モルカーのビジュアルから見る、反省と自戒。

本題に入る前に、きちんと前置きをしておかなければならない。

この記事は私こと筆者が、「PUI PUI モルカー」のビジュアルに、ある種のグロテスクを感じていることへの自己理解を深め、解説していく記事となる。

それ故、自然とモルカーというコンテンツを貶めてしまう可能性がある。

この話の本質は、私が何に起因してグロテスクを感じているかという、私自身の性質についてであり、
コンテンツそのものを否定する意図はないことを、先に述べておきたい。

熱烈なファンの方には申し訳ないが、この時点でブラウザバックをおすすめする。


▶︎有機物なのか無機物なのか

私はモルカーのビジュアルに対して、忌避感とも言うべき認識を抱いている。見出し画像にモルカーを採用したいと画像検索したが、正視できないほどである。

忌避感という言葉を調べてみると「ある人物や事柄を存在してほしくないとして避けること」とあるが、これは私がモルカーに対して抱いている「何か」を解説するのにピッタリな言葉だ。

流行は少し前の話になるが、その頃のTwitterはアニメが更新されるたびに、モルカーの話題が頻繁に上がってくるようになっていて、「モルカー可愛い」の風潮に、私はかなり苦しめられていた。

何故私は、一般的にかわいいと認識されているモルカーに、ここまで違和感を感じているのだろうか。

ここで、私がモルカーの何をそんなに嫌悪しているのか、その割合ともに列挙していきたい。

①見た目 90%
②動き    5%
③みんなが可愛いと認識しているものをそうでないと感じる自分 5%

私がかつてモルカーに対する忌避感を言語化したツイートを見てみると、そのほとんどが「見た目」に対するものであった。

どうやらモルカーの見た目、つまりキャラクターデザインに対して、ネガティブな反応を示しているようである。

ではさらに、見た目のどんなところが嫌なのかを挙げていこう。

①手足  80%
②目   10%
③運転席 10%

これもまたツイートを振り返ったものだが、手足に対する感想がほとんどを占める。運転席については、違和感を持つ人のツイートもたまに見られたため、他人も持ち得る反応と言えるようだ。

モルカーの手足は、モルモットの手足と、自動車のタイヤを融合させ、まるでモルモットの手足がタイヤであるかのようにデザインされている(いや実際そうなのだが)。

このタイヤは、まるで彼らの手足であるかのように自在に伸縮し、実際に人間の手のような扱いで表現されている部分も見られるのだが、

私はこれが「タイヤのような手足」なのか、「手足のようなタイヤ」なのかを判別することができず、強い違和感を感じている。

最初はこの2つに何の違いがあるのかさえわからなかったのだが、自己解釈を進めていくうちに、

モルカーが生物なのか機械なのか(モルモットなのか自動車なのか)、極論、有機物なのか無機物なのかが分からないことが、違和感の原因なのだと気付いた。


▶︎生物か無生物か

モルカーのいいところは、モルモットが持つ生き物としての可愛らしさに、車という人間の社会的機能を組み合わせることで、実に刺激的な風刺画を作り出すことに成功している点である。

可愛らしい見た目に反して、そのストーリーは実にスパイシーで、が 子どもが見るか大人が見るかによって感想がはっきり異なる。
大人になる程見方が変わるとも言え、その点とてもいい作品なのだと思う。

しかし、私にとってはその見た目の違和感が強すぎるが故、ストーリーを楽しむ以前に、デザインが受け入れられないという話になっている。

有機物なのか無機物なのか、そもそも生物なのか無生物なのかというところが気になってしまい、モルカーを「そう言うもの」として受け入れることができないのだが、

ではなぜ私は「生物であるか無生物であるか」にこだわっているのだろうか。

これについては、私の育ちであるとか、幼少期の学びであったりが関係しており、プライバシーの観点からあまり詳しくは話せない。

公にできる点で話せるとしたら、私自身が「典型的な理系脳/男性脳」であり、「結論を求めることを良しとする人間である」ということだろう。

私は元来、数学が苦手だ。しかし、自己紹介記事にも記載している通り、大学では建築学科を卒業しており、世に言う理数系出身でもある。

数学が苦手なのに理数系に進む、という一見矛盾した経歴の持ち主に見えるだろうが、実は建築学という分野は、既に技術として確立している分野を学ぶものがほとんどで、未知のものを発見・研究する分野は得てして、芸術的側面を伴うものが多い。

