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斎藤県知事と熟年離婚

タイトルからしておかしいが、
すべすべというゲームでランダムの二つの言葉を繋げてそれは同じである、というゲーム


なんかおもしろい

斎藤県知事

斎藤県知事はいま話題の兵庫県知事でパワハラ疑惑というより、百条委員会メンバーもパワハラであるとはっきり言う人もおり、社会的にきっとパワハラをした人となりうるだろう

一方、斎藤県知事は引き続きそんなつもりで言ったわけではない、コミュニケーションのずれであるときっといい続けるだろうし、もしかしたら百条委員会で認められたらそうかもしれないぐらいで認めるかもしれない

ただし、きっと死ぬまで斎藤県知事のわたしはパワハラをしたと思うことはないのではないかと思う

これによって誰かの希望を打ち砕きたいとかではなく、自分の発した情報が一人一人にたいして誰にどう伝わるかを把握することはかなり難しいことだからである

いまの時代、ものを投げたり、机を叩いたりしたときに、概ねどう思われるかという最大公約数的には脅迫的には捉えられる

しかし、本人は右手を上げたレベルと解釈したりする
そのときの彼の気持ちとしては何か追い詰められた感じになりそれを発散する動きだったと言うレベルであり、彼自信含めて解釈としてはある傾向はあったとしても100人いたら100通りの解釈だろう

アンケートに応えた委員会で回答した人の中にはストレスに強いからそれをパワハラと言ってよいかわからないと回答している人もいるように、細部のニュアンスとなると一人の中で様々な解釈がありそして最終的な結論を導くためには定義が曖昧だと結論付けられないだろう
ハラスメント系の解釈の一つにどう思ったかどう感じたかという感受性というとてもあいまいものを基準とする必要が出てくる

熟年離婚

お互いに好意をもち、そして一緒に生活をしていくことを決めた二人が子育てが終わり落ち着いたときに、全く価値観が違うこと、たどり着いたゴールが違うことに気付く
こういう子を育てるつもりじゃなかった、お金はもっとあるはずだった、
そして残りの死ぬまでの時間、どうするかと考えたときに、諦めもあるが、実は諦めるにはまだまだ長い時間があることに気付いてしまう

では新たな出発をしようとしたとき、新たな目標を見つけて出ようとしたときに、出発地点も違う、さらには向かうゴールも違うとなったら、どこにもたどりつけない

子育てが終わったときのゴールの違いは県知事と市民と似てるのではないか

お互いにいい市に、なっていてほしい
でもたどり着いた場所はそれぞれ全然違うところ

そして離婚する

としくは辞職かルールはわからないが県知事側としたら無理矢理やめさせられる形になるのだろう

感受性問題の根の深さである

一方で感受性が揃っていたら、すらすらと物事が進みやすいのも事実だろう

この感受性は一朝一夕に変わらないし、生まれもったものもあるし、一生涯変わらない側面も強い

次を担う世代のために、リモート稽古のために空手着や道具作成やリアルな稽古出張のために使います。