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音楽は死ななければならない
1959年2月3日
当時世界で最高にクールで最先端の音楽を鳴らしていた男が死んだ。
小型飛行機の墜落によってビッグ・ボッパーを含め4人が死んだのだ。
彼らはノースダコタのトウモロコシ畑で鉄屑と一緒にかつて人間だった残骸になっていた。1950~60年代はミュージシャンの死が相次ぎ、「革新的な」音楽はなかなかチャートに上がらなくなりつつあった。彼らの一連の死の影響はすさまじいもので、当時のビルボードからはロックンロールが激減したとも言われる。
だがそこで革新が起こる。ボブ・ディランは1966年にイギリス公演のために海を越え、ビートルズにドラッグを教えた。
むろんビートルズよりもシラフでとんでもない曲を作るやつらはたくさんいたが、誰も思いもしなかったことが起こった。アメリカで死んでいたロックンロールがイギリスで蘇ったのだ。しかも誰も聴いたことがないようなサウンドでだ。つまりイギリスのロックンロールの活性化によってアメリカに次いでイギリスがロックンロール大国になったのだ。事実、彼ら・ビートルズが最初に勲章をもらった理由は「多大なる外貨をイギリスにもたらしたため」だ。これがブリティッシュイ・ンベイジョンと呼ばれる現象である。
言うまでもなく今のポップミュージックでヒップホップの影響を受けていない音楽は皆無と言っていいだろう。元々カリブ系の文化だったサウンドクラッシュが移民経由でブロンクス地区に輸入され、独自の解釈を経て死人が出ない抗争の代替案のような形で「DJ・ラップ・ダンス・グラフィティ」という根源的な4大要素が生まれた。彼らはブロックパーティーによってそれらのカルチャーを成長させていく。
彼らはその成長の過程で独自の思想を持ち、アフリカ・バンバータがゴッドファーザーとなりそれらの文化をヒップホップという名前で統合した。これらのカルチャーは後に言うまでもなくRUNDMCとエアロスミスとのまさかというコラボレーションで驚異的に浸透した。
悲しいことに90年代初頭の2大巨頭であった東海岸の2Pacと西海岸のノトーリアスBIGのいざこざにより実際に銃撃が起き、彼らはどちらも死んでしまった。直後から群雄割拠の混乱が起こったが、その中で勢力を伸ばしたのはメキシコ系移民の流れを汲む南部出身のクルーによるチカーノのラップスタイルだ。
時系列は前後するが、デトロイトはかつてフォード卿が世界で最初のベルトコンベア方式を採用し、世界初の量産型自動車「T型フォード」を生み出した自動車の街だった。だが人口密集と地価上昇によりそれらが安い郊外へと人々が流失し、街の中心であるはずの場所はスラムと化していた。そこでは伝説的に美しいモータウン・サウンドも生まれた。
そんな土地で生まれたのがなぜかどの曲も同じような機材で作られているデリック・メイらが生み出したデトロイトテクノだ。
彼らは後にシカゴ発のウェアハウスと合流するが、ウェアハウスの源流がゲイ・カルチャーにも根があったためにゲイやレズビアンなどを特に否定しなかった。それは我々がよく耳にするようなハウスとなりヨーロッパ全土まで普及する。レイヴの文化に象徴されるように、テクノやハウスは歌詞がなくても成立する。だからテクノやハウスは彼らを拘束しない。
前置きがやたら長くなってしまったが、要点はこうだ。
「音楽は必ず死ぬ。だが音楽は必ず蘇る」
そして次は必ず強力になって帰ってくる。俺たちのために。