私はこの点、その過程がどうあれ、その結論を最速で得られるという部分が非常に気に入っており、数学とはまた別の側面で、建築のための勉強はとても好きであった。

逆に、未知のものを仮定するところから始め、その仮定を実証するために研究を重ねる、という勉強を非常に苦手としていた。

つまり私は、「それはAまたはBである」という、はっきりとした結論を得られる回答を好んでおり、「それはAでもありBでもある」という結論を併せ持った回答が苦手であるといえよう。

最近量子コンピュータが話題に上がると、この「重ね合わせの原理」が理解できず、頭の中が???で埋まってしまうのはこのためだ。

話を戻そう。

モルカーは生物なのか無生物なのか、という問いへの答えは、おそらく「生物でもあり無生物でもある」というのが正しいだろう。

彼らは生物としての感情や活動を持つ一方、無生物(機械=自動車)としての機能的役割も同時に担っており、重ね合わせの回答が適用されるように思う。

この、どちらでもありどちらでもない、という状態が非常に苦手であるが故に、私はモルカーに対してグロテスクさを感じているのだと思う。

それは「結局どっちなんだ!」という感情を叫び出しそうになるくらいには、強めの感情を抱いている。


▶︎気をつけなければならない「思考のクセ」

飛躍した話になってしまうが、この「結論を求める」という思考は、今後の人生を歩む上で気をつけなければならないクセだと感じている。

LGBTQなど、様々な多様性を認めようとする現代社会において、私のような二元論的思考を持つ人間は、時代遅れになり、やがて差別的になっていく恐れがある。

それが発言や文章といったアウトプットに表れなくとも、今回モルカーから感じたような「異様さ」は、社会や人間そのものに対して向けられる危険性があり、自分自身を追い込む一因となってしまうだろう。

かなり大袈裟な話ではあるが、可能性としてなくはない。

気付いたからには気を付けていくべきだし、こうして文章を発信している立場上、自分のアウトプットが自分の意図しないように受け取られる可能性があることにも、十分配慮していかなければならないと感じている。

まさかあんなに可愛らしさを企図して作られたデザインから、自分自身の思考のクセに気付く日が来ようとは。きっとデザインを担当した関係者の方々も、予想だにしない影響だろう。

これまで無闇に「モルカーはキモい」などと発言し、周囲に不快感を与えている恐れがあったため、一度しっかり言語化してみようと今回の記事を書くに至ったのだが、それでも不快に感じた方はいらっしゃるかもしれない。

最後にそういった方々へのお詫びを記し、今回の記事を終わりたいと思う。


▶8/13追記 「不気味の谷現象」について

記事の公開後、記事に寄せていただいたコメントから「不気味の谷現象」という言葉を教えていただいた。wikiを検索してみると、以下のような文言が見つかった。

対象が実際の人間とかけ離れている場合、人間的特徴の方が目立ち認識しやすいため、親近感を得やすい。
しかし、対象がある程度「人間に近く」なってくると、非人間的特徴の方が目立ってしまい、観察者に「奇妙」な感覚をいだかせる
不気味の谷現象を生じさせる原因として論じられている仮説のひとつに、人は定位が欠如しているために、その正体が確定できないものに対して、恐怖や嫌悪を感じるという「分離困難仮説」がある。

例えば(中略)犬のぬいぐるみに異なる動物のパーツを合体させた画像に不気味さを感じる、など、人間とロボットの組み合わせに限らず、人は分離困難なものを回避する傾向があり、未知のものを避けようとする人ほどその傾向が強い、という研究結果がある

(いずれもwikiより引用)

文章を読めば読むほど、私がモルカーに抱いている違和感の正体を言語化してくれているように感じた。

私はどうやら、「モルモットという生き物と、自動車という機械の組み合わせ」に対して、「不気味の谷現象」を得ていたのだと思う。

本文ではかなり飛躍した結論に着地してしまったが、私が抱いているこの感覚が、ある程度普遍的な感覚であることに少し救いを感じてしまったことを追記しておきたい。


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