Why learn? とWhat wanna learn, and Why?は違う
高校生たちの哲学カフェに参加した。第一回、第二回と案内人をしたが、今回は、半分以上案内などする必要もなく、自分たちで場を整え、話を深めていった。私は置物とかせる幸せを噛み締めていた。
参加して、長年の課題意識について私にも大きな気付きがあった。
「なんで学ぶのか」についてである。
今回、声掛け人の高校生の問題がそこにあり、テーマになっていた。まさに「そこ」に気付きがあった。
日本語で「なんで学ぶのか?」と訊かれたら、「Why」はもちろん、厄介なことに「What」や「How」の疑問も含まってしまう。つくづく、文脈依存の言語である。
だから、学ぶ意義が空虚になり、一年フリーターをしていたときに親に「なんで学ぶのか?」と問われてなんだかうまく答えられなかったのが今ではよくわかる(その時は「生きるための羅針盤を探している」と答えた。あながち間違ってはなかった)。
多分、「何を学びたいのか?」という「What do you want to learn?」の意味も聞かれていたのに、私は常に「Why do yo learn?」の意味でしか受け止められなかった。だから、「学ばなければ死んでしまうからだ!」としか言い続けられなかった。
振り返ってみると、私は、常に「What」の視点の想定(想像、もしくは言語化)が甘い。客観的でない、と言われる要因ややりたいことがなかなか人に伝わらない要因はここにも根っこがありそう(田口ランディさんがおっしゃるビジュアライズのお話にもおそらく通じる)。
注意散漫で、悪食で、飽き性で、天の邪鬼で、という役満からか、これまでじつは「何を学ぶのか?」はほとんど考えてこなかった。考えたとしても「フリ」だった。
「なんで学ぶのか?」に躓いている人は、「何を学びたいのか?そして、それは何故?」という問に一度ステップを下げると、見えてくるものがあるのではないだろうか。
ここから先は
¥ 100
本文は基本的に無料です。読み終わった後、ちょっとでも「はっ」とするものがあったら、「投げ銭」をお願いします。本を購入する資金にします。その数百円が、かけがえのないものになります!