ノイズキャンセリング
朝まで飲んだ日の帰り道に、AirPodsを落として失くした。地下鉄やその沿線やらを尋ねて回ったが、終ぞ見つからなかった。結構値の張るものだった記憶があるので、かなり落ち込んだ。
そんなうちに遠くに用事があって、久しぶりに東武線に乗った。
俺は小さい頃から聴覚過敏の気質があるので、電車に乗る時は基本的にイヤホンを着けている。安全装置のようなものだ。
イヤホンを着けないで生活していると、電車のアナウンスや空調の音、周りの小さな会話などの小さな情報が次々と押し寄せてきて少しソワソワしてしまう。
東武線の白地に青色の線が入った古い車両は、郊外のスーパーのエレベーターのような匂いで、緑色のロングシートは当たりの喫茶店みたいな座り心地がする。
車両はどんどん北へと走っていくが、窓の外には平地にPhotoshopのスタンプ機能で描いたように並ぶ住宅地が広がるばかりで、いつまで経っても変わり映えがない。
関東平野は狂気を帯びて平面的でどこへ行ってもコピー品の風景が広がり、その果てしなく広がる様はまるでこの夏から永遠に抜け出せなくなったかのような錯覚を覚えさせる。
都市部と繋がる列車の終着駅で、3両編成の列車に乗り継ぐ。
少しして途中の駅に停まったところで、ホームから一匹のトンボが迷い込んできた。
バリバリと音を立てながら何度も扉の前の蛍光灯に体当たりをしている。
乗客はまばらだが、真下にいた女性はそそくさと隣の車両へ移動していった。
次の駅で扉が開いてもトンボはその場にとどまり続け、俺が電車を降りる頃には蛍光灯の隅に静かに掴まっていた。
用事を終えて帰り道、車両の端の三人掛けの席のドア側に座っていると、発車寸前の閉まりかけのドアに一人の男が駆け込んできて、一番端の席に勢いよく座った。
気にせず携帯でニュースを眺めていると、空席を挟んで右側の席から嗚咽のような声が聞こえてきた。
驚いて右側をチラリと覗くと、男は右腕を顔に当てて声を上げて泣いている。男はポロシャツに短パンで、25,6歳くらいに見える。俺はなるべく気づいていないフリをしながら大して携帯を眺めたりしていた。
車両の端にいるので、真ん中の席にいる客はあまりこちらに注目していなさそうだ。事態を共有しているのは前の三席に座る客だけ。
前の席にはタイトなTシャツとダメージジーンズに身を包み、細い金のチェーンを首から下げた浅黒いおじさん二人と、その片方の奥さんらしき茶髪の女性が座って談笑している。真ん中に座るかかとを膝に乗せて足を組んでいる男は前の座席の異変に気付いているようだ。
降りる駅に着いた。男はまだ声を上げて泣いている。JRと接続のある駅なので、乗客の多くがこの駅で降りる。駅が近づくと座っていた客がドアの周りに集まってきて、こちらの様子を煙たげに覗いている。
ドアが開く。前の三人組も同じ駅で降りるようだ。降りるときに隣の男の様子を覗こうとしたその時、前の席の中央に座っていた男が持ち手のない鞄を片手に抱えながらおもむろに泣いている男に近づく。おじさんは泣いている男の肩を前からポンポンと叩きながら「にいちゃん、元気出しな」と明るく声をかけた。
その場にいた降りる客の視線がそこに釘付けになっていたと思う。視線の気配のようなものは、空気の音として伝わってくる。
泣いている男は背中で何度も頷き、細い声で「ありがとうございます」と言っていた。おじさん達は階段を降りながら少し笑い声を上げ、そのまま改札を出て行った。
耳を塞ぎ手元を眺めれていれば絶望的なニュースばかりがひしめいているが、そうやって遮られるノイズたちの裡に時折閃光のような風景があり、それらは未来への希望たり得るような気がしている。