第4回六枚道場感想
・感想というより分析のようになってしまうこともありますが、そういう読み方をしたというのも含めて感想のつもりです。
・途中から簡潔になってしまいましたが、単純に時間的余裕の問題で、好みの問題ではありません。
・Cグループに自作解説を載せました。長文&ネタバレですので、とばしたい人は目次から「自作解説をとばす人はこちら」をクリックしてください。
Aグループ
1.「ピンキーリリーの指の先」原里実
穏やかな口調で有無を言わせず妻の人格を否定する夫の描き方は、背筋を凍らせる。
私はともするとそのことに気付かず、無意識に自分を夫の所有物であるかのように思ってしまうDV被害者に多い認知に陥っている。
おもちゃはもちろん夫婦関係や子育てのストレスを紛らすもので、それを隠しているが隠していないと自分をさえ騙そうとする私。これは不満や悩みを共有できないが、その事実から目を背けようとする私の代償だろう。「八つも、という気持ちに加えて、たったの八つという、気持ちも」にそのジレンマが読み取れる。
前半で不穏な空気を醸し出して、後半は突然予言者が出てくる。唐突とも言えるがこの枚数で分かりやすくする工夫か。
「最後の瞬間は、大切な人と一緒に」と言われ、私は「世界、終われ」とSNSに書く。これは一種の受動的な自殺企図行為だろう。「荷担した」のは同じく世を倦む人々の企死念慮にか。もしくは世界の終わりにだろうか。しかし娘の泣き声で我に返り日常に戻る。あるいは最後の時を一緒に過ごすために、一番大切な娘のもとに急ぐ。
関係ないとは思うが、以前話題になった「日本死ね」を思い出した。
夫のいやらしさと私の追い詰められた思いが、子供向けのおもちゃという不釣り合いな小道具を利用することでひしひしと伝わってきた。
2.「過去形の言葉たち」紙文
紙文さんのことだからいろんなもの詰め込んでるんやろうなと思うが、わたしは深読みして勝手な解釈をする傾向があるのでなるべく素直に普通に読むとする。
冒頭の一段落、スピード感があるな。
お互いに正体を知らずにゆるく惹かれ合う男女が、そうと知らずに巡り会うが気付かないという設定自体は珍しくないが、両者の無為感の表現がとても良くて素敵。
女は自分が電車にスマホを落としていったことで間接的に男を死なせてしまったのだが、そのことを知らない。ただこれから二度とブログが更新されることはない。唯一の長続きしていたことを失い、また何事も2日と続かない生活に戻るのかな。二人ともかわいそう。
一段落目の「またか」は何を指すのか。後に「そうなるってわかっていた」とあることから、何度も死を繰り返すループものと取れなくもないが、毎日ある些細な不幸のひとつという意味の「またか」とも取れる。
つまらない人のブログを読んで自分のつまらなさの苦痛が和らぐという感覚は分かる気がする。絶望的な気持ちの時に幸せな小説など何の役にも立たず、とことん絶望的な小説を読むことで救われるのと似たものだろう。
3.「本文消失」一徳元就
またまた不思議なものを出してきたなとニヤけてしまった。
34ページ以上の小説の注釈から本文を推定せよということか。わけ分からんけど、駄洒落好きとしては好き。そして自分では絶対思いつかないし書けない。素直に感心する。
Bグループ
4.「週末エクトプラズム」伊予夏樹
おお。伊予さんこんなのも書くんや。
エクトプラズムというのは跳んだ発想だが、それが他人と違った個性と捉えると、人のビジュアルや能力や発達の偏りに対する社会の偏見への風刺といえる。特に姉さんにとって、週末にエクトプラズムが出ることは本質的には障碍となっていない。むしろそれが問題になるとすれば周囲の人間のとらえ方で、それは社会によって作られる障碍や問題であるということだ。
家族集積性があり治せるものでもないというところからは、姉さんは遺伝性のある特性持っているのではないだろうかと考えた。
週末だけ出るというのは、ウィークデーの学校生活ではなんとか人に合わせてその特性が顕在化しないように努力しているということだろうか。幸い家族内ではそれを否定されるわけではないため、あるがままの自分をさらけ出してリラックスできる。両親や語り手である妹もそういった姉さんのあるがままを受け入れている。
