべきそれを実践した所で何がお得になるというのだろうか。彼らはその自重で相応の利益を得られるわけではない。社会生活が少し円滑に回るとしてもその努力は圧倒的な規範意識の変化等とのギャップの前で自重に自重を重ねてただすり減っていくしかないだろう。所詮「おじさん」は「おじさん」なのだから、そこにはいくらでも糾弾されるべき要素がある。所詮「おじさん」なのだから。

「おじさん」は開き直るしかないの。「おじさん」であることを認め、社会的な害悪とみなされようとも自らの成し遂げたいことをやっていくことしか。ここでいう開き直りとは何も、社会的な生活を送る上での当然の規範を「おじさん」だから無視しろという話ではない。流石に法律は守らなければならない。「おじさん」だからといって、後輩に激辛カレーを無理矢理食わせ、熱湯の入った薬缶を当ててはいけない。地位にものを言わせて性的な接触を強要する事も問題外だ。

さて、ここにも一人「おじさん」がいる。

僕は年齢的な定義ではもうとうの昔に「おじさん」となってしまっている。好きなように生きていくにはそれこそ幾らでも制限や障害はある。だからといって「おじさん」になってしまったという事で自重した所で何もいいことはないのだから。

社会における生存競争というサバイバルダンスを踊り続け、老化していく体を保つため筋トレと水泳に励み、好きな服を着、好きなことをする。制限もある。罵詈雑言もある。これから人々と仲たがいする事もあるだろう。それがどうしたというのだ。どうせ私は「おじさん」だ。

こうしてまた一人の「おじさん」が完成して野に放たれた。きっと社会に害悪を齎すことになるのだろう。そんなもの知ったことか。

人類よ恐懼せよ。



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