そのキャッチフレーズには「タイ」が抜けている
先日の哲学カフェのレポートを書いている。元高校生と、現高校生の5人で行った。
今日は私は案内人をすっかり降りて、参加者にお任せして、傍観者になっていた。
なので、内容のレポートというよりは、この状況そのものから考えたことをちょっとつづろうと思う。
今回のてつがくカフェのメンバーは、H先生を呼ぼうの会、というプロジェクトメンバーであった。高校3年生、高校2年生、中学3年生の学年をまたいだメンバーで行っていたプロジェクトで、無事H先生をお迎えした後、高校3年生が卒業し、ふわっとしている状態であった。
ある日、このコロナの中でもやもやしているかもと思い、H先生を呼ぼうの会のメンバーとオンラインで対話会をしてみようかと思ったのがきっかけだ。高校3年生のメンバーは私とずっとてつがくカフェをしていたメンバーでもあるので、もやもやを対話する土壌はできているだろう、と思ったのだ。
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さて、私はこのコロナでの「勉強の困難さ」というのは、はまる子にとっては、非常にありがたい環境なのだ、と思っている。現場でどうやって児童・生徒・学生へ学ぶ環境を整えようかと奮闘していらっしゃる関係者の方々の努力や志はもちろんのこと、「学ぶことへの選択性」が格段に上がっているのではないかと感じたからだ。
「やらなければならない」ことの「強制力」はコロナが流行する前に比べて断然に弱まっている。ならば、このスキに自分のスキをを突き詰めるいいチャンスなのではないだろうか?
自分の子供のころを振り返ってみてもそうだが、「自分が何を好きなのか」について、じっくりと吟味し、試す時間というのはなかなか用意しにくい。いや、正確には「ある」のだが、自覚がしにくかった。
子どもの中での「やらなければならないこと」など、大人になってから振り返ってみると「ああ、なんてたくさん自由時間があるのだ」と不思議と思えてくる。なぜ、子供のときに「自分のスキを突き詰める」ということが難しかったかというのをあえて言い訳すれば「自覚」がなかったからだと思う。
目の前のテストに一生懸命にならねばならない、受験に合格しなければならない。
勝手に自分の視界を閉じて、見えなくしていた。
いま、「学校に行かねばならない」は多くの子供たちがなくなっている。家に閉じこもりきりで友達ともろくに遊べず、何をしていいのかわからず結局いつもと同じように時間を無為に過ごしてしまう・・・という子どもも多いのではないかと勝手ながら推測している。
「ならない」がなくなったいまが、「やりたい」を湧き出させる最大のチャンスだと思う。
この状況下で、ドリルや教科書読み”だけ”を「課題」とするところは、言葉が悪いがセンスがないと思う。
じっくり考えられる今だからこそ「生きるって何だろう?」とか「自分のスキなことについての検証と実践とレポートを」なんて、ちょっと遊び心がある「課題」を出してもいいのでは?人生のその時期に考えたい「課題」ってもっとたくさんあると思う。
「このコロナの状況での情報を集め、今後の収束の予測とそのための対策を考えなさい」とか、今しかできないし、かなりスリリングな、面白い「課題」だと思うけど。
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このコロナでの教育の現場では、「学びを止めない」がキャッチフレーズになっている。
ただ、どうしても、これだけだと私は、大人側の独りよがりをどうしても感じてしまう。「学び」というのはこちらが規定するもので、与えなくては駆動しないのだ、というどこかおごりを感じている。これを思う私がおごっていないかというとそんなことは全くないが。忘れている側面を考えてしまうのだ。
「学び」は名詞である。なにか用意されたパッケージとしての「もの」を想起してしまうが、そうではないはずだ。
たぶん、これは、「タイ」が抜けていて。
「学びたいを止めない」なのではないか。
子どもの、もっと言えば大人も、人間の「学びたい」を今こそ止めない。
そんなことが大事じゃないかな、と、目の前でゆっくりと、相手を尊重しつつも自分の意見・考えを述べていく頼もしい若者たちを見守りながらそう思った。
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