困難な人生を、実は陰で傷つきながらも平気な振りをして生きている姉さん。そんなお決まりの感動話になんか心動かされないぞと思いながらも、胸が熱くなってしまった。なんか悔しい。
遺伝性を考えると、もしかすると語り手も同じ様な特性を持っているのかも知れない。でもこの姉さんの強さを受け継いで生きて行けるのではないだろうか。
「なにかと「違う」というだけで他人をイジメたり差別したりする事が美徳だとされている社会」に強烈な批判精神を感じる。
5.「アイマイポラリス」中野真
いい。好き。
語尾がほとんど「た」で淡々とした語り口。見方によっては単調で技術的な難点とされるかも知れない特徴が、この物語ではとてつもない強みに感じられる。
不良っぽい先輩とも同級生とも好きな女の子とも、それなりにうまく付き合い無難な中学生活を送る僕。クラブではレギュラーで先輩にも可愛がられていて、どちらかというと他の同級生よりも幸せな環境かも知れない。しかし校則に対する不満、恋の戸惑い、同級生の間での何とも言えぬ孤独感などがうまく内包されている。恵まれているからこそ、不満を言えないという不満があるのだろう。
エアガンは万引きでなく買ったんやよね。万引に加担というのは、(万引きに使うための)紙袋を先輩に渡したから? でも「昨日万引きしましたよ」なのか。いや「買わなければならなかった」も「買った僕が手に入れた紙袋」も、買ったとは言っていないともとれるか。でも「万引きした」ではなく「加担した」んだな。「万引きしましたよと言ってみたかった」だけで万引きしたとは限らないのか。これは意図的に混乱させようとしているのかな。
僕はいつもツバリンに責められているみたいだな。なぜ? ツバリンが頭を剃られるのを静観していたから? ツバリンはみずき先輩と呼ぶ人を、ぼくはみーくんとあだ名で呼べるほど仲が良く取り入ってるから?
おばあちゃんをはねて死なせたのは結局関係ない中学生だったのか。このあたり、解読しきれていない謎が隠されている気がする。
「三秒間続いた魔法の接続時間」は好き。
「先生たちは「優しい」と評した。そのたび僕は傷ついた」に強く共感を覚える。この傷つきが、「残酷な僕」の存在をより強く意識させ、そこに気付いてもらうことへの渇望も引き起こすのだろう。
タイトルの意味が知りたい。
6.「踏切」澪標あわい
多分に詩的な作品。この作者は最初から一貫して表現美を追究している。その分、ストーリーが大きく動くタイプの物語よりも一場面を切り取り精巧に描写するというスタイルに徹しているように思う。
本作は吹奏楽部だろうか、多くの女性部員に恋愛とも憧憬ともいえるような感情で見られていた指導者が亡くなって、その葬儀の帰りに指導者への思いを夕靄の踏切で電線を五線になぞらえて一人想う場面と読んだ。
指導者は厳しいがむしろそれを恋愛の試練として受け止める少女。しかしその思いは受け入れられず、指導者はヴィオラの彼女を溺愛する。一方的な失恋の悲しみには、本来原因などないのかも知れない。しかし人は悲しみに対して「理由」を見つけて納得したがるものである。特に原因などなくても悲しいことは起こるものだという当たり前のことを受け入れられないのだ。それはマスクが品切れで店員に「隠してるんだろ」と詰め寄る客もそうだし、犯罪者の親が自分の育て方のどこが悪かったのかと悔恨に苛まれるのもそうだし、障碍を持って生まれた子の親が自分を責めるのもそうだし、瑕疵のない医療行為で亡くなった人の遺族が医者や病院を訴えるのもそういうことだろう。
この少女も自分の何が悪かったのか、どうすれば受け入れられたのかとあれこれ考えるが、すべてはもう確認のしようのないことである。その悲しみとやるせなさが淡々とした表現で語られる。
人はあまりに大きな衝撃を受けると感情が麻痺してしまう。「涙が出ない」ことがその衝撃の大きさを物語っており、穿った見方をするなら涙を流す部員たちが悲しむ自分に酔っているようにさえ見える。「幻想に語りかけること」を耐えられないといいながら、私が耳元に花を添えたのだと語りかける少女の気持ちが胸に重く響く。
指導者の死や葬儀は明言されていないが、以下のような表現から推測した。
