平和の祭典=635万円と路上生活者
五輪は戦争やパンデミックによって中止や延期になる。つまり、五輪が開催できるということはその時代の平和を象徴する。そうだろうか?
635万円。開会式・閉会式・複数の人気競技の観戦に飲食サービスの付いたチケットの価格だ。ものすごく高い。だけど、先着販売から抽選販売になるほどの人気で、申込の専用サイトには31万を超えるアクセスがあったらしい。すごい。
路上生活者。オリンピックとホームレスには2つの側面で強い関連がある。1つは、新たな路上生活者を生み出すという側面だ。オリンピックを誘致するために、世界中から観客を迎え入れるために、都市の再開発が進む。企業や富裕層が土地を買い上げ、接収し、五輪誘致都市に”ふさわしい”街並みに改変していく。立派になればなるほど不動産価格は上昇し、それまでに住んでいた人々が払いきれない家賃になり、立ち退きを強いられる。いわゆるジェントリフィケーション。2012年のロンドン大会の際に表面化した問題だ。
もう1つは、元々そこで暮らしていた路上生活者が排除されるという側面だ。警備員に注意される。寝泊まり禁止の警告コーンが置かれる。ベンチの中央にひじ掛けが設置される。置いていた荷物が撤去される。地面に突起物が施される。路上生活は出来なくなる。とはいえ新しい住居もないので場所を移し、そこでも同じ目に遭えばまた場所を移し、転々として暮らしている。景観はきれいになる。片付いて、清潔に見える。
立派な建物が増え、何となくきれいになった路上を歩いて国立競技場に向かう。着いた先では必死に、純粋に競技に取り組むアスリートの姿に感動する。世界中の人が集う光景に感動し、思うかもしれない。「平和だ」。リポーターはこう伝えるかもしれない。「いよいよ、平和の祭典の開幕です!」。
私は思う。オリンピックを平和の祭典として満喫することが出来るのは、人知れず犠牲になった存在を知らずにいられる、震災とか洪水とかあらゆる苦しみを忘れることが出来る、遠い国の紛争は気にしないでいられる、限られたマジョリティなのではないか。世界中の全ての「平和ではない」側面とは「関係のない」大衆。少なくともこの国には人種差別も絶対的貧困もないと思い込み、日本は相対的に平和だと思っている大衆が、635万円のチケットを手に叫ぶのだ。「オリンピックは平和の祭典だ!」って。