死にたさとペルソナと分人主義
死にたさ
ってなんだと思いますか?
人は必ず死に向かっているのだから、求めなくても、やってくる。
それでも求めてしまう人がいるのも事実。
苦しさからの回避なのか?
ペルソナ
商業的になにかを計画するとき、だれを相手にするか、ペルソナを決めて進めていくとよいと言われる。
あの人はこのペルソナ、この人はこのペルソナという仮面である
他者から仮面を被せられていのだ、そして資本主義社会はそのペルソナを被せ続けたがっていて、やがて我々はその仮面になってしまう
分人主義とは
分人主義とは個人主義ではなく、ひとは色々な人の前でことなる自分であると言う考え方だ。
一個の固定した、分割できない個人ではなく、人それぞれに対して自分と言う存在が現れてくる。
まるで量子力学の観測によって粒子が出てくることととてもよくにている。この話しはまたいつかしたい。
結局われわれはわれがなにかというのはわからないはずなのに、わかりたいと思い、そしてこれが我だと思うものに近いものになろうとしたり、人から被せられた仮面を我だと思ったり、教師や親や好きな人が見ている分人を自分だと思い、自ら仮面を被りたがったりする。しかし、やがてずれを感じ始め、死にたさを感じるのだろう。
だれも我がなにかをわかったことはなく、あくまでもあるのはその人がたどってきた軌跡である。時間的軌跡の中で他者から観測された自分があるだけで、今だかつて、そしてこれからも他者から観測された自分が自分であり続けることはない。ただの人生のゴミである。
そのゴミからあなたはこうだあーだと言われて
そうかもと思い始めるから息苦しくなり、死にたくなるのだろう。
もっと自由にまだなにも作られていない白紙の世界に自分の軌跡を描いたらいい。そしてその評価は自由である。あくまでも観測結果でしかなく、我らが大事にするのは今、ここである。今を生き、また今感じているものをもっと大事にして、生きたらいい
ただそれだけだ
次を担う世代のために、リモート稽古のために空手着や道具作成やリアルな稽古出張のために使います。