「普段なら通らない踏切」=葬儀場からの帰り道。ちなみに踏切は永遠に交わらないことのメタファーか。
「制服を着て、部活でも休日でもない日」=喪服代わりの制服。
「(これまでで一番強く)何かしらの心情をとり出したい」=失恋以上の悲しみ。つまり指導者の死。
「眼鏡を外したあなた」「耳元の黒縁眼鏡:=棺桶の中の指導者の顔。眼鏡を外され耳元に置かれている。
「あなたの前で部員は皆」=教え子が集まって涙し、小声で会話する場所。つまり葬儀会場。
「そっと花を添えた」=火葬へ送り出す前の献花。
「焼却塔」=火葬場の煙突。
ただ最近の火葬炉は性能向上により高い煙突はほぼ立てられなくなってきたとのことなので、この話は一昔前のことだろうか。
Cグループ
7.「バラッド・オブ・ジョン・ヘンリー」ケイシア・ナカザワ
かっこいいなあ。ハードボイルド小説の一節を読んでいるみたい。一方で六枚という制約ではどうしても一部分を切り取ったように見えて、不全感が残る。それも作者の意図なのかも知れないが。
イースト・セントルイスはアメリカでも最高レベルの殺人事件発生率を持つ市。そこで起こった畜産農家の殺人事件を追う二人の刑事。バーの名前にあるブライアンは昔のアイルランド王の名前で、その子孫を意味するオブライアン(オブライエン)はアイルランド系の姓。さらに店長が最もメジャーなアイリッシュウイスキーであるブッシュミルズを拭いている場面から言っても、彼はアイルランド系アメリカ人であろう。犯人は彼一人ではなく共犯者がいるようで、太郎という名とジャパニーズ・ビーフ、吉田茂から、日本との繋がりが示唆される。
ジェイムズがすぐにレオンズ・アジアン・ダイナーに電話をかけたのはその時点でアジア人の関与に心当たりがあったからだろう。NOPの条文が外されているのは、オーガニック認証されていない肉を使うという意思表示なのだろうか。
この辺の知識は皆無なのでネットでポチポチ調べてみたら、古い記事だが2014年からの「日米での有機農産物規格同等性の合意」というのがあった。ただもともと日本の有機JASでは畜産物は規制していないので認定を受けていなくてもオーガニックを名乗ることができたそう。それを合意の機会に輸入解禁としたとか。ということは、この話は少なくともそれ以前、アメリカが自国のNOP認定を受けていない日本の牛肉をオーガニックと表記してはならない時代と言え、もしかするとその辺の有機農産物を巡る日米の利権に伴う争いに巻き込まれたのが、被害者のジョンなのかな。オブライエン=子孫というところからも秘密結社やマフィアや宗教団体のような疑似血縁関係で強く結びついたファミリーをイメージさせる。
アイルランドと日本との関係がよく分からなかったが、戦時中のIRA(アイルランド共和軍)は日本と親近関係にあったようだ。そもそもIRAの前身はアメリカでのアイルランド移民による秘密結社らしいし、戦後もアイリッシュ系アメリカ人による支援があったらしいから、オブライエンの組織はIRAと関係のあるアメリカの民間組織なのかも知れない。
刑事の一人ジェイムズは、イースト・セントルイスでかつて初の黒人市長となったジェイムズ・ウィリアムスと同じ名前だが、これは偶然かな。
いろいろとまだ読み解けていない意味を持たせているのだろうが、深読みしなくても映画の一場面みたいに楽しめる作品だった。
自作解説
8.「クジラの記憶」いみず
長くなって恐縮ですが、自作解説をします。
たくさんの方が感想を寄せてくださって感謝しています。小説としてしっかり読んでくださったので、これから種明かしをするとひょっとして怒られるんじゃないかとちょっとびびっております。
最初に。この解説では「答え」という表現を使いますが、この小説の読み方に正解や間違いがあるという意味ではありません。むしろ「答え」を問うべき「設問」の存在を隠した状態で、どこまで小説として読むに耐えるものを書けるかという試みでした。
さて今回の作品を読んで、本文中に出てくるものや展開や構成に違和感を抱いた方も多かったのではないでしょうか。これはある制約のもとに書いたということが関係します。
みなさんの感想の中では水野洸也さんの「物語というより、言葉の秩序からくる要請に基づいて書かれたもの」が一番核心に迫っていたように思います。もしかすると答えに到達していたのかも。他にもツキヒホシさんが指摘された「混沌」、紙文さんの「ばらばらにしか見えない」、小石川さんの「赤ん坊がオムツを取られて泣くのに違和感」といったところは制約から来る不自然さを的確に捉えられた感想と受け止めました。
その制約というのはあるものを小説で表現するということでした。そしてそのあるものとは一文字で解説できるものです。
では発表します。答は「π」です。
◆物語の企みについて
記憶術の基礎で、数字を語呂合わせにして物語を作って覚えるという方法をご存じでしょうか。今回の創作はその方法でどこまで小説として読むに耐えるものを作れるかという、多分に遊び心から発した実験という訳です。
もうお分かりだと思いますが、この話は円周率(π)を小数点以下百桁まで二桁ずつの語呂合わせで物語にしてみたものです。以下に数字と言葉の組み合わせを載せます。
3太陽(sun)/.点/14石/15囲碁/92クジラ/65老後/35珊瑚/89野球/79泣く/32ミニカー/38サバ/46城/26風呂/43染み/38サバ/32ミニカー/79泣く/50五円/28双葉/84橋/19一休/71ナイフ/69ロック/39桜/93草/75名古屋/10庵/58小屋/20庭/97宮内/49子宮/44獅子/59悟空/23文/07罠/81灰/64虫/06オムツ/28双葉/62浪人/08親/99救急車/86ハム/28双葉/03山葵/48シャツ/25双子/34差し/21封印/17イナゴ/06オムツ/79泣く
自分でやってみてなんですが、円周率泣きすぎやろとツッコミました。あと双葉も多かったのと、サバとかミニカーとかオムツを二回出すのや、一休やロックや悟空といった個性的なものをどう落とし込むかも悩みました。あと、完全ではないですが、極力これら以外のところで二桁数字の語呂合わせになるような言葉を排除したつもりです。
◆物語について
書き出したときはどんなストーリーになるのか予想もつかなかったのですが、書いている内に双葉、双子の印象が強くなって、畸形嚢腫の切除を受けるイメージができてきました。畸形嚢腫とはブラックジャックのピノコをご存じの方はお分かりでしょうが、もともと双子になるはずだった胎児の片方が胎内で他方に取り込まれ、腫瘍となって存在するものです。実際にはピノコのように人間の一揃いが残っていることはまずなく、歯だけとか髪だけとかです。
今回の話では、語り手はなんとなく人間の女性をイメージしていました。当然クジラと双子なはずはないのですが、ここはクジラにせざるを得なかった訳です。そんなツッコミ所は多々あるのは承知の上ですが、大雑把に物語を解説します。
まず自分の体内に本来双子として生まれてくるはずだった生命が存在していると知った女性が、その生命の孤独に思いを馳せ、かつてクジラが山に猪が海に住んでいたという伝説(これは宮月さんの指摘どおり)になぞらえて、山に残った孤独なクジラのように感じるというところを時系列の発端としました。
物理的には小さな腫瘤でも、初めて知った女性にしたらその存在は最大の哺乳類であるクジラのように感じられるほどの衝撃です。女性は生まれるはずだったきょうだいに思いを馳せ、自分だけがこの世に生を受け人生を歩んでいるあいだ誰にも存在すら認められていなかったクジラに同情と罪悪感を抱くでしょう。そしてそのクジラとふたりきりで過ごす空想の世界に浸ります。子宮と表現しているものは、文字通りふたりが育った母親の胎内でもあり、クジラを内包した女性の体内でもあります。そして最後に手術に赴きクジラである嚢腫は切除されてしまいます。しかし私の中には少なからぬ罪悪感や喪失感を残すといった感じの話にしました(というより、なった)。
◆創作の動機について
今回の試みを、実験、遊びと言いましたが、何故そんなことをしようと思ったのかを書きます。
そもそもBFCで主流だった幻想系の小説を、わたしは好きなのだがとても書ける気がしなくて、何故かなと考えると非常に理屈に囚われているのが原因だろうと思い至りました。幻想系の作品は、一見無関係な物事をうまく繋いで非現実的な世界観を作り出したもののように思えます。さらに本当はそれだけでない深みがあるのだろうから、やはり難しい。
それならせめて無関係な物事を繋いで物語を作ってみたらどうかなるのかという疑問が、そもそもの動機でした。そこで白羽の矢を立てたのが円周率という訳です。小学生の頃に百科事典を読んで五十桁は暗記したのですが、当時インターネットもなかったのでそれ以上の桁数を目にすることができませんでした。そんなこともあって、わたしは円周率に対してちょっとした憧れのようなものを持っています。
そして記憶術ですが、これは中学生の時に当時存在した「ワニの豆本」というシリーズで出会いました。そのせいで、休み時間のたびに嫌がる誰かに数十桁の数字を黒板に書かせて、それをそらんじて聞かせるのを繰り返す、ちょっとイタい子どもが仕上がりました。
こういった背景から今回の作品が仕上がったというわけです。
◆take-home message
記憶術のキモは語呂合わせを言葉で覚えるのでなく、五感を伴った物語で覚えるということです。今回の話では五感だけでなく、感情を伴うようなものに仕上げたつもりです。この物語を覚えてくれたら円周率を小数点以下百桁まで暗唱できるようになりますので、わたしのようにイタい人という評価を受けたい方は自己紹介や宴会のネタにどうぞご利用ください。
自作解説をとばす人はこちら
9.「橋が落ちる」夏川大空
高所恐怖症の男とさばさばした性格の女のカップル。男は恐怖症のために不安材料をわざわざ収拾して余計に不安になり、通勤さえも恐怖の時間となっている。平気な人から見たら滑稽でアホらしい行為にも見えるが、不安の当事者にとったら死活問題だろう。不安を引き起こす極端な予測は過大評価するくせに、自分の不安は過小評価して病院に行くほどではないと目を背けるのも周囲の人をうんざりさせる特徴で、リアリティがある。
ところが女は地震を怖がっており、少しの揺れでも足が竦むほど。「橋が、落ちる」は女の科白? 目の前にない橋が落ちることを恐れるのは何か特別なトラウマがあるのだろうか。「建築は無力」「それで建築基準法が変わった」というところからは、阪神淡路大震災を連想する。となると600メートル以上にわたって倒壊した阪神高速の光景を思い出す。あの時にそれまで馴染みのなかった「橋脚」という言葉が一般人に知れ渡ったんだっけ。女は震災の被災者か。もしくは当時の映像を何かで見て恐れるようになったのか。
そう考えると見方はがらりと変わってきて、女が橋が落ちるはずがないと男に説明するのも、実は自分の恐怖を理屈で否定することで自分を安心させようとする行為に思えてくる。そして頼りない男が、自分も怖いのにそんな女のトラウマを知りながら支えようとする結構いい奴に思えてくるし、不安症の男と一緒にいることで、女性も自分の不安を客観視することができるのだろう。いいカップルだ。
文法や言葉の選択でどうしても気になるところがあった。揚げ足取りのやな奴と思われる恐怖はあるし、わたしの間違いもあるかも知れないのだが、六枚道場はお互いに感想や意見を述べて高め合う場だと思うので、以下に列挙する。
・「言ってのける」の「のける」はやりにくいことを見事にやってしまうの意。ここでの女の科白は別に言いにくいことでもないので不自然と思う。
・2頁目真ん中の「エスカレーターは……爽快感のあるもので」の一文のなか、「吹き抜けの」がおかしい感じがする。「吹き抜けにある」とか「吹き抜けを通る」とかならいいんだけど。
・同じ頁の「よくよく周りを見渡し」も、「見渡す」は遠くを望み見るの意で、ここでは周りを見るのだから「見回す」などのあちこち見るニュアンスであった方がいいのではないかな。
・3頁の「アイスを取ってきた」は置いているものを自分で持ち上げて持ってきたように読める。買って、店員から受け取って、持ってきたんだろうからちょっと違うんじゃないかなと思う。
・「バック」は「バッグ(bag)」かな。
・地震の時女は歩けなくなったけど、エスカレーターを歩いて降りていたのかな。「二階に着くか否か」で揺れ出して、照明の揺れを確認し女を抱きしめるくらいの時間があれば、揺れている最中にもう下に着いていそうだが、収まってから降りたというのが時間経過に違和感を抱いた。
Dグループ
10.「空のひび」深澤うろこ
うーむ。テンポ、比喩、展開、すべてにおいて素晴らしい。中学生の時に放課後、友達とこっくりさんをやって呪われかけたことを思い出した。
「なにも起こらなかった。起こっていたのかもしれない」この肯定否定を並べる文は、曖昧や不思議さを醸し出そうとするあざとさと裏腹で、ともするとドヤ顔が透けて鼻白んでしまうリスクがある。しかしここでは、「どこかで。でも……」が後に続くことでまったく異なる印象を与えるのに成功していると感じた。
カバチさんとの付き合いや、「ふたりはさ、あの日泣いたの?ってことが聞けない」に、本音で付き合えない友人関係への警戒心が垣間見えて良い。人名がカタカナなのも本音を出せない記号化した関係性を象徴しているのか。
ただ名前を与えられて重要な役割のあるカバチさんが背景と同化しているのが残念に感じたが、それは読みの浅さかどうか。
11.「エラン・ヴィタール」あさぬま
米軍基地のある町の話?
「若々しさを騒々しく表現していた」は当事者の若者が感じることであろうか。若者は自然に生活しているだけでは。第三者の言葉としてなら説得力がある。
「僕のファットマンが暴発」で、作者の意図から外れたゲスな読みかも知れないが笑ってしまった。リトルボーイじゃなくて自信あるのねと。その後の「生をコントロール」も「なま」とかけているのかとか。「弱点を」以下は範馬刃牙の初体験を彷彿とさせる。すみません。「光の届かない場所で」以下の描写は好き。愛の営みを、戦いと同化の両面から描いたものかなと思った。
最後の妊娠は僕の様子からは望まないものではないと分かるが、計画的なものか、暴発の結果を受け入れたものかが分からず、明らかにしなければいけないわけではないと分かりつつも。不全感は残った。
12.「未完性短篇〈挽歌〉」蝶潤發
歯科のドアをくぐって待合室の老人と受付の女性を打って、すぐに診察室から銃声というので共犯者が診察室にいたのか、と思ったが違いそう。クロノが走って診察室に飛び込んだのか。ならすぐにドアから逃げるよな。そこでちょっと混乱。
リュックではなくアサルト・リュック、銃ではなくコルト、ブータン・ノワール、オスカー・ココシュカなどなど、ちょっと気障な印象を与える小道具がちりばめられる。ここはこれまでと一緒だが、作者名を変えているのは連作と読んで良いのかどうか。多分タイトル+<>と漢字三文字の作者名という形で同一作者とアピールはしているのだろう。
これまでの作品で敢えて不快感を与えて否定的評価を誘発させて、それを自虐的ネタに利用するという意図だったのだろうか。暴力描写は結構なのだが、それで何を描き出すのかがなければ単なる露悪趣味に終わってしまいそう。この作品ではどうなのか、わたしにはもうひとつ伝わるものがなかった。ポッキーを嫌がる相手に折らずに差し込むのは相当難しいと思う。前回の作品でも感じたが細々としたところでリアリティーをなおざりにしている感じが拭えなかった。
Eグループ
13.「幼女先輩について」水野洸也
語り手は何者か。「犬に扮する」と言っているが本当に扮しているだけなのか、本当に犬なのにそれを自覚していないのか。幼女先輩はお嬢様風の口調で語り手を連れ回す、思い込みの強い少女か、本当にお嬢様なのか。所業の幼さの描写がうまい。
年齢でなく経歴、腕力や戦闘力でなく実力、公園で電子ピアノ(電源は?)というところに全体が何らかの比喩であることを仄めかされているような気がする。
今はそれ以上読み込む余裕がなくてここまでにするが、ざっとした印象として幼女先輩というネーミングとそのキャラクター造形に成功していると思う。また語り手のキャラクター性も良い感じ。
14.「ギャラクティカ拉麺」小林猫太
これあり?? おもしろすぎ。
映像を文章化したような、このまま深夜ドラマの一場面にできそうな話。思いつきで書いたかのように見えるが実はかなり綿密な企みを持って書かれたのではないか。
何故天王星と海王星の順序が逆なのか? かつて太陽系の惑星だった冥王星は2006年から準惑星とされたが、それ以前の話という設定か。しかも1979年から1999年の間は海王星は冥王星の外側に位置していた。この話の雰囲気でそこに何らかの深い意図が込められているとは読みづらいがもしかして何かあるのか?
15.「Nothing」今村広樹
うーん。タイトルからして特に意味のない一場面なのかな。あまりどうという感想を持てなかった。
16.「にせものにんげん」千早とわ
思春期の想像と現実とを混同してしまう話か、構って欲しくてついた虚言が大事になって焦って否定する子どもの話かとも思ったが、先生の話があるので全体が不思議な世界の話なのだろうと思われる。どことなく密告を推奨するナチス時代のドイツや特高警察が闊歩していた日本をイメージした。
Fグループ
17.「ペリドットの瞳」草野理恵子
ペリドットは内外のネガティブな感情から身を守りポジティブにしてくれるパワーストーン。また火山の女神ペレの涙とも言われるものなので、熱線を出すのはその現れか。
語り手に目がないのは例えば自閉症のような他者とのコミュニケーションの障碍を意味するのか。「ほかの人の瞳が見えない」というのも視線を合わせられないことを表しているのかも。双子の姉の存在は母も知らないので、語り手の脳内に作られた多重人格的な存在だろうか。それがペリドットのやりとりで入れ替わる。ペリドットは、外界から目を背ける私が外と繋がれる、特定の手段のよう。オリバー・サックスの「妻を帽子と間違えた男」に出てきた、素数を言い合って遊ぶ自閉症の兄弟を思い出した。
姉が死んだあと、目はコガネムシになりペリドットは海で拾った石になる。膀胱炎では死なないと思うが何故膀胱炎を選んだのかはよく分からない。ただここでの姉の死は消失ではなく語り手との統合で、成長につれ人格の解離が薄れ一つになったために私の目も見えるようになったのだろうか。
最後、姉の葬式をしていないのは、必要であればまたいつでも姉の人格を作り出し私は目をなくして自分の世界に引きこもれるという安全弁をキープしているということか。
意味は全然間違っているのかも知れないが、全体にペリドットの輝きと不思議な私と姉の存在が感じられる美しい詩だった。
18.「砂漠の花」黒塚多聞
詩や歌を書くとは茫漠としたことばの砂漠の中に咲く、ただ一輪の美しい花を見つけるようなもの。見つかるという保証もなく、見つけたと思ったものも流れて消える。そんな気の遠くなるような、時には恨み時には愛することばとのやりとりを、生涯かけて続けていくという決意に満ちた連歌か。
確固たる意思を湛えた目で、ゴーストタウンや砂漠を歩く情景が目に浮かぶ。訴える力を持った作品だ。
19.「さんぽ道」乙野二郎
タイトル通り散歩の道すがら目に入るものと頭に浮かぶものを書き並べたものか。解釈して読むべきものではないような気がする。どの段落もあまり気持ちの良い感情を書かれたものではないにもかかわらず、全体に柔らかな落ちつく感じがあるのは文体の故だろうか。
最後の「おらたな」はどこかの方言だろうか、英単語の略語だろうかなどと思っていたが、先ほど作者のツイートを見かけて実は意味がないと知って驚いた。語感に対する感性が優れている。
「おちゆく太陽の半額が昼間を残している」はドキッとした。