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コラム:目的と手段

今日は目ぼしい記事が無かったので久し振りにコラムを執筆しておく。テーマは目的と手段という基本的な概念だ。

理系の大学では実験実習があるだろう。そして、多くの場合レポートを提出する。レポートの構成は「目的・方法・結果・考察」が基本であろう。私も学生の時分には意味無いなと思いながらレポートを作製したものだが、研究を長くやっている内に、この基本構成の重要性に気付かされる。

この「目的⇒方法⇒結果⇒考察」という流れは研究の、いや研究に限らずあらゆる物事の基本なのだ。この順序が逆転してしまった時、物事は必ず間違った方向へ向かう。そんなの当たり前だと思われるかも知れないが、世の中にはこの順序を守っていない事象の方が多い。実際の研究に於いても然りである。

まず最も多い過ちは目的と方法の逆転である。手段の目的化、という言葉もよく聞くだろうが、方法(手段)が目的となってしまうケースはあまりにも多い。研究に関して言えば、日々進歩する実験技術に対し、新しい技術を使ってみたいという方法の目的化が往々にして起こる。新しい機械を買ったからこれで何か実験してみる、という感じである。本来は逆の筈だ。この目的があるから新しい機械を買うという流れでなければならないし、目的に対してその方法選択は最善でなければならない。方法が先に来て目的を故事付けるというのは研究として最悪であるにも関わらず、その例はあまりにも多い。最近の論文でも、その研究でこの方法使う意味ある?というケースはよくある。生物学の領域だと単細胞単位でのオミクス解析が進歩しており、過去に既知の内容でも何でもかんでも新しい技術による解析を加えただけで、特に真新しい知見自体は無くても、論文として発表されていたりする。これこそ手段の目的化に他ならない。

より大きい視点で見れば、論文の発表もその例に該当する。論文というのは自分の研究を世に知らせる「手段」である。だが、論文を書く事が「目的」になっているケースが多いのは皆さん想像に難くないであろう。その様な歪みが上記の様な研究における手段の目的化を生み、科学の在り方を歪めているのだ。科学とは常に科学的な「目的」が先にあり、それに対する「手段」が適切に選択されなければならないが、それを忘れている研究者が大半である。一応述べておくと私の最大目的は常に「自己免疫疾患から人々を救う」という絶対的なものであり、研究も論文発表もこの様な啓発活動もその「手段」に過ぎない。核酸ワクチンや新型コロナウイルス感染の危険性を訴えるのもそのための手段である。

余談であるが、科学において最悪なのは結果と方法の逆転である。結果ありき(この結果を出すためにはどういう方法が良いか?)での実験程愚かしいものはない。だが、世の中(特に資本主義において)の研究は多くが結果を第一に考えて実験を組み立てている。目的や方法と結果すら逆転してしまっているのが最大の問題である。また、これらをひっくるめた考察の適切性というのは科学者にとって重要な能力である。何も考えず、文章やデータだけ見ていても正しい考察にはたどり着けないだろう。上記の様な視点があれば、良い研究と悪い研究はすぐに見分けがつく。

これを踏まえて新型コロナウイルスに関する一連の事象を眺めていくと、気付く事は多いだろう。何よりも核酸ワクチンの使用というのが、目的と方法を適切に設定した結果でない事はすぐに理解出来るだろう。より正確に言えば、広く掲げられた目的が欺瞞であり、本当の目的とは異なる事がよく分かる筈だ。核酸ワクチンを「手段」として見た場合、その目的は強力な免疫活性化剤の大量製造である。新型コロナウイルスが急速かつ広く広まったため、核酸ワクチンでないと製造が追いつかない。同時にRNAウイルスであるため、変異速度が速く、変異型への対応も追い付かない(もっとも核酸ワクチンでも追い付いていないが)。つまり、「やった感を出して新型コロナウイルスを無かったことにする」という目的の為に、多くの人間の健康を害する手段として使われたのが核酸ワクチンである。「重症化抑制」という目的であれば一定期間であれば達成されているが、「感染拡大防止」という目的には全く適していない。それなら感染対策の徹底が手段としては絶対に正しいのだ。同時に、核酸ワクチンの使用が「目的」になっているという手段の目的化も問題である。特に、米国の属国である日本においては政治的にその手段の目的化が顕著である。我々は常に「科学的な正しさ」のみに焦点をあて、目的と手段について正しい思考を続けなければならない。目的が健康の維持であれば、核酸ワクチンは否定し、感染対策を徹底するのが唯一の手段である